第20話
ぼくは家に向け、町をひた走った。とっくのとうに、町には夜のとばりが下りていた。
よほど険しい顔をしているのだろう。町民にけげんな表情を向けられる。関係ない。今すべきことは一つだ。ユイを笑顔にすること。ユイを守ること。ユイのためになることをすること。なすべきことをすること。名誉を守れ。
小石に足をつまづく。転びそうになる。立ち止まりそうになったのを、気合で立て直す。おのれに叱咤激励をする。
走る。
しだいに息が乱れ、呼吸の音が耳にうるさい。バクバクと心臓が波打つ。呼吸が詰まりそうになってえづく。立ち止まりたい。立ち止まってしまいたい。日頃の運動不足がたたったのだろう。こんなことなら運動部にでも入っていればよかっただろうか? しかし、そんな後悔は今となっては意味がない。後悔先に立たず、いま走っているこの瞬間にだけ全神経を集中させればそれでいい。
走る。
ぼくは体感的に時速百キロくらいの気持ちで走り続ける。現時点でのぼくに、たいして急ぐべき理由はない。ぼくにはメロスと違って親友の命がかかっているわけでもない。ただ、ここで走らねば親友の命よりも何より大事なものを失ってしまうことをぼくは知っていた。言葉に表す必要もないほど明確に大事なものがあることを知っていた。
とうとつに雨が降りだす。
「ん……」
初めは小雨だったそれは、すぐに豪雨と化してぼくを襲った。ユイはもう家にもどっているだろうか? もしもまだ外を歩いてるとして、雨に濡れたユイをぼくは想像する。それをイメージすると、ぼくはどうしようもなくやるせない気持ちになった。ああ、どうか神よ、この雨を沈めたまえ。ひとりたたずむ妹をぬらさずにいてくれたまえ。
けれど、神など今この場にはいないのだ。いないとは断定できないにしても、神の『力』はこの場には存在しないのだ。自分一人の力で困難を乗り切ることを神は求めているのだ。よろしい、ならばその挑戦、受けようじゃないか。決心を固めた。よりいっそう加速する。もっともっと加速する。
走る。
走る。
「ユイ!」耐え切れずぼくはさけんだ。さけぶ他なかった。びりりと横隔膜をふるわせる。プリミティブな初期衝動に本能のすべてを、全身全霊を任せっきりにしてさけぶ。「ユイ! ユイ! ユイ!」
三人で束になった暴漢、というより不良がこちらに寄ってくる。「うるせえぞこの野郎!」なに。なんてことを言うんだ。やっぱり不良は頭が悪いな。いや、よく考えれば当たり前のことだった。うるさいのはぼくの方だった。
それでもぼくは叫び返す。ここにこん棒はない。やつらを打ち倒す道具はない。だから声量だけで不良を打ち倒す。「うるせえええええええ」やつらは恐れおののいて(関わり合いにならないほうがいいと判断して)退いていった。
そうだ。不良なんてどうでもいい。
そうだ。赤信号なんて関係ない。
いまだけは道路交通法なんてくそったれだ。
いまだけは良識なんてどぶ川のコイだ。
走る。
閉まりかけた踏切を駆け抜ける。
さあ。もう家につく。ついてしまう。投げかけるべき言葉は用意したか? していない。関係ない。言葉なんていらない。ただこの気持ち一つあればそれでいい。
なぜだか近くでサイレンの音がうるさい。頼むからいまだけは水を差さないでくれ。黙っていてくれ。
そしてぼくの家が見える。
そしてぼくの家は燃えている。チリチリと耳障りな音を立てながら燃えている。
燃え盛っている。
「なんだよ……これ」ぼくは呆然としてつぶやいた。
それはあまりにも非現実的な光景だった。それはペンギンが空を飛んでいるのを見たときのような、到底想像し得ないありえない物でしかなかった。信じがたいものであった。
遠めにユイの後ろ姿が見える。うつむき、力の抜けた後ろ姿だ。
「ユイ!」ぼくはさけび、彼女の近くに駆け寄る。
「これは、いったい……」とぼくは彼女に問う。いますべきことが何であるかを愚かにも一時忘れて、問いかけてしまう。
「……私の、せいなんです」
「え?」ユイの発した言葉の意味がうまくつかめず、ぼくは疑問を覚えた。
「っ、うぐっ、私がいたせいで、私のせいで、私のせいで!」
そう言うと、ユイは子供のように泣きじゃくった。わんわんと、臆面も無く、体裁をとりつくろうという気も無く、一目をはばからず泣いた。
これほどまでに彼女追い詰めているものの正体が何であるのか、無力なぼくにはわからない。
わからない。
ぼくには何もかもわからないのだ。いまも昔も。
ただ一つ、それでもはっきりしていることはあった。
もう忘れない。もうたがえない。もう離さない。ごちゃごちゃと話すべきことなんて存在しない。
「ユイ!」
泣きじゃくる彼女の背後からそのか細い背中をぎゅっと抱きしめる。
「だいじょうぶ」ぼくは言う。「だいじょうぶだから……」
彼女を守る。
守らねばならない。
それひとつ、それひとつだけあればいいのだ。
「だいじょうぶなんかじゃ、ありません」ユイは声を震わせながら言う。「だいじょうぶなんかじゃ……ぜんぜん、だいじょうぶなんかじゃ……」
「いいんだよ」
「なんで、そんなことが言えるんですか」
「なんでかな」
「分からないんじゃないですか」
「そうだね。わからない。でも……だいじょうぶだよ」ぼくは言う。「ぼくがユイを守るから。もう、絶対に離さないから。絶対に一人にしないから」
「無理です」ユイはそう言い切る。「無理なんです」
「無理じゃない」
「お兄さんがいくらがんばったって、無理なんです。どうしようもないんです」
「……そうかもね」ぼくは言う。「たしかに、ぼくはちっぽけだ。ちっぽけで、無力で、それでもってバカだ」
「そうです。バカです」
「うん。救いがたいほど」
「救いがたいほどにアホです」
「そこまでは言ってないかな……」
はは、と二人して笑う。
「お兄さんが、私のことを一番に考えていてくれているのは分かっています」ユイは言う。ぽつりぽつりと。「でも、こんな時でも私は……」
「うん」
「私は、信じられなくなってしまいます。お兄さんの行為を、善意を、何もかも信じられなくなってしまいます」
「ぼくが悪いんだ。何もかもを捨てきれない、中途半端なぼくが」
「いいえ!」ユイはさけぶ。その目に一滴のしずくをたずさえ、そしてさけぶ。「あなたは、十分すぎるほどにお兄さんでした。お兄さんは、間違いなく私のお兄さんです」
「それは、うれしいな」
そうか。
ぼくは、ユイの兄を務められていたのだ。
月光がぼくたちを照らしている。ぼくはあの日、ユイにとっての本当の兄になれたあのユイの部屋でのできごとを思い出す。老人と海。原名、ジ・オルドマン・アンド・シー。ぼくたちをつないでくれた一冊のちゃちな文庫本。
「ユイ」ぼくは言う。「帰ろう」
「どこに?」
「ぼくたちの家に」
「もう燃えてしまったのに?」
「関係ないよ」ぼくは言う。「そんなこと、関係ない。視野を広げればこの地面だってぼくたちの家のフローリングだ」
「わけがわかりません」
「そうだね。ぼくもわかんないや」ぼくは言う。「そういえば、映画のDVDはもう見ちゃった?」
「いいえ」
「よかった」ぼくはほっとして言う。「なら、今度見ようか。二人でいっしょに」
「他には?」
「他?」
「なにか言うことはありませんか?」
「愛してる、とか?」
「……なんて返せばいいのですか」
「そうだね……私も、とかがベターかも」
「じゃあ、お元気で、っていうのはどうですか」
「ひどいな」ぼくは苦笑する。
「ロリコンには好かれたくありません」
「シスコンなら」
「なら、許します」
ユイの背後から回した手が、ユイのか細い手によってぎゅっと握りしめられる。
弱弱しい力が加えられた。守られるべきか細い力だ。
「うん。じゃあ、愛してる。シスコンとして。妹として」
「そっちですか。妹としてですか」
「いや……それ以外ありえないでしょ」とぼくは言う。妹を好きになる兄がこの世にいてたまるか。
「まあ、どっちでもいいです」ユイは言う。「それだけで、いまはもう満足です」
ユイはほほえみ、笑う。何よりも輝いて笑う。
「お兄ちゃん」とユイは言って、ぼくの胸に顔をうずめる。「大好きです」
「ぼくも」
「あは」とユイは表情をほころばせる。「好きです。大好きです。超愛してます」
そしてぼくたちは長い時間、無限にも思えるほどの長い時間、二人でくっついて離れなかった。記憶を脳に刻み込むように、この先たとえ何があっても心だけは離れ離れにならないように、強く、強く抱きしめ合った。
記憶があれば、さみしくはないのだ。
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