第21話

 前略。

 あの事件から数か月がすぎました。新生活にはもう慣れましたでしょうか。事件の後、物事はあわただしく息つく暇も無く運ばれていったので、あなたが新しい環境に慣れず苦労しているのではないかと想像すると、ぼくはまるで肺炎にでもかかったかのような息苦しさを感じます。あるいは実際に私は病気にかかっているのかもしれません。とにかく、そのくらいの不安をぼくを抱えているのです。精神病の類いとも言えるかもしれません。まったく心配症ですね、とあなたが目の前にいたならぼくを笑うかもしれません。でも、どうか許してください。親愛なる妹と離れ離れにさせられた兄は、このような息苦しさを感じるほかないのです。仕方が無いことなのです。ですから、ぼくを心配したり、ぼくをほほえましくは思わないでください。そうされると、ぼくはきっと言いようのない恥ずかしさを覚えるからです。あさましく、女々しい自分を恥じてしまうからです。だから、どうかこのような長文をつらつらと綴ってしまうぼくの身勝手さをお許しください。もちろんあなたがそんなことで私をあざけるような性根の持ち主でないことは重々承知していますが、それでも再度許しを請うてしまう私のひ弱さを許してください。

 ……どうも、先ほどから謝ってばかりで、ちっとも内容のほどが進んでいないような気がします。では、閑話休題ということで、話を進めさせていただきましょう。しかし、それにはあの事件のてんまつを改めて振り返る必要がありそうです。もちろんあなたは当事者ということで重々承知の事実かとは思いますが、ぼくは物事を頭の中でパズルのように組み合わせるのが苦手ですので、千々に散らばったピースを再配置するという意味もこめて、少しばかり過去を振り返らせてください。

 さて。

 火事の鎮火された後、ぼくたちの住んでいたあの家は人が住むにはあまりにも――あまりにもみじめな姿になってしまいました。ネズミ一匹すら住めないほど、原型を留めませんでした。それはぼくたち二人にとって、悲しいことでした。二人の過ごしてきた二年近くの歳月がこうもボロボロの姿となって眼前に現れるというのは、言いようもない悲しみをぼくたちに与えました。けれどぼくたちはくじけませんでした。もちろんあなたも。私たちは燃え盛る家の手前、二人で手を繋いでただ淡々と崩れ行く我が家を見守っていました。ぼくたちには勇気が一欠片ありました。そしてそれは繋がれた二人の手のひらの内側にありました。

 結果として家はなくなり、ぼくたちは新たに住む場所を見つけなければいけなくなりました。新生活の始まり。ぼくは情けなくも不安に押し潰されそうでしたが、同時に、二人ならきっとやっていける、と固く信じて疑いませんでした。

 そんな矢先のことでした。ユイの、あなたの元の母親から、娘をそちらに連れ戻すように連絡が届いたのは。そしてそれを、ぼくたちの両親は快諾してしまいました。元々、子供ふたりは手に余る、と二人とも思っていたのでしょう。これはとても酷で明け透けな言い方になってしまいますが、いい厄介払いの機会だと思ったのでしょう。

 目の前が真っ暗になる思いでした。なぜいまさら、と疑問がふつふつと沸き起こりました。そして今までなんの感情も抱いてこなかった今の家族に、怒りにも似た黒い感情を覚えました。ユイの元の母親に、憎悪にも似た嫌悪感を覚えました。家族の絆とは、そうも簡単に切ったり繋いだりできるものではないはずだからです。ですが、同時にぼくは自分を嫌悪しました。愛はすべからく全てに捧げられなければならないことを、ぼくはあなたとの関係の中で知っていたからです。知っていたはずだったからです。

 けれど。

 それでも、ぼくは彼らを許すことができません。

 彼らがあなたやぼくにしたことは、「あなたは作られるべくして作られた人間で、愛されるために作られた人間ではない」と断定する行為に他ならなかったからです。

 繰り返します。愛は祈りなのです。祈りはあまねく八方にまたたかなければならないのです。愛すること。それは人として生まれたぼくたちに課せられた、神からの唯一の責務なのです。だから、ぼくは彼らを許せません。許してはいけないのです。その怒りは、数か月が過ぎた今も、ふつふつとぼくの心中で熱く煮えています。

 ……前略を宣言したのに、前置きが長くなってしまいました。

 いまのぼくの気持ちを単純に書き表します。

 あなたに、会いたい。

 それだけが、ぼくの願いです。

 お返事、お待ちしています。


 事件のあと、ぼくたちは離れ離れになった。遠く、遠くに位置する何県も遠方の実家へとユイは引っ越し、ぼくはまた同じ区域内の安い賃貸に移り住むことになった。実家の意向によるものである以上、それはある意味では仕方のないことであったし、当初はあきらめの気持ちも強かった。

 ぼくは彼女に手紙を書き続けた。いっそしつこいとまで言われるほどの量の手紙を、ほぼ二、三日に一度は送りつけた。

 けれど、それに対するユイからの返事はなかった。

 ぼくはまた空回りしてしまっているのかと一瞬気を落としたものの、すぐにこれは何か異常が向こう側で起きているのだ、と気づいた。ユイが、彼女がぼくへの返信ひとつを怠るような性格の持ち主ではないことを知っていたからだ。たとえ手紙を迷惑に思っていたとしても、何も返事をよこさないなどユイの性格からしてみたら考えられないことだった。

 そこでぼくは、そもそも手紙が向こうにたどり着いていないとか、あるいは別の障害が向こうで発生しているのだと考えた。

 そうなると、ぼくはいよいよ意固地になった。元来ぼくはしつこい性格なのだ。手紙をとにかく書き続けた。短い手紙も、長い手紙も、真摯な手紙も、くだらない手紙も、『手紙』と名の付くありとあらゆるものをぼくは書き記した。

 そして、返信はある日とうとつにやってきた。

 けれど、その書面を見てぼくは絶望した。

 手紙の内容はこうだった。


 拝略。

 こちらは元気でやっています。

 どうか、ご心配なさらぬよう。

 それではまた。


 三行。たった三行のこの文章を、ぼくはめまいを覚えるほどに読み込んだ。そこに何か隠された意思がないかを確認しようとして。そこに何か別のものの作為が隠されていないかを疑って。けれど縦読みも斜め読みもこの文章には仕込まれていなかった。いや、そんな直接的な仕掛けに限定しているわけではないけれど、とにかくこの文章は機械的で人間味がなく、ここから何かを読み取ることは不可能なようだった。ただ、ひとつだけわかったことがある。ユイは、少なくとも最低限の領域においては無事なようだった。それだけでもいい。それだけでも、ぼくが手紙を送った甲斐は十分にあったのだ。ぼくはそう思うことにして、日々を耐え忍んだ。ユイのいないコントラストの欠けた日々をただただ耐え忍んだ。

 けれど、決壊しかけた水面に水滴を一滴ずつ落とすように、ぼくの忍耐の日々には限界が近づきつつあった。そしてある日、ぼくは母親にこうかけあった。ユイの元に行かせてくれ、と頼み込んだのだ。おかしな話ではないはずだ。離れ離れになった妹と兄が会うというだけで、戸籍上からいっても実際上からいってもぼくたちは絶縁しているわけじゃない。

 しかし、その願いはいともたやすく棄却されることとなった。

 なんの迷いもなく。

 なんの他意もなく。

 母親はただ一言、ぼくに「あなたはあの子の元へ行ってはいけないの」とだけ伝えて、それ以上のぼくの追及を許さなかった。ぼくにその意味を問うことを許さなかった。

 わけがわからなかった。

 ぼくたちをいったい何が引き裂いているというのか。大峡谷のような謎の前にぼくはただ呆然とするほかなかった。一見、あきらめている風貌を装うほかなかった。

 一見。

 ぼくはまったくあきらめていなかった。

 ぼくの中のろうはまだ燃え盛っていた。

 ぼくはいま、虎視眈々と機会をうかがっている。ハムレットやリア王のような悲劇を期待しているなら、勘弁してくれ。そんな展開には絶対にならないのだから。ぼくが、させないのだから。絶対に。

 そして日々は淡々と流れる。空を往く雲のように。

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