高橋たかはしはその妻が猜疑心が強い方ではないと信じていた。これまでどんなに遅く帰って来ても、泊まりだって浮気を疑われたことはなかったし、少なくとも言葉にしてそのようなことを言って来たことはなかった、おおらかな気持ちで部下のつまみ食いをしていた。プロジェクトで一緒になったり、飲み会で隣の席になったりすると、自然と距離が縮まり、つまり色々と合意の上で夜を愉しむ。今日も恵美子えみことディナーとその後の約束をしている。

「行ってきます」

「ねえ、あなた」

「何?」

「私に何か隠し事してない?」

 高橋は背広を両方開いて見せる。

「何も。どうして?」

「……ううん、何となくよ。お仕事がんばってね」

「うん。今日も遅くなる」

 開いた背広の反対側の背中に汗が、つ、と流れる。妻は僕のことを疑っている? いや、どちらかと言うとカマをかけたような感じだ、こちらからボロを見せなければ乗り切れる、筈。それはそれとして仕事には集中する。終業の時間を迎え、恵美子との待ち合わせに行く前にオフィスの近くのマックに向かう。

「テリヤキとビッグマックとポテトと、コーラ、テイクアウトで」

 オフィスのある秋葉原には煌びやかではない顔がある。オフィスの立地はちょうどとの境目だ。高橋はマックを片手にホームレス達のいる、普段は避けるか、通るときには息を止める区域に、踏み込んだ。ラジオを聴いているホームレス、誰でもいいから早く済ませてしまいたい。

「すみません。これ、貰ってくれませんか?」

 目論見通り、ホームレスはマックを受け取った。

 これで夕食の領収書を手に入れた。後は戻って残業していたと言えば辻褄が合う。高橋は後ろにホームレスを感じながら、その影に引っ張られるかのように口角を片方上げた。


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