1-(7)
それから男は、すでにぬるくなってしまったピザを、冷めているのを気にした様子もなく口にしはじめた。そして食べ終わるころになってやっと、私たちはめでたく(めでたくはない)「お友達」からはじめることとなってしまったのに、私は彼の名前も知らないのだと思いいたった。
彼のほうは、なぜか一方的に私の名前を知っているというのに。
「あの、そういえば」
気づいて名前を訊ねると、男はつやめいた唇でからかうみたいに笑った。
「なんだと思う」
わかるはずもない。私はため息をついて視線を外し、立ち上がって食器をシンクに運んだ。戻るときにふ、と室内を見ると、本棚に収納されている本の、背に印刷されている文字が視界に入った。
棚に挿してある本のひとつひとつにその名が印字されていて、同じ名前ばかりが隊列のように並んでいるものだから、目に留まったのだった。ハードカバーと文庫本がきっちり分けられて並んでいる棚を、まじまじと見る。
久賀野楓夏といえば、若者を中心に人気を集めている話題の作家だった。著作はいくつか実写映画化やコミカライズ化もされていて、私は原作を読んだり映画を観たりしたことないけれど、それでもその名は知っている程度には、著名な存在だった。デビュー作は、病に伏せって心を閉ざしている少年が陽気な少女と出会って希望をとり戻していく、みたいな、携帯小説なんかでありそうなお話だったはずだ。私が知り得ているのは、クラスメイトの会話やテレビで流れる宣伝などで聞きとったそれぐらいだけれど。
私が目を止めたことに気づいた男が、ピザを食べて汚れた手を洗ったのちに、こちらに近づいてくる。
「久賀野楓夏、お好きなんですか」
「うん? あ、それ俺」
彼はこともなげに言うと、自然な動作で私の隣に立ち、本の一冊を無造作に抜きとった。
「……ええ?」
手にとられたハードカバーの書籍と男の顔を、交互に見やる。
「……久賀野楓夏、さん?」
それが名前なのかと訊ねる意で口にすると、「ペンネームだけどね」とあっさり返された。
「小説家さん、だったんですか」
「一応?」
「一応、なんてものじゃ……」
本棚におさめられているその著作は、おそらく十冊以上はある。それだけ書籍を出版していれば、それはもう「一応」などではなくれっきとした小説家なのではないかと思われた。見てもいいですか、と断りを入れ、一冊棚からとりだすと、巻かれた帯にキャッチコピーがついている。
〈その日ぼくは天使に出会った。〉
ファンタジー小説、なのかな?
私はふたたび男を見上げた。彼の手の中にある本の帯には、〈何度生まれ変わっても、きみを見つける。〉と書いてある。そちらははやりの転生もの? なんだろうか。
「どうしたの?」
私は疎いけれど、きちんと流行を追っているあたりやはりプロなのか、などと考えていると、彼は顔をほころばせ、やさしく首を傾げて私を見つめた。前世で恋人だったなどと口走る形の良い唇は、精緻を極めた美術品のようにうつくしい。
——もしかすると、彼は空想と現実をごっちゃにしてしまっているのだろうか。小説のキャッチコピーを反芻しながら、私はふと想像した。創作の世界のことも現実だと思っているから、前世がどうだとか言って聞かないのかもしれない。私はなかば強引に自分を納得させて、かなり横道に逸れてしまった議題を、ふたたび口にした。
「それで、本当の名前はなんなんですか?」
男はなおも当てさせようとしたけれど、「じゃあ久賀野さんって呼びますね」と言うと、「嫌だ」と即答した。なぜ。自分で決めたペンネームではないのだろうか、不思議だけれど、久賀野さん呼びはよほど嫌だったのか、彼はあっさりと本名をうち明けた。
「
彼は息継ぎの隙間に紛れこませるように、自分の名前を口にした。
「久我山さん」
そう呼べば、だめ、と間髪入れずに訂正を入れられる。
「虹って言って」
ピザを満腹まで食べて疲れていた私は、これ以上この人と言い合う体力がないと思って、わかりましたと頷いた。
まあ名前を呼ぶぐらい、別に減るものでもないし。
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