1-(6)
だけど目の前の男の人は、いつまでたってもいっこうにピザを食べようとしなかった。このままでは私が全部食べることになってしまうのではないか、と焦りのようなものが芽生える。Mサイズのピザを一ホールまるまるひとりで食べ切れるほどには私は胃が大きくないし、冷めればおいしさが半減してしまうだろう。一緒に食べてくれないと困る、とふたたび顔を上げれば、熱烈な視線をよこすうつくしい瞳が。
「天」
食べないのかともう一度問おうとしたけれど、男のほうが先に口をひらいた。彼はその、毛穴のひとつも見あたらないような白くてつややかな手をこちらに伸ばして、ピザを手にして油分でべたべたの私の手の、甲にそっと重ねた。
お風呂上がりの私の身体はあたたかく、それと相反するように、冷たい手だと思った。
「へ、」
「やっと会えて、うれしい」
なにか噛みしめるみたいにつぶやかれた。重ねられた手に、ぎゅうと力がこもる。つややかな手の感触や、ひやりとしているその体温に心臓が跳ねた。室内はあたたかいのに、まるで冷蔵庫からとりだしてきたような手だ。
汚れますよ、と頭の冷静な部分で思って、けれど人肌と、思いがけない力づよい手の圧に動揺した思考の大部分ではそれどころではなかった。言葉にならない声を飲んで、速まる鼓動をどうにか服の下に押し隠す。
「これからは一緒にいよう」
愛の告白めいた言葉が、なんのためらいもなく、その唇から降ってきた。
「これから、もなにも今日はじめて会ったんですけど……」
「ここが今日から天の家ね」
「話、聞いてますか」
「住むところはもちろん、生活費も心配しなくていい。洋服も化粧品も欲しいものがあればいくらだって用意するし、天の望むものはなんだって手に入れる」
なにを言っているのだこの人は。
「もしこの部屋が気に入らないなら、引っ越してもいい。天の欲しいものを教えて」
「や、ちょっと待ってください」
「家族以外全部あげる。だから、そばにいて」
そばにいて。熱烈な言葉を、彼はまるで孤独な少年のように言った。
家族以外、全部。
家族を筆頭に、さまざまを失った私に、そんなことを言う。燃えた家の中にあったものは、挙げればきりがない。衣服も化粧品も、昔遊んだぬいぐるみも、気に入りの本棚も家具もアルバムも、すべてきっと灰になった。
「……なんで」
「うん?」
「なんで、そこまで」
残念ながら、燃えた家と燃えた物が明日には元通りになっているはずもなく。私には行くところがないのだから、無償で住む場所を提供してくれるというのなら、それはきっとありがたい話だった。さらに生活に必要なものは、なんでも用意してくれるのだという。だけど、初対面の人間に、そこまで尽くそうとしてくれるのも、意味がわからなさすぎて怖い。それともなにか裏があるんだろうか。お金に困ってそうには見えないから——かわりに、継続的に身体を差しだせ、とか。
部屋に置いてけぼりにされた子供のようなまなざしで言った「そばにいて」も、詰まるところはそういう意味だったんだろうか。
前世がどうこう言うのも、私を惑わせるため?
「……私、なにもお返しできませんよ。せいぜい、簡単な家事ぐらいしか」
言いながら、でも、もし強いられれば、私はすぐさまここを去って寒空の下でさまようか、彼に従うか、どちらかを選ぶしかないのだと思った。
「天はただ俺のそばにいてくれるだけでいい」
男はそう言って笑ったけれど。はたしておたがいの言葉の意味がただしく通じ合っているのかどうか、はなはだ疑問だった。
「わ、私はあなたの恋人ではない、ですし。あなたの望むようなことはできない、ですよ」
依然として重ねられていた手から脱けだして、婉曲に、でもきっぱりと言えば、目の前の男はその目を泡がはじけるみたいにぱちりと閉じて、ひらいた。
「俺の望むようなことって?」
「え? だからその……ええと、恋人らしいこと……というか……」
言葉が尻すぼみになっていく。こちとら経験値がないのだから、恋人らしいこと、のイメージなどチープでありきたりなものしかない。そして経験値がないうえに友達もいなかったから、そういう話題を口にすることだってほとんどなかった。
きょとん、としたような無邪気な瞳に、はね返されるような思いがして目を伏せる。
「なにか不安? 俺は天が嫌なことはしないし、望みもしないよ」
「……そう、なんですか?」
「もちろん。恋人をたいせつにするのは当然のことでしょう」
「だから、恋人じゃないですって」
「俺には天しかいないんだよ」
いくら否定しても、彼は聞く耳を持っていないらしい。
「天だけだよ。前世からずっと」
また前世だ。私はため息をついた。
「……もう、わかりました。じゃあ前世では恋人だったってことでいいです」
「天……!」
思いだしてくれたの、と動いた彼の口をどうにか制して、言葉をつづける。
「でも、私前世とか覚えてないので、とりあえずお友達から新しくはじめましょうよ」
友達だってろくにいたことがないくせに、恋人を逃れるために苦し紛れに口にした。すると宝石のような瞳が揺らめいて、ぱちぱちと音がしそうなくらいにまばゆくまたたく。
「おともだち?」
知らない言葉に出会った幼な子のように、男は復唱した。私は小さく頷いて、彼が言葉の意味を咀嚼するかのように目を伏せて唸るのを見つめた。
「お友達か……」
やがて、やや不服そうに尖る唇。
「い、いきなり恋人とか言われても、無理ですよ」
「うーん、仕方ないな」
思考を終えた男は、つぶやくなり破顔して、機嫌の良さそうな顔に戻った。
「まあ、友達からもう一度はじめるのも、いいよね」
やっぱり怖いな、という言葉をすんでのところで飲みこんで、今度こそこれ以上触れるのはやめておこうと決めて残りのピザを口に運んだ。
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