1-(9)
「わかったよ。仕方ないから今日のところは我慢する」
長時間の一悶着がありながら、「友達になったばかりの人は一緒に寝ない」という言葉にどうにか彼のほうが理解を示してくれて、別の部屋を案内してもらえた。
安堵して、けれどひとりで住んでいるように見えるのに、別の部屋がまだ余っているということに驚きもする。来客用だという部屋に、これまた来客用であるらしい布団を敷いて横になると、一日の疲れのようなものがどっと押し寄せてきた。
重石をつけて海に放られたみたいに、身体がみるみるうちに背中から沈んでいく。やわらかな布団の魔力はおそろしい。ひとりになって、清潔なシーツの上に身を横たえてようやく、私はひと息つくことができたような気がした。
今日はひとまず寝よう。思って、ふっと目を閉じる。
とたん、無音がつま先から全身へ這い上がってきて、そのあまりの静寂に息が詰まった。
自分の少し速い心音が、暗闇の中でいやによく響く。
紛らわせたくて寝返りをうった。眠ろうとしてふたたび目を伏せる、けれど音のない部屋で目を閉じると、数時間前に見た燃え盛るわが家の憐れな姿が脳裏にまざまざとよみがえってきた。ぼろぼろとあっけなく崩れていく家屋も、炎の熱も気管を詰まらせるような煙の苦さも、もうそばにはないのに、はっきりと思いだされる。
つい数時間前のことなのだから、思いだせるのは当然か。自嘲しながら、ふり払おうとするのになかなかうまくいかなくて困った。疲れているし、眠りたいし、眠いのに。瞼を下ろせば泡のようにつぎつぎに浮かび上がってくる光景に、やがて眠気まで燃やされていくみたいだ。
虹さんと話しているあいだは、現状を直視せずに済んでいたのかもしれないと気がつく。
私は携帯を手にとった。
まるで当然のようにだれからのメッセージも入っていないし、なんの通知も入っていない。充電が残り少ない携帯の画面をじっと見やって、そして手離す。
閉じた眼裏で、父と母の顔を思い浮かべようとした。けれど、どんな顔をしていたっけ、と、うまく思いだせなくて軽く衝撃を受ける。二十年同じ家で暮らしてきた両親なのだから、顔がわからないなんてことはさすがにないのだけれど、ここ最近に浮かべていた表情だとか、顔の皺とか、そうした細部がどうにも描けない。
ふたりはここのところはひときわ忙しそうにしていて、たまに家にいるところを見かけても、こみ入った話をすることはなかった。せいぜい「おはよう」とか「ごはん食べる?」とか、そうしたあいさつや些細な会話ぐらいだ。父と母同士もまた、向かい合って座りながらも言葉少なで、ほとんど口をひらくことなく仕事関連と思しき書類と睨み合っていた。意図的に見ないようにしていたので、詳しいことはわからない。
家族で最後に会話らしい会話をしたのは、いつだっけ。
医者をやっていた両親は、私が小さなときから忙しそうだったし、かかわり合いが少なくて、幼いころはさびしい思いをすることも多かった。けれどまさか置いていなくなるほどの薄い情だったのか、と乾いた笑いがこぼれそうになる。残されていた二万円のことを考えた。封筒に印刷された〈お誕生日おめでとう〉の文字。ささやかな贖罪のような誕生日プレゼントだ。彼らは、私の欲しいものなど想像しない。
両親が忙しそうにしていた理由も、私を置いていった理由も想像がつく。けれど家が燃えていた理由だけは、どうにもわからない。
『——この番号は、現在使われておりません……』
そのアナウンスがまだ耳許で鳴っているような気がした。現在使われていないらしい父と母の携帯番号は、暗記しているので電話帳を見なくても諳んじることができた。手を離してもまだ光の点っていた携帯の画面が、ふいにブラックアウトする。ロックがかかったのではなく、電池がついになくなってしまったみたいだった。モバイルバッテリーは持っていたっけ、と鞄へ手を伸ばして、端末の差しこみ口にケーブルのアダプタを突き刺した。
だれとも繋がらない電話を握っていても意味がない。
電池があってもなくても同じだ、だれから連絡がくるでもない。そう思うのに、充電をして、ちゃんと使えるようにしておこうと動いているのがおかしくて、さびしかった。さびしい、などと、考えることはもうほとんどなくなっていたはずなのに。ひとりになってやっとひと息つけたと思ったけれど、ひとりでいるとそれはそれで、きりがないほどに、不安なことや嫌なことばかり、いくつも考えてしまうと思った。
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