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 結局ピザをご馳走してもらうことになり、届くのを待つあいだにお風呂を勧められ、あれよあれよという間に浴室に押しこめられてしまった。


 いきなりお風呂はちょっと、と危惧したけれど、かといっていつまでも汚れのついた身体で過ごしたり、そのまま眠ったりするのも気の進むことではなくて、それは彼の厚意だと信じて甘えることにした。


 服を脱いで、おそるおそる踏み入れた浴室は隅々まで磨かれて光りかがやいていた。ひとりで浸かるにはいささか広いような湯船は、ゆったりと足を伸ばしてもまだじゅうぶんにスペースがある。自宅の浴室——いまごろはそれもきっと跡形もない——も広くはあったけれど、両親も私もそれぞれに多忙だったので、湯船にお湯をはってゆっくり浸かるということもしばらくしていなかったし、掃除も怠りがちだったので、壁際が黒ずんでいたりバスタブの底が水垢でぬめっていたりした。


 それと比べてこの浴室の、なんと清潔なことか。部屋全体や彼自身からも清潔な香りがしていたけれど、それと同様にまったく隙がない。掃除したばかりなのかもしれないけれど、掃除したてというよりは、まだだれも使ったことのない浴室に足を踏み入れたような気分だった。


 その、未使用感を感じる浴室で頭と身体を洗い、三月の空気に冷えた身体を湯船であたためてから脱衣所に出れば、これまた未使用感たっぷりの真っ白なバスタオルと着替えと思しきふかふかの部屋着が置いてある。アパレルショップにディスプレイされているみたいにきっちりたたまれた部屋着を手にとって、重なりを持ち上げる。と、なんとご丁寧に下着まで重ねてあって、危うく咽せそうになった。


「天。もうすぐ上がる?」


 扉一枚を隔てた先から、くぐもった声がする。ナチュラルに名前を呼ばれたままだったけれど、それどころじゃあなかった。


 とり落としてしまった下着に、そっと指を伸ばす。下着にも使用感は感じられず、タグは外されているけれど、おそらく新品であるように思われた。とはいえ、彼がこうも用意周到に女性ものの下着を用意しているわけは、と考えかけたところで、ドアの向こうからさらに声がかかった。


「タオルと着替え置いておいたから、よかったら使って?」


 レースのあしらわれた、シンプルで小綺麗な白の下着の端をつまんでまじまじと視線をやる。彼の、自分用の下着だろうか。あるいは突然だれかを泊めるはめになってしまった時のための備えとか。どうか、そうであってほしいような思いがする。


「もし、気に入らなかったらごめん。新しいのは、また一緒に選ぼう」


 部屋着はまだしも下着を、つけるかどうかかなり迷って、一度脱いだ下着を着直すほうが嫌な気持ちがごく僅差で勝って、こわごわショーツに足を通し、背に腕をまわしてブラジャーのホックを留めた。


「…………」


 なぜサイズがぴったりなのか……。


 お風呂上がりの寒さで身体が震えた。これ以上の追求はきっと良い結果をもたらさないだろうと悟り、いったん考えるのをやめて、用意された衣服に袖を通した。



 ふわふわした毛布のような部屋着に身をつつんで、ダイニングのほうへ戻る。すると、注文したピザがちょうど届いたばかりのようだった。


「さっぱりした?」


「……はい。ありがとう、ございました」


「ピザ来たよ。食べようか」


 木目の入った、珈琲豆のような色合いのダイニングテーブルには、端にとりわけ用の小皿が二枚と、中央に平べったい大きな箱が載せられている。男の手によって、まんなかの箱の蓋がひらかれた。そして現れる大きなピザ。実物を目のあたりにすると、その見た目と香りに空腹感を擽られてお腹がきゅっと収縮した気がした。


「どうぞ」


 椅子を引かれ、戸惑いながらそっと腰を下ろす。と、男は対面に座るかと思いきや隣の椅子に手をかけたものだからぎょっとした。


 真隣、至近距離から、熱く見つめられる。


「……あの、ち、近いです」


「うん? そうかな」


「移動して、いいですか」


「あら。つれないなあ」


 甘く目を細めながら、つくったようなわざとらしい、さびしげな声で言う。けれど、こんな宝石みたいな瞳に真横から凝視されながらの食事なんて、きっと緊張してかなわない。せっかくのピザの味も見失ってしまいそうだ。私は返事を待たずに立ち上がり、男のはす向かいの椅子を引いて、ふたたび腰を下ろした。


「残念」


 残念。そう言いながら妙にうれしそうな顔でこちらを見ている。その表情の意味するところが読めなくて、私はうつむいて目を逸らした。


「……いただきます」


 しばしピザを食べることに専念することにして、カットされたピザのピースのひとつを手にとった。鋭角になった先端にかじりつくと、蕩けてやわらかくなったチーズがだらりと伸びる。数時間ぶりの食事。ジャンクな食べものの塩味は、疲労の溜まった身体にひどく沁みるように感じた。


 まるで生き返るような思いで、ピザを咀嚼する。そのいっぽうで、眼前にいる男はなぜかおいしいピザに手を伸ばすことはせず、にこにこしながらこちらを見つめていた。


「……食べないんですか?」


「うん? 食べてる天がかわいいから、見とれてた」


 言葉を継げなくなる。


 口を開いてしまい、行儀がよくない、と気づいてあわてて手で覆って、閉じた。


「天を見つめるのに忙しくて、食べる暇がないな」


 柳が揺れるみたいに笑う。もうなにも言うまい、好きなタイミングで食べればいい、と私はピザに視線を戻した。

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