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「でも」
「俺は、俺が渡せる全部、天に渡したい。好きだ、それは形にしきれるものじゃないけど、少しでも天に伝えられるなら、伝わるなら、いくらでもそうする。全部天のものだよ、俺は天のものだ。そばにいたいし、そばにいてほしい」
この人が、どうしてそんなに私のことを好きみたいな態度をとるのか、さっぱりわからない。
「でも、こんな、形や装飾品やお金に意味があるかは天が決めたらいいと思う。天がもしいらないと思うなら、そんなのに価値はないと思うなら、捨ててくれていいし、売ってもらってもいいんだ」
「そんなこと」
こんな高級品を受けとることもおそろしいけれど、勝手に処分するようなことも、とてもできない。
彼に返すことと、捨てたり売ったりすることとは、彼にとっていったいなにが違うんだろう。
「やっぱりこんなんじゃ足りないかな。それならもっと形にするし、いくらでも差しだすよ」
「いや、これ以上は、もう」
このたったひとつの指輪でさえ、身に余るものすぎて、到底手に負えないのに。
「なんでもする。なんでもあげる。だから、俺のそばにいて。一緒にいて」
そのうつくしい瞳が、熱っぽく揺らいでいる。
「天。天の欲しいものを、教えて」
欲しいものなんて。そんなの、きっともうない。私はただ、平凡がいい。最低限の、食べるのに困らない程度の、平凡がよかった。だけど、たぶんもう、手に入らない。
「私、は……」
「うん」
「なにも、いらない、です」
こんな宝石も。なにも。言ったら、虹さんは、まだ指輪の嵌ったままの私の手を掬って指先を絡ませた。
「だめ」
触れた手が、指先を愛でるようになぞって、背筋が震えた。
「誕生日プレゼントだもん、これがもし気に入らないなら、天が喜んでくれるものを見つける」
虹さんは熱く燻る目をしたままで、口にする。
「もちろんいつだって天に喜んでもらえるようにがんばるけど」
触れたところから、溶けだしてしまいそうになった。
誕生日なんて、別にめでたくもない。
「俺は天が嬉しいことをしたいし、笑ってくれるようなものをあげたい」
私は、本当に、なにもいらないのに。
「天の好きなものを渡せるまで、選び直してもいい?」
動転して喉が詰まり、くるしくなった。とっさに開いたほうの手で、飲みかけだったホットミルクをぐいと飲み干す。まだ思ったより熱くて、舌が焼けそうになった。
いらないのに、身体の内がわがじわりと熱くなる。ホットミルクのぬくもりのせいだろうか。絡めとられた指先のせいか。お腹のあたりがぽかぽかしはじめて、味わったことのない感覚に戸惑った。
「もっと素敵な、天が好きだと思えるようなもの、さがすから」
——誕生日プレゼントだもん。天が喜んでくれるものを見つける。
——俺は天が嬉しいことをしたいし、喜んでくれるものをあげたい。
そんなふうに言われたのは、はじめてだった。
わけがわからなくて、正解がぼやけてしまう。捕らわれたままあたたかくなる指先を見つめた。
「……いい、です。から」
少なくとも彼は、わざわざ選び直したりなんて、しなくてよかった。
「……もう、わ、かりました」
「え?」
「さがさなくて、いいです、から」
それははたしてただしいのだろうかと思う。きっとただしくない。そうわかっているのに、わかったまま、口にした。
「……これ、もらっても、いいですか」
見上げて訊ねると、虹さんはぱあっと顔をかがやかせて、もちろん、と頷いた。そして、指輪の嵌った指を、というよりは私の指先を隈なく愛でるかのように、やさしくなぞる。心臓が震えた。
やめてほしい。そんな、たいせつで仕方がないみたいな顔をするのは。
「でも、虹さんが返してほしくなったら、いつでも返す、ので」
なんせ高価なものだ。いまはなにかの気の迷いで私に差しだしてくれたのだとしても、いつか悔やむときがくるかもしれない。それまで綺麗なままとっておこうと心の中で決めた。
「返してほしくなんて、ならないよ」
私の内心とはうらはらに、虹さんが言いきる。あまりにきっぱりと言うものだから、私は口ごもってしまった。
言葉のつっかえた口の中が痺れている。さっき軽く火傷したのかもしれない。ひりひりするような舌への刺激をこらえてマグを置くと、虹さんが私の手を、水中から掬い上げるみたいに軽く持ち上げた。
——伏せられる睫毛の先が、繊細で、やっぱり羽根みたいだ。
その羽根が近づいて、呆気にとられていると、手首に薄い唇が落ちてきた。
「なに、するんですか」
感じたことのない肌ざわりに驚いて、裏返った声が出た。左手首の血管の上に触れたやわらかな感触に身体ごと手を引けば、不敵に、けれどおだやかに笑っている男の人の姿がある。
「すごくかわいかったから。好意を伝えてみた」
「ど、こが」
「ええ? 全部だけど、『もらってもいいですか』って上目づかいで訊いてくれたの、たまんなかった」
「やめて、ください」
この人はなんて恥ずかしいことを、こんな平然とした、涼しい顔で言ってのけるのだ。
美の神さまに愛されたようなうつくしい顔を、そっと睨んだ。こんなに綺麗な人だったら、言い寄ってくる人間だってきっとたくさんいただろう。ベストセラー作家の肩書きもほしいままにしているし、経済的にもゆたかな暮らしをしている。家をなくした成人女性を置いてくれると言うし、こんな指輪まで買ってしまえるのだから、たくさん貯金があるのだろうななどと卑しいことを考えた。人から好意を寄せられることにも、他人と触れ合うことにも、きっと慣れているのに違いない。
「と、ともだち、は」
声が裏返ったままで、うまく言葉が出てこなかった。おかしな声をとりだした私にも、虹さんは甘いまなざしを向ける。
「『友達は、こんなことしない』?」
「……はい」
頬がひどく熱かった。
「そっか、友達って不便だな」
虹さんは拗ねたような顔をして、けれどふたたびこちらに手を伸ばした。一緒に唇がもう一度迫ったような気がして、またあわてて身体を引く。
「なに……」
瞳が妖艶に眇められていた。思わず身をかたくする。頭の裏が赤く点滅しているような気がした。本能的な察知能力が突如目ざめたように、これ以上同じ部屋にいては貞操が危ないと、脳が危険信号を送っている。
「ね、ねます」
これありがとうございました、とマグカップを置いて、頭を下げた。そのまま返事も待たず、天、と呼ばれたのも無視して、逃げるみたいに走り去る。急いで布団の敷いてある部屋に駆けこんで、ばたん、と勢いよくドアを閉じた。
室内だというのに、大きな足音を立ててしまった。頭の隅の少しだけ冷静なところで申し訳なく思いながら、閉めた扉に背をつけた。急に走ったせいなのか虹さんの奇行のせいなのか、鼓動が異常に速い。
流れるように触れた、手首の感触がなまなましく残っている。
唇で触れられた手首を見下ろした。
中学、高校と友達のいない日々だった。恋人だって当然のようにいたことがない。人との接触にはあまり慣れていなくて、たった一瞬のことで、動悸が止まらなくなった。
「……やっぱり」
小さくつぶやいた声が、頭の奥を揺らした。
もうだれに好かれなくてもいいと、思っていた。けれど、だからといって、だれに身体を明け渡しても構わないつもりではない。もういいか、とも少し思ってここに来た。彼になにをされても文句など言える立場でないのかもしれない。でも、それでも。やっぱり。
そんな日は訪れないかもしれないけれど。もし叶うのであれば、明け渡すのは、ただひとり好きになった相手がよかった。たとえ顔がうつくしかろうが裕福であろうが高い地位を獲得していようが、それらは私にとって、恋に落ちる理由ではない。
ずっといろんなことを諦めてきたけれど、やっぱり、それだけは諦めたくない。
それは、恋愛というものに、夢を見すぎているのだろうか。
座りこんで息を吐きながら、おかしな人についてきてしまった、とつくづく思う。未知のものと相対してしまったような感覚で、それが自分にとっての味方であるのか脅威であるのか、判然としない。
選択を誤ったかもしれないと、もう何度目かわからないことを考えた。指輪をどうにか外し、これが収納されていた小箱がないことに気づく。きっとダイニングのテーブルの上だ。でも明日にしよう、私はのそのそと床を這って指輪をテーブルの上に置き、来客用の布団にふたたびくるまった。
とても、危険な人かもしれない。けれどこうしてあたたかな布団で眠ることができるのも、あの人のおかげにほかならない。
目が冴えてなかなか寝つけなかったけれど、今度はひたすら無心になって、目を閉じた。
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