1-(3)
「あのー、ちょっと」
引き戻すように別の声に呼ばれて、ふり向けば、制服に身をつつんだ警察官が立っていた。
「あ……」
「あなた、ここの家の人? お話聞かせていただきたいんですけど、いいですか」
事情聴取。それはさっきも少し予想していたことだったはずなのに、いざ声をかけられるとパニックになって、頭の中からあらゆる言葉と感情がすっぽ抜けてしまった。
視線をずらせば、ささやき合いながらこちらを見つめているご婦人たちの姿が、おぼろげに目に留まる。
私が呆然と突っ立ったままでいると、すぐそばで腕の力をゆるめた男が、警察官のほうへ向き直った。
「彼女は火事でショックを受けているので、私から」
「あなたは?」
「彼女の婚約者です」
柔和な面持ちで述べた男はここで少し離れ、私が呆然としているあいだ、私のかわりに質疑応答をこなしはじめた。距離を置かれたためにそれ以上の会話はうまく聞きとれず、その間私は、コンヤクシャってどういう意味だっけとか、そんなことを必死になって考えて、けれど答えがだせなかった。ちらりと見えた、警察の人と話す男の横顔は、炎の熱とは対照的にいたって涼しげだった。
そして気づいたときには警察官は別の近隣住民への聴取に向かっていて、私はこちらに戻ってきた男とふたたび向かい合っていた。
「天」
口遊まれて、意識が少しずつ、水から浮き上がるみたいに現実に戻ってくる。
「あ、……」
あなた、だれ?
「もう大丈夫」
問いかける前に、ほろりと綿飴が崩れるみたいにほほ笑んだ男が、その手をこちらに伸べた。
なにか思う間もなく、身体がふたたび男の腕中に捕まる。男は身体を寄せ、顔が見える程度にだけ上体を反らして私を見下ろした。
薄暗い視界に、ルビーのようなかがやかしい瞳が光る。薄い唇が、ゆったりと弧を描いた。
「天」
名前を呼ばれた、と、あらためてそう認識して、私はおかしなことに気がついていく。
「……どうして、名前」
訊ねた声は炎に乾かされたようにからからに掠れて、うまく音にならなかった。
ひとつ気がついたら、コンヤクシャ、が「婚約者」だということにもようやく思いいたる。だけど、思いいたれば余計に、ますます意味わからなかった。なんだ婚約者って。
婚約どころか初対面だった。もしかしたら私が忘れているだけで、どこかで会ったこほとがあったのだろうか、と鈍った頭で考えてもみたけれど、いきなり人を抱きしめるような知り合いがいた記憶はないし、こんな綺麗な人に会ったことがあれば、頭の隅でぐらい、憶えていそうなものだった。
「天が無事でよかった」
はじめて会ったのに、なぜ、私のことを昔から知っているみたいに話すのか。
彼がその身体を動かすたび、口をひらくたびに、不可解なことが増えていく。
目の前にいるその人は、火事に遭っているのが私の家だということを、はじめから把握しているようだった。喧騒に紛れて内容はほとんど聞こえていなくとも、警察の人になにも言えない私にかわって彼が、さまざまのことを平静に、澱みなく説明していたのはわかった。
事情聴取もお手のものであるかのような平然とした横顔を思い返す。彼はどうしてあのように冷静な態度で言葉を吐けていたのか。
はてなを浮かべ、目をまわす私を置いてけぼりにするみたいに、彼はいっそう口角を上げた。
「ねえ、うちにおいでよ」
火に照らされた頬がオレンジにかがやいて、そういう色のついた硝子細工のようにうつくしい。
「……え?」
「行くところ、ないよね。だからうちに来たらいい」
混乱する私をよそに、彼はたたみかけるようにつづけた。
「俺は天を迎えに来たんだ」
「む、かえ?」
「うん」
いきなり家においでなんて、やっぱり新手のナンパなのかと思った。会った直後に自宅にお持ち帰り? なんて俗なことも、一瞬、頭の端で考える。
でも、自分ひとりでは、きっと警察官の人に対してうまく対応ができなかった。私がぼんやりしているあいだに、彼に助けられていたようにも思う。どうなのだろう。私の頭はまだ混乱しつづけていた。
「俺と一緒に来て」
ただ、くらむほどのうつくしい瞳で。迎えに来た、だなんて。
まるで物語のヒーローみたいな言葉だった。ヒーローなんてものが自分の目の前に現れるなんて、もう長らく想像していなかった。
それはナンパなのか、はたまた救済なのか。考えるうちにだんだんおかしな気持ちになってきて、もうなんでもいいか、と気がゆるむ。
どうせ最悪な一日なのだ。これ以上悪いことも、そうそうないだろう。家が燃えて帰るところもないのだから、明日からもきっと最悪はつづくし、この人良い匂いするし、清潔そうだし。
自暴自棄になっているかもしれない、とうっすら思ったけれど、差しだされた手の、その指の先に、そっと掠めるように触れた。
触れたら、その長い指で指を絡めとられた。
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