第19話

「我が家は、裕福じゃない。といっても暮らすのに困るほどではないけど。そのあたりの事情は、ユイも察してるよね?」

「はい。雰囲気で、なんとなく」

「そっか」

 やはりユイも我が家の経済状況は分かっていたらしい。ぼくなどは興味本位で親の通帳を盗み見てそのことを知ったのだが、ユイは空気感で察したという。

 でも、これはメロドラマじゃない。だから、ぼくたちはけっして悲劇の主人公・ヒロインじゃない。現状を十分に受け入れている。そこだけは勘違いしないでほしいのだが、ぼくたちはまっとうに幸せを享受している。

 話をもどそう。

 そもそも、本来なら父の収入から言って、我が家は中流階級に属していてもおかしくないほどの稼ぎを得ている。だけれどそうならない理由の大部分は、ぼくの母の浪費癖にある。男遊びやブランド品の収集、古物の収集。あげればキリがない。そもそも元々の話、離婚の原因だって浮気の次にその浪費癖があるのだ。離婚を切り出され、一番ホッとしたのは父だったのかもしれない。それほどまでに母の浪費癖はひどいものだった。

 しかし、父も祖父も祖母も、そしてぼくやユイもそれについて母を責めることはできなかった。父はあまりに気の弱い人物だったし、ぼくとユイはあまりにもその場に適応することに慣れすぎていた。そういうものなのだ、とあきらめてしまうことに長けていた。

 だからこそ、ますます母の行いは増長されていった。深夜まで家に帰らないのが普通になり、ぼくたち兄妹は放任のような形で日々を過ごしていった。父もまた仕事の残業で帰りが遅くなるのが常だったので、夕食は自分たちで用意し、家事全般を二人でこなしてきた。

 ぼくたちは二人で生きてきたのだ。

 ぼくたちは二人で一つなのだ。

 でも、いくら生活スキルが向上したとしても、いくら生きるすべを身に着けていったとしても、貯金がわびしいという現実的な問題の前にはぼくたち子供はなすすべもない。僕たち子供は、現実という壁の前にあまりに無力だ。

 だから。

「だから、ぼくは大学には行かない。行けない」

「それは……そうですね。無理なものは、無理です」

「うん」ぼくはうなずく。「だから、だからこそ、卒業したら、ぼくはすぐにでも働くつもりだよ。力仕事をやるなり、それこそ自衛官にでもなるなり――社会に通用する弾丸を手に入れるつもりなんだ。お金という銃弾をね。うまい例えだと思わない?」

「でも、それなら今から働く必要はないでしょう」

「まあね」

「いまは勉学に集中するべきです。高校には問題なく通えるんですよね?」

「うん、そうだね。高校までは通えるはずだよ」ぼくは素直にうなずく。それは事実だ。ありがたいことに、母も高校進学までの貯金だけはぼくたちに用意してくれている。

「ならどうしてバイトを?」

「ぼくは――大学に通ってほしい」

「大学に、お兄さんがですか?」

「違う。通ってほしいんだよ。つまり、ユイに」

「何を言って――」

 ぼくはユイを見つめて言う。きっとぼくの思いは彼女に通じるはずだと信じて。「ぼくは、ユイのことを大切に思ってる。そして、ユイにはその頭の良さを生かして、大学という場で高等な教育を受けてほしいと思ってる。同時にまっとうなキャンパスライフを過ごしてほしいとも思ってる」

「そんな……」

「だから、このバイトは」ぼくは言った。「その貯金のために、すべてユイのためにやってるんだ。今まで隠しててごめん」

「そんな、こと……」

 静寂が流れた。それは張り詰めた静寂だった。藤原さんの余計な気遣いでギリギリまで注がれたコーヒーが、今にも決壊せんとして水面を揺らいでいる。

 そして、決壊の時は訪れた。

「そんなこと!」大きく机を揺らし、立ち上がってユイはさけんだ。「そんなこと! 私が望んでいるわけないじゃないですか!」

 振動でコーヒーが盛大にこぼれる。

 けれど、そんなことは気にならないほど、一瞬でぼくは失意のどん底に沈み込んだ。

 自分の空回りっぷりに、自分のあまりにひどい勘違いに今さら気づいて絶望したのだ。

 それでもぼくはあがいてしまう。これ以上口を開いたところで現状が打開されるわけもないのに、みっともなくあがいてしまう。

「ちがう……違うんだ。たしかに今はあまり興味持てないかもしれないけどさ、オープンキャンパスとか行ってみて、実際に触れてみればきっとユイも行きたく――」

「だから!」一滴、ただ一滴、水滴が机上に弾かれてまたたく。「私は、私はただお兄さんといっしょに居られればそれでいいのに、勝手に勘違いして、勝手に、勝手にバカみたいに余計なことしないでください!」

「あ……」言われて、ぼくは気づく。そうだ。最近、ぼくは全然家に帰れてなくて、ユイと話す機会も少なくなって……これではまるであの母親のようじゃないか。

 そんな単純なことにも気が付かなかったなんて。

 そんな当然のことにも気が付かなかったなんて。

 馬鹿だ。

 イヌ。

 サル。

 それ未満じゃないか。家族を一番にする、それすら分からなかったなんて。

 思考が細切れにぐるぐると循環する。

 弁明。

 そうだ、過ちには弁明が必要だ。

 言葉を探せ。

 辞書をまくれ。

 けれど――こんな時にも、ぼくの脳内辞書は一向に約に立たなかった。ただ分厚いだけの紙切れにすぎなかった。

 千円札を一枚机上に置き、ユイは言った。「私は……先に帰っています」

「ま……っ」

 待って、と言おうとして、結局ぼくは出かけたその言葉を途中で引っ込める。

 こんな愚かなぼくに、彼女にかけられる言葉があるだろうか? その権利があるだろうか? 少なくとも、今現在のぼくにはそのチケットはないように思えた。

 チャランコラン。ユイはトビラをあけ、外に出て行ってしまう。いつもはやかましく思えたそのベルの音は、今ではなぜだか物寂しく感じられた。

 ぼくはテーブルに座ったまま、しばらくそのまま呆然とする。これが漫画や小説なら――ぼくは今すぐ彼女を追いかけるべきなのだろう。追いかけて、一言「ごめん」と言うべきなのだろう。でも、ぼくにそんな気概はなかった。ぼくは、物語の主人公にはなれなかった。

「あ……」ぼくはただただうつむいた。今のぼくには、なんの気力すらもなかった。

 ……いや。

 そうだ。

 なぜぼくは忘れていたのだろう。

 ユイはぼくにとってのすべてで、そしてこれがぼくの思い込みでなければ、父とも母ともまともな交流をしてこなかったユイにとって、ぼくはユイのすべてなのだ。

 田中さん。

 ぼくは久方ぶりにその名前を呼ぶ。田中さん。君はユイの良き友人だった。ぼくにとっても君はかけがえのないアドバイザーであり、友人であった。田中さん。君ならこんな時、ぼくにどんな言葉を投げかける? 君ならこんな時、どのように現状を打開する?

 けどいまここに田中さんはいない。田中さんはすでにぼくたちとは遠く離れたどこかに行ってしまった。ぼくはぼく自身の力で現実と戦っていかなければいけない。

 思い出せ。あの日、ぼくはユイさんから頼まれたのだ。ユイをよろしく頼む、と。

 しゃんとしろ、とぼくの中の誰かが言った。その通り。ぼくはしゃんとしなくちゃいけない。前を向かなくちゃいけない。

「これは、佐々木君が悪いよ」と藤原さんが近くに寄ってきて言う。「今の君は、お兄ちゃん失格だ。残念ながらね」

「でも」

「でもじゃないぜお兄ちゃん」と藤原さんは言う。「そのよく走る口をつむいでさっさとどこかに行っちまいな」

 そう言うと藤原さんはトビラを蹴っ飛ばし、にやりと勝気な笑みをこちらに向ける。

「もう一度言うぜ、お兄ちゃん」藤原さんは言う。「どこかに行っちまいな。大事な大事な妹ちゃんが待ってるんだぜ、君のお迎えを……ってね」

「……はい!」

 それ以上の言葉はなかった。あったとしても、この場にはそぐわなかった。必要なかった。言葉以上に十分すぎるほどのものをぼくは藤原さんから受け取っていた。

 ぼくは駆け出した。

 あの日の約束をたがえないため。

 ユイの兄としての役目をまっとうするため。

 田中さん。どうか、ぼくに一かけらの勇気を。

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