第22話

「それはそれはロミオとジュリエットだねー」と藤原さんが言う。

「まったくだ」と横から最近このカフェの常連になった谷崎が同調する。

「冗談じゃない」とぼくはため息をつく。

 カフェ『マンハッタン』は最近少しだけだが賑わいを見せていた。ぼくたち以外にも以前には見なかったお客さんの顔がちらほらしている。だいたい十数テーブルあるうちの半分くらいが埋まっている感じだ。マスターの地道な(地道っていい言葉ですね)経営戦略が功を奏したのだろう。カフェにしてはやたらガヤガヤとしているのは気になったが、とにかくめでたいことだった。みすぼらしい格好のお客が多いのも気になったが、ささいな問題だった。ぼくと藤原さんとしては仕事が増えてしまうので大手を振って歓迎というわけにはいかないものの、まあそれなりに喜ばしいことである。やりがいのない仕事というのもつらいものだ。個人的にはこのくらいの繁盛度合いがちょうどいいと思うので、これ以上は増えないでください。

「まあなんというか」藤原さんが言う。

「なんですか?」

「難儀なものだねー。仲直りしたと思ったら今度は生き別れの兄妹展開かあ。いっそ笑えてきちゃうぜ」

「だから、笑えないですって」

「あはー」

「なんですかその笑い方」

 谷崎が言う。「しかしあれだな。お前が金をためていた理由がそうも尊いものだったとは、何度聞いても意外だな」

「だから、言わないでよ……」

 ユイの大学資金を用意するため貯金にいそしんでいたという中学生らしく微笑ましい事実は、ぼくたちの間では(主に藤原さんによって)共通事項となっている。恥ずかしいのであまり引っ張り出してはこないでほしいのだが、これがまあ藤原さんと谷崎の二人には涙ぐましい美談として大うけであって、ふとした拍子に会話のネタにだされるので恥ずかしい。正直、やめてほしい。

「ヘイヘイこのお兄ちゃんめ」藤原さんがラッパーみたいなジェスチャーとともに言う。

「俺もお兄ちゃんとか言われてみたいぜちくしょう」谷崎が言う。

「言われたことないよ」

 ない……よね?

 記憶の糸を手繰り寄せる。

 ない。たぶん。

「なに、じゃああれか、にぃに派か、にぃやん派か、それともお兄様派か?」谷崎が言う。

 ぼくは答える。一も二もなく。「どれでもないです」

 すると藤原さんが言う。「カマトトぶりやがってこのヤロー」

「ぶってないですよ」

「おい谷崎君、こいつ真正シスコンのくせしてノーマルぶってやがるぜ」

「そいつぁ許せませんな」と谷崎は同調する。

「仲いいね、君たち」

「そうでもない」というのは谷崎と藤原さん二人ぶんの声だ。

 ぼくは何も言わない。

「別に恥ずかしがることでもあるまい。素晴らしきかな家族愛」谷崎が言う。

「すばらしきかなー」

「バカにしてますよね。言い方が」

「そんなことは無きにしもあらず」

「どっちですか」

「どっちでもいいじゃない」藤原さんが言う。

「細かいことは気にするな」谷崎が言う。

「二人みたいにお気楽に生きられたらどんなに楽かって想像します、たまに」

「お、ほめてる?」藤原さんが言う。

「いえまったく」ぼくは答える。

 などと歓談に身をやつしているとマスターの視線が痛いのでぼくたちは谷崎を残してまっとうに業務に就くことにする。労働は義務です。

「おいおい行っちゃうのかい。俺は寂しいぜ」

「チャージ料を払うならもう少し付き合ってやらなくもない」

「なに。ここがそんなに格式高い店か? はは、笑わせるな」

「それもそうだね。あははは!」

 などと歓談に身をやつしているとマスターの死線が刺すように突き刺さるのでぼくは谷崎を残してまっとうに業務に就くことにする。

 貴重なバイト場を失うわけにはいかない。

 ここもぼくの大事な居場所なのだから。


「しかしあんたら、もう受験でしょ? 一方はバイト、一方はお店に入り浸りで、勉強せんでいいのかい?」

 休憩時間になって、藤原さんはぼくと谷崎にそんなことを言った。

「ぼくはやってますよ。人並にですが。やつがどうかは知りませんけど」

「……」谷崎は黙って汗を流している。態度がすべてを物語っていた。

「おいおいもう冬休みだよ冬休み。君たちに中坊としての夏はもう来ないんだぜ」

「そんなこと言って、藤原さんは大学受験浪人したって聞きましたけど」

「私の場合はー。より上を目指して浪人したんだって。滑り止めは受かってましたよう」

「それ、滑り止めの意味あったんですか」

「でも滑り止めってそういうもんじゃん?」

「否定はしませんが」

「……」谷崎は黙っている。

「おいおい谷崎君。どうやら勉強してないのは君だけらしいぜ。大好きな佐々木君といっしょの学校に通うためにはそろそろ本気出したほうがいいんじゃない?」

「そうですね」

 否定してくれ。きもい。

「しかしまあ勉強ってのは、やらなくちゃいけないって分かってても怠いもんですよ」谷崎はあきらめた様子でうなだれる。

「あー分かるー」藤原さんが同意する。

「習慣にするんですよ。決まった時間に決まったことを淡々と」ぼくは言う。

「勉強が好きならそれでいいかもだが」

「いやいや、勉強が好きじゃないからこそのやり方だよ。勉強が本当に好きな人は、勉強をしようなんて意識すらなしでやっちゃってるものだからね」

「そういうもんかねえ」

「そういうもんだよ」

 藤原さんが言う。「たぶんそれが勉強の天才ってやつなんだろうね。私らは違うみたいで悲しいけど、現実にそんなやつ実在するものかねえ」

「……どうなんですかね。いないかも」

 ……いや。それは嘘だ。

 ぼくは天才と呼ぶに値する人物を一人だけ知っている。

 ぼくの中の天才像、きっとそれはユイなのだ。いつも黙々と教科書に向かい自分を高める姿は、たしかにぼくにとっての天才として強く印象付けられている。彼女は勉強ができた。人並より、ではない。人間よりずっと勉強に長けていた。

 そこで、ふと思う。そういえば、ユイは進学をどうするのだろうか。

 いかんせん急な別れだったもので、ぼくにはその答えを知る余地はなかったのだ。まさか義務教育をおろそかにするとは思えないので中学校には進学するのだろうけど、私立だろうか公立だろうか。はたまた区立だろうか公立だろうか。何もかもがわからない。しかし、何というかユイは私立中学校に進学しそうな気がする。しかも名だたるお嬢様学校だ。……本当に一切の根拠のない当てずっぽうの考えではあったけど、この予想はある程度的中しているように思えた。お嬢様学校というところにはぼくの抱いた勝手な幻想がいくぶんか含まれていることは認めるけれど。

 実際、実情をたしかに知っているわけではないが、ユイの実家はどうやら相当に裕福らしい。しかもその繁栄は一代限りのものではなく、先祖代々続くものだというから驚きだ。平たく言うと金持ちの一家なのである。たぶん土地を転がしている。まあ実際に土地を転がしているのかは定かではないが、とにかく何らかの業界で強い力を持った一族であるらしい。ふわふわと足元のおぼつかない説明で申し訳ないが、これがぼくの知るユイの一家についての全てなのだから許してほしい。

 結局、ぼくはユイについて何も知らないのだと、それをふたたび思い知る。ほんのわずかに黒色がにじんだ。ユイとの思い出で黒を上塗りする。その白色のペンキは黒色と混じわり灰色となってぼくの心中をまどろんだ。

「おや、暗い顔してるね少年」藤原さんが言う。

「いえまあ……自分の無力さを痛感しているというか」

「ふんむ。妹ちゃんのことだね」

 ぼくは驚く。「なぜわかったんです」

「だいぶ分かりやすいよ。ねえ?」

「明日は晴れってくらい分かりやすいですね」天気情報を携帯電話で確認しながら谷崎はうなずく。

「マジですか……」

「まま、とりあえず私らに相談してみなさいって少年」

「結構です」

「ひどい!」

「まだ何も言ってないじゃないですか。断っただけですよ。自分らに非があるのを認めてるってことです」

「非ってなにさ」

「からかうでしょう」

「からかわない」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「信じられない」

「この目を見なさい」

「はい」

「私が嘘をついているように?」

「見えます」

「そんなバカな!」

「バカです」

 よどみない会話だった。意味らしい意味は内包していなかった。

 漫才は切り上げる。「冗談はさておき、単純に話したくないんですよ。家庭事情に関わってくる問題ですから」

「なるほど。そりゃ悪かったね」

 ニヤニヤと笑みをたたえながら谷崎が言う。「とりあえず、妹さんが関係してるってことは自白したな」

「あ」ぼくは素でやらかしたミスに声をあげた。

「語るに落ちたり!」先ほどの謝罪はどこへ行ったのか、指をさして藤原さんはぼくのポカに追い打ちをかける。

 そこでまさかの助け舟がぼくを救った。マスターの声だ。休憩時間はもう終わりらしい。「はーい!」ぼくは答え、厨房に引っ込んでいく。

「ち、運に助けられたな……」

 後ろの声は無視する。


 バイト終わりの帰り道、ぼくは藤原さんと並び立って歩いている。門限がどうとかで谷崎は先に帰ったので、二人きりだ。もう慣れたもので、さして緊張はしない。パリッとした空気が流れている。これといった話題もなく、ぼくたちは互いに黙っている。

 沈黙。

 沈黙は苦痛じゃない。ある程度の間柄においては、だけど。

 ユイとの間に流れる沈黙を苦手としていたころを思い出し、ぼくは苦笑する。あのころはまだ互いに遠慮があって、だからとにかく沈黙を避けようとそればかりに躍起になっていた覚えがある。大事なことはそんなことではないのに。

 さらに沈黙。

 ここに至って、ぼくはこの沈黙は意図的に演出されたものだということに気づく。藤原さんによってだ。彼女はなにか言葉を切り出そうとしていた。形而上的な要素がぼくにそれをビシビシと伝えている。なにを問うのだろう? 何でも聞いてくれればいい。答えはすでに用意されているのだから。

 また沈黙。

 そして道程も中盤といった最中、藤原さんは出し抜けに言う。「んで、王子様はいつプリンセスをお迎えに行くわけさ」

 ぼくは答える。「明日にでも」

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