きみの前世の恋人なんだ

1-(1)


 家が燃えている。


 炎は建物の全体へまわって、灰色の空をうっすらと火の色に照らしていた。窓があったと思われる部分からぞくぞくと炎があふれて、家屋は高温に炙られてどこもかしこも真っ黒に焦げている。ベランダの欄干や炭にしか見えない柱はいまにも崩れ落ちそうで、どうにか家、の形を保っているのが不思議なほど、燃え盛る炎に飲まれきっていた。


 見る影もない、けれどそれは、紛うことなきわが家だった。


 震える手で携帯を摑む。いったいなにがどうなっているのだろう。なにひとつ状況を把握できないまま、両親の番号を呼びだして通話ボタンを押した。


『——この電話番号は、現在使われておりません……』


 けれど父の携帯も母も携帯も、彼らに繋げてくれることはない。携帯はただ、機械的なアナウンスを澱みなく流すだけだった。


 何度もコールする。冷静さを欠いて、自宅の固定電話の番号まで押す。だけどその固定電話は、だれかに持ちだされてでもいないかぎりあの火の海の中にあるのだから、当然だれに繋がることもなかった。


 携帯を握りしめた手を、力なく下ろす。


 ——なにが、起きているんだろう。


 それしか思えないみたいに、反芻した。理解が追いつかない。周囲がひどく騒々しくて、けれどそこにだれがいて、なにを言っているのかという情報までは、脳が処理できなかった。


 けさはいつも通りだったはずではと、鈍る思考を回転させて、今日一日のことを、まだ家を出る前、朝の時間帯に照準を合わせてふり返る。


 今日は十時からバイトだったから、それに間に合うように八時半ごろに起きて、自分の部屋からリビングに降りるとすでに両親の姿はなかった。開業医である両親は日々忙しく、私も最近はバイトに勤しんでいるのもあって、顔を合わせて食事を摂ったり会話をしたりということは、かなり少なくなっていた。とはいえ、もともと多くもなかったけれど。


 リビングには〈お誕生日おめでとう〉と印字された封筒が置かれていて、手にとってみれば一万円札が二枚、中におさめられていた。少し迷って、私はその中身を財布にしまってから、朝食と身支度を済ませて家を出た。


 そこまではまあ、例年とさして変わらない誕生日だ。ここで一度自分の恰好を見下ろす。飲食チェーン店でのバイトは制服だから、家とバイト先の往復の際は私服だ。いま穿いているスカートは、行きがけに人とぶつかって転んでしまったせいで、泥がはねて汚れがついていた。一日じゅう働いていたので、汗でメイクも崩れているだろう。それに今日は三回もクレーマーのお客さんにあたってしまって、すっかり疲労困憊といった気持ちだった。


 だけどそれらのことより、帰りがけに発覚したレジのお金の高額誤差がなぜか私のせいになってしまったのがいちばん堪えた。


福永ふくながさん、今日お客さんと揉めてたよね。それで虫の居所が悪くなって、とっさにやっちゃったんじゃないの?」


 揉めていたことに気づいていたなら助けてよ、とか、とっさにやっちゃったってなんなの、とか、思うことはいろいろあったけれど、ひどく不運なことに、「ちょっと荷物見せて」と言われてひらいた私の財布には朝追加したばかりの二万円が挿しこまれていた。レジの誤差は万単位で、夕方の点検をしたのも私。店長が、「言い逃れできないよね?」と言わんばかりの顔でこちらを見ていた気がした。


 もう明日から来なくていいと告げられ、それでもなんとか無実を証明しようと口をひらきかけたけれど、「いま返してくれたら警察や親御さんには言わないでおくから」などと言われてすっかりどうでもよくなってしまった。いいや、どうせもともと欲しかったお金じゃないし。思って、手切れ金を渡すかのように、財布から二万円を抜きとって突き渡した。切られたのは私のほうなのだけれど。


 そして職を失ってほとほと疲弊した心身で帰宅すれば、その帰る家が燃えているではないか。


 どうしてこうなったのだろう。


 展開が意味わからなさすぎる、不運にもほどがある。だけど、途方に暮れる私になどお構いなしに、家は依然として燃えつづけていた。


 ほかにできることもなくて、ふたたび両親に電話をかけてみる。けれど何度こころみても、無機質な音声が現状を告げるばかりだった。


 今日の朝の風景に、もう一度焦点を合わせる。ゆうべはなかった封筒がそこにあったから、両親は朝には家にいたんじゃないか。きっとけさは仕事に出かけたはずで——思考して、両親の職場の固定電話にかければ、


『この電話は現在使われておりません……』


 まさか、と思った。


 そして、何度目かわからない、その自動音声を聞きながら、ああ、と直感した。


 炎につつまれた、家だったものが木屑のようにぼろぼろと崩れていく。あちこちから悲鳴やどよめきが上がっていた。そのざわめきを聴覚で捉えながら、けれど、なんだかスクリーン越しに遠い世界を見させられているような思いがしてくる。ちっともさめてくれない長い夢のような、現実そっくりで虚構との区別がつかないような、精巧な映画が流れているみたいだった。


 ——両親は、私を置いて、出て行ったのか。

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