1-(2)


 消防隊の人が駆けつけたようだけれど、すぐそばで燃え盛っているその家屋は、どう見積もってももう助からないとわかった。目の前の光景が、いっそう現実味をなくしていく。蒸発、という単語がよぎった。


 さんざんな誕生日の終わりに、私は、家族も帰る家も失ってしまったらしい。


 喧騒がすべて遠い。周囲にひとだかりができているけれど、その声のなにひとつとして、なにを言っているのか、聞こえてはいても意味として頭に入ってこなかった。消防隊と思しき人たちが放水の準備をしている。三月の夜で、まだまだ寒い時期だというのに、私は背中に汗をかいていた。目の前で勢いを増している炎のせいなんだろうか。


 帰る場所がないとなると、と、頭の奥のさめざめとした部分で、これからどうすればいいのだろうかと考えた。


 このままここにいれば、家の住人だということで、事情聴取とかされてしまうんだろうか。そうなったら警察官と一緒に夜を明かさねばならなくなるのだろうかと想像して、気が塞いだ。ただでさえ疲れているし、そういうのはせめて明日以降にしてほしい。いや駄目だ、明日は朝からバイトが——違う、バイトはクビになってしまったんだった。


 塩をふられたなめくじみたいな、まともに機能していない思考が、脳内をよたよたとうごめいている。


 いっそ事情を訊かれる前に逃げてしまおうか。今日はひとまずどこかホテルにでも泊まって——と自分の財布の中を確認すれば、二千円しか入っていない。頭をかかえたくなった。


 両親が私に残していった二万円。その二枚のお札のことを考えた。でも、もう、すっかり手許にない。私が自分で手放した。いまさらひどく後悔するけれど、でも、くたくたになって家に帰ってきて、まさかこんなことになっているとは思わないじゃないか、と憤りたくもなる。だけど怒る気力ももはやない。


 今日のところはネットカフェかカラオケにでも泊まろうか。駅前にたしか一軒あったはず——二千円で足りるだろうか——思いながら踵を返し、私は背を向けて歩きだそうとした。


 そのとき、進行方向の、炎なのか街灯の光なのかわからないあかるみの中に、人の形をした影が差す。


 視線を浮かせながら、顔を上げた。


 背の高い、痩せた男がすぐ目の前に立っている。


 その唇がゆるやかに動いて、喉から持ち上がった言葉が、形づくられた。


てん


 切れ長の目が、火を反射して朱にまたたく。瞳が鮮やかに色づいていて、決して手の届かない、うつくしく磨かれた、気高い宝石を前にしたようだった。


 そのかがやきに、私はふいに、昔憧れた母の鏡台に置かれたジュエリーボックスを思いだした。三段式のその宝石箱は、蓋をひらくとその収納スペースが階段の段差のように連なった。宝石がぶつかり合わない程度に間隔を開けながらジュエリーの並べられた箱の中は、どこもかしこもかがやいていて、夢の国の縮図みたいだった。幼い子供の目には、それはシンデレラが舞踏会へ向かう階段のようにも思えてひどくうつくしかった。


 まるでその、ジュエリーボックスの中を見つめたときのような感覚。ルビーのような、紅くかがやく目と、視線が、まじわった。


「——やっと会えた」 


 目が合った瞬間、身体がその腕に捕まっていた。


「もう離さない」


 一瞬呆けてから、抱きしめられたのだと気がつく。あまりにもなめらかで迷いのない動作に抗う暇もなく、背中にその長い腕をまわされていた。


 身体がぴったりとくっつき合う。私の背丈は成人女性の平均身長よりほんの少し下ぐらいだけれど、相手の背が高いから、顔がその薄い胸のあたりに押しつけられる形になった。


「え?」


 びっくりしてまともな声がだせない。動揺した声が男の着ているやわらなかニットに吸いこまれていった。


 あたたかくて、清潔な香りがする。


 かなり遅れて、腕をふりほどこうと全身に力をこめたけれど、痩せているように見えたわりに男の力はつよくて、とても抜けだせそうになかった。


「な、に。なんですか?」


 なんなの。新手の痴漢? 変質者? 動けないのならせめて言葉で反抗しようとしたけれど、頭が混乱して舌が縺れた。なにを言えばいいのか、わからなくなる。とても敵わない力で抱き竦められ、やがて抗うことにも疲れて、暴れるような元気もなくなってしまった。


 ……もういいか。


 ぼんやりと思う。痴漢に遭うことはこれがはじめてではなかった。それは通学中の電車の中や商業施設のエスカレーター、エレベーターなどでたびたび起こることだったし、とり立ててめずらしいことではなかった。きっと第三者からは、私は御しやすい人間に見えるんだろう。いきなり抱きつかれたのはさすがにはじめてだけれど、もう、ちょっとぐらい別にいいか。


 バイトもクビになったし、両親とは連絡がつかない。両親が残していったお金も、きっと最後のせめてもの罪滅ぼしのつもりだったのだろうと思った。今日は誕生日だけれど、それを人から特別祝われるようなこともない。だれからも必要とされていないような私なのだから、いまこうして、ちょっとハグされているだけでいいのなら、そんなでもだれかに求められ、だれかの役に立つのだというのなら、別に——

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