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だけど、当然というべきか、問題は山積みだったし私はもうこれ以上あるのかと思うぐらいには擦り減っていた。
虹さんは私に、ここが今日から私の家だ、と言った。それで本当にいいのか——私にとっても、彼にとっても——疑問が拭えないけれど、ひとまずはその厚意のようなものに甘えることにして、よろしくお願いします、と頭を下げた。
けれどただ間借りするだけというのは申し訳ないので、家事を担うことをあらためて申し出た。なにもしなくてもいいんだけどな、と虹さんは首を竦めたけれど、私の気がおさまらないと返したら「天使に労働させるなんてなあ」と意味のわからないことを口にしつつもそういう交換条件として、了承をした。
虹さんは、私に住む場所を提供してくれる。
私は、この家で家事全般を引き受ける。
話がまとまったところで「そろそろ寝る?」と問われ、ひとりで暮らしているにしては広い室内を案内された。
「寝室はこっちね」
そう言って、虹さんは部屋のドアをひらいて私を招き入れた。ベッドに腰を下ろした彼は、ひとつしかないベッドのかけ布団をめくって、どうぞ? とその両腕を広げる。
「え?」
「おいで?」
「は?」
手を握られ、私はとっさに部屋を見まわした。書斎机とそれに合致するデスクチェア、本棚、シングルベッド。リビング同様に片づいている、その最低限で構成されているような部屋が、彼の寝室なのだとすぐに見てとれた。誘導されるがままだった私は、そこでようやく状況に気がついて、あわてて、手をふりほどく。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「うん?」
「ここは、虹さんのお部屋、ですか」
「え? そりゃね。他人の部屋で俺が住んでたら怖くない?」
「そうじゃなくて」
だとしたら私も他人の部屋に紛れこんでいることになるではないか。さすがにそんなことは想像しない。
「まさか、一緒に寝る感じですか?」
「うん? ほかに選択肢があった?」
「……いやいや」
「いやいや?」
思わず乾いた笑いをこぼすと、「いまの顔、悩ましげでセクシーだった」などと血迷ったようなことを言いはじめたのでますます頭をかかえたくなった。
「む、無理、です」
「無理って?」
本当にわからないみたいに、虹さんは濁りのない無垢な目でこちらを見つめる。すらりとした痩躯に自然と見下ろされる形になった。
「……あー、私、あっちの部屋にちょっと忘れものを」
「忘れもの? とってきてあげるよ?」
「いやっ……えーと、すみません、勘違いでした」
「そう? じゃあ寝ようか」
ぐ、と手を引かれる。
「あ、その、待って、えっと」
パニックになって、とっさに「嫌です」とつよく口にしてしまった。
ぴた、と彼の動きが止まる。
「……いや?」
子供みたいに首を傾げられ、澄んだ瞳がこちらを射抜いた。
「あ……」
嫌? と私に問い返した目が、蛍光灯の光を四方へ反射する。
「わ、私、あの、」
これ以上言えばその瑕疵のない瞳を傷つけてしまいそうな気がして、私はぎこちなく言い澱んだ。
「その……む、向こうで、寝ます」
「向こうって?」
「……そ、ソファーとか?」
部屋はどこもかしこも暖房であたためられているから、毛布さえあればソファーでだってじゅうぶん快適に眠れそうだった。一緒に眠るよりはいいだろう。そう思って言ったのに、
「え、一緒に寝ないの」
さも予想外というように、彼は目を丸くして重ねて私に問うた。
「私はどこでも寝られるんで、えっと、お構いなく……」
「だめ」
また手を、今度はさっきよりも強く、ぎゅっと握られた。
そして抱き寄せられ、その胸許に息を塞がれる。
そのせいで一瞬呼吸が飛んで、思考を止められている間に、身体を誘導させられた。
「ソファーで寝るなんて風邪引いちゃうし、身体も痛くなるよ。ほら、ベッドに入って」
はっとして、必死に抗う。
「や、本当に、いいんで。大丈夫なんで」
抵抗するようなことを言いながら、でも、と暗澹とした気持ちもいくらかよぎった。抵抗、なんて。私はできる立場ではないのかもしれない。状況のすべてにほとほと参って疲れきっていたとはいえ、のこのこついてきたのは私の意思でもあるのだ。一丁前に意見を述べたり、希望を主張したりなんて、そんな資格はないのかも。彼の言うとおり従順にふるまい、彼が望むのであれば、私は同じベッドに入るべきなのかもしれない。
それでももがきながら、どうにか言葉をとりだした。
「と、友達になったばかりの人は、一緒に、寝ません」
すると虹さんがまた動きを止めた。
「そうなの?」
「そ、そう。そうですよ」
「じゃあ仲の良い友達になればいいのか」
「そういうことじゃ……」
「うん? いますぐ恋人になってくれる?」
「そういうことでも……」
この人との会話は、かなり難しい。
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