1-(4)
なおも鎮火しない家を背に、歩きだしていた。けれど私はこの人に連れられてどこへ向かうのか。これからどうなるのか。さまざまなことが不透明なままに、足を動かした。
男の歩く姿をうしろから見つめて、上着を羽織っていてもわかる身体の線の細さに目を奪われていると、その端麗な顔がこちらをふり返った。
「なんでうしろを歩くの?」
なんで、と言われても。逆に、隣を歩かないといけない理由がないと思った。答えあぐねていると、彼はその唇をやわらかく押し開けて、「ね」とひとつ、たしかめるみたいに口にした。
「俺はきみの、前世の恋人なんだ」
なにか聞き間違いだろうかと思って、その顔を見つめ返す。
「きみは憶えてないかもしれないけど」
彼はやさしい笑みをたたえて、私をみずからの隣へ引き寄せた。
大通りへ出て、タクシーに乗せられて夜の道路を走ること十分強ほど。たどり着いたのは、近年建てられたばかりの比較的新しいマンションだった。
エントランスから明かりが漏れていて、そちらへ近づくにつれて、私の手を引いて歩く男の相貌が、より鮮明にうかがえた。火の前ではルビーのように見えた瞳は、今度は磨かれた黒曜石のように光を映しだす。睫毛が長くて、鳥の羽根のようにつややかな曲線を描きながらその目の縁を覆っていた。
彼は慣れたようにボタンを押して、エレベーターを呼ぶ。乗りこむと、エレベーターが動くのに合わせて、ぐん、と身体が持ち上がった。その感覚に顔を上げると、男が目を眇めてこちらを見つめていた。
テレビに出ていたり、雑誌の表紙を飾ったりしていてもおかしくないような、整った顔立ちだ。見目麗しいその人とあかるいところで視線をまじえてしまい、すぐにうつむいた。
鼓動がはやい。
エレベーターは途中で止まることなくぐんぐん上昇して、その中に乗っていたのはほんの十数秒ほどのことであるはずなのに、やけに長い時間に感じられた。
「どうぞ」
マンションの上層階、エスコートするようにして招かれた部屋に足を踏み入れると、すぐそばの男の人と同じ、清潔な匂いがつよく香った。炎のそばにいたときは熱や煙に紛れていたけれど、私の身体はバイト先で食べものや油の匂いに触れていて独特の臭気がする。恥ずかしくなるけれど、どうしようもないのですぐに諦めた。
「おじゃま、します」
人の家に招かれたことなどひさしくないので、その言葉を口にするのもひさしぶりだった。
靴を脱いでおそるおそる廊下を進む。床の木目に沿って歩いていくと、広々としたLDKが眼前に現れた。アッシュグレーのふかふかそうなベルベットのソファーが、十畳ほどはあろう部屋の窓に近いほうに置かれているのがまず目に入る。窓から離れたキッチンのそばにダイニングテーブルが、壁ぎわには小ぶりの本棚と観葉植物が配置されていて、無駄なものが見受けられない部屋は、まるでモデルルームであるかのように整頓されて見えた。
整った部屋をしばし見まわしていると、「なにか飲む?」と頭上から声がかかる。
「……あ、えっと」
「それともなにか食べる? 夕飯はまだだよね。出前でもとろうか」
「出前?」
「食べたいものはある? 天の好きなもの頼もう」
ぽんぽんと話が進んでいく。そして、まるで当然のように、奢ってくれようとしているみたいな口ぶりだった。夕飯、の話をされて、自分はバイト終わりで、まだ夕食を摂っていないことに気がつく。意識するととたんに、空腹感がぐぐっと湧いてきた。
だけど、会ったばかりの人の家に上がりこんだうえに、食事まで、なんてそんなことは許されるのだろうか。両親が聞けば、「初対面の人間に不用意についていくなんて」「ごはんまでご馳走になるなんて、失礼じゃないの」等々、私を叱りつけるかもしれない。
だけど、その両親はいまはいないのだった。私を叱る人などいない。私のことは、私が決めるしかない。
想像の叱責は、自分自身が考えていることでもあった。だけど私の財布の中にはいま二千円しか入っていないのだ。銀行にはいくらか貯金があるはずだけれど、通帳は家の自室に置いていたから、いまごろ炭と化していることだろう。再発行してもらうにしても、すぐには難しい。二千円でこの先どうしよう? 決して無駄遣いはできない。
「天?」
反射で顔を上げると同時に、自分がうつむいていたことに気がついた。視界が、男の顔でいっぱいになる。
「うわあっ」
なさけない声を上げながらあわてて身体を引けば、背中が壁にぶつかって鈍い音がした。
「天!」
大丈夫? と、すぐ近くまで顔を寄せて、覗きこまれていた。近さにびっくりして身体を離したのに、またすぐに距離を狭められている。薄い唇が、うつくしい鼻梁が、翳って黒真珠のようにつやめく瞳が、少し顔をふればぶつかってしまいそうなほど近くに迫っていた。
というか、だから、名前。
「……なんで、私の名前、知ってるんですか」
屈しないように、と思って問いかけた声は、虚勢を張っているのがばればれだと自分で思うぐらいには頼りなく揺らいでいた。
「もちろん知ってる——というか、わかってるよ。福永天。一度も忘れたことない」
めちゃくちゃ縁起良さそうな名前だよね、と彼はまるでその六音をいたくいとおしむように、ほほ笑んだ。
福永天。彼が言ったように、与えられた自分の名は、名字も相まってずいぶんめでたそうな名前だった。自分でもそう思っている。そうあちこちにはない名前だ、とも。あてずっぽうに言って、あたるような名だとは思わない。
その名前を、わかってる、と、彼は言った。
それはなぜなのか。
「……ストーカー?」
そんな物好きがいるのかと思うけど——思考して、背筋が冷たくなる。
私はとんでもない人に、のこのこついてきてしまったのだろうか。いまさらに冷静になってきて、唇をぎゅっと噛む。そのまま男の様子をうかがうと、彼は整った眉を下げ、少しだけ、困ったようにほほ笑んだ。
「やっぱり、まだ思いださない?」
困ったような顔も、さまになる人だ。
「俺たち、前世で恋人同士だったんだよ」
はっきりと鼓膜を揺らしたその透き通るような声に、さっき聞き間違いかと思った言葉は、聞き間違いではなかったらしいと気がついた。
「前、世」
「うん」
けれどしっかり聞きとったとて、やっぱり意味がわからない。さっぱりついていけない私と対照的に、彼は、まるですべてをわかっているみたいなおだやかな顔で言葉をつづけた。
「前世で、俺はきみの存在に救われた。でも事情があって離れ離れになってしまったから、今世では一緒になろうと決めてた」
「は……?」
気の抜けた声が出てしまった。
前世、という概念を否定するつもりはないけれど。でも、本当にあるものなのかどうかはさだかでない。私は当然、自分の前世のことなんか記憶にないし、それはきっと、多くの人も同様に、そうだろう。
でもこの人は、前世で私に会っていた、みたいなことを言う。そのうえ、『今世では一緒になろう』って——いや、ちょっと待って?
冷や汗を流しながらちらりと見上げれば、困惑するほどに綺麗な顔が、頭上すぐのところにあった。
多少の悪事さえも許されてしまいそうなほど、整った顔立ち。人を顔で判断するのは良くないけれど、その相貌は、ほかのさまざまなことを霞ませていくほどに端正だった。美術館のいちばん奥に掛けられた、とっておきの絵画のように、視線を引きつける。だけど、そんな簡単に流されてよいのか、とも自分で呆れる。
「まあごはんでも食べながら話そうよ。なににする?」
男はおもむろにポケットから携帯をとりだして、出前のサイトをひらいた。するとピザの画像がちらりと目に入って、一瞬視線を奪われる。彼は私の、その一瞬の意地汚さをも見逃さなかった。
「ピザにする?」
こちらの内心を見透かしたように、潤いに満ちた唇を持ち上げて完璧な角度でほほ笑んだ。
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