第18話

 その日、家に帰るのは結局夜の十一時を超えるころになった。今日も父は仕事で、母は夜遊びでまだ帰っていない。事前にユイには帰りが遅くなることを告げているので(唐突に一人カラオケに行きたくなった、という方便を用いた)、今ごろは夕飯を食べ終えて部屋で勉強でもしているだろうか。

 それでも習慣からぼくは「ただいま」と声に出して言った。人間、誰も見ても聞いてもいなかったとしても、そういった習慣は大事にしなければならない。と、ぼくは思っている。

 しかし、意外なことにその返答が至極近く、つまりリビングから聞こえてきたのでぼくはいささか驚く。

「おかえりなさい」ユイが言う。「……お兄さん」

 相変わらずユイはぼくのことを『お兄さん』と呼ぶのには慣れていないようで、その声色はおそるおそるとした、びっくり箱に手をそろそろと忍び込ませるようなものだった。

「ただいま」

「遅かったですね」

「いや、まあ、うん。カラオケが楽しくってね」

「そうですか」

 さしたる違和感のない会話。だが、ぼくはそのユイの様子と空気感にどこか異物感を感じた。魚の小骨がのどに引っ掛かった時のような、釈然としない違和感だ。まるで浮気を疑われている夫のような――いや、なんだその例えは。意味が分からない。

「お風呂できてますから、早めに入ってください。私はもう入りましたので」

「うん。ありがとう」

 ぼくはユイの言葉に従い、お風呂に入った。

 カポーン。

 温泉ではないけれど、そんな擬音が聞こえてくるほどそれはいいお湯だった。

「ふぁ……」

 うつらうつらと眠気がぼくを襲う。

 再び強く思う。今日は、本当にいろいろあった日だった。疲れる日だった。心身ともに疲労困憊で、まさに満身創痍といった表現が似合う状態にぼくはあった。四十度前後のぬるま湯はその疲れを吹き飛ばすにふさわしいリラクゼーション効果を内包していた。つまるところ、気持ちよかった。

「まあ、でも……」

 今のところ、何もかもがうまく回っているのは事実だ。その順調な回転にはそれ相応の労力が必要だったけれど、結果としては上々といったところだろう。このままいけば、貯金も順調に貯まって――

「……はっ」

 危ない。意識が飛びかけていた。お風呂で寝てしまうのは、字面だけ見ると可愛く聞こえるが、あまりに危険だ。死んでもおかしくはない。実際、風呂場での溺死の事例は多い。こんなに気持ちいい入浴という行為が常に死と並び立っているとは、なんとも皮肉なものだ。いつだって快楽には副作用が伴っているのである。

 溺死。

 死。

 そこでぼくはふと、例の報道を思い出す。駅前での殺傷事件のことだ。帰りがけに携帯電話で確認した情報によると、犯人はいまだに捕まっていないらしい。といっても、ふたたび凶行におよぶ気配もなさそうなのでそろそろ安心してもいい頃合いな気もするけど、やはり怖いものは怖い。ぼく自身夜道には気を付けて歩いているし、特にもしもユイが犯人の凶刃に見舞われたらと考えると、ぶっ殺すぞ犯人コノヤロウ。

 という具合に、最近のぼくは紛れもないシスコンだった。いや、家族を大事にするのは普通なことだろう? うん、たぶんそうだ。そうに違いない。

 そういう結果を自分の中で算出して、ぼくはお風呂をあがった。


 しかし、時がたつにつれてぼくとユイの交流の時間は減っていった。文字通り、日増しに減少していった。それはひとえにぼくのバイト量の増加に由来していたのだけれど、それをユイにバレるわけにはいかず、結果としてぼくは毎日谷崎と夜遅くまでカラオケに通っていることになった。いやはや友人とは便利なものだ。もっとも、中学生がカラオケにいられるのは夕方までなのでよく考えれば看破されそうなウソだったが、そういったレジャー施設に行ったことのないユイにはそれは有効的なウソのようだった。

「今日も、夜は遅くなるのですか」

「うん。ごめん。夕飯は作ってあるから、レンジで温めて食べて。今日はチャーハンを作ったんだ。ウェイパーを使ったのがミソなんだ」

「……楽しみにしています」

 さびしげなユイの表情にぼくは一瞬胸を痛めたが、それもすぐに過ぎ去った。だって、あのユイがぼくが夕飯の席にいないくらいのことで寂しがるなんて、そんなはずはない。むしろ、ぼくがいない分一人で伸び伸びと勉学や読書にはげめて彼女も嬉しいはずだ。

 そうに違いなかった。

 そう。

 そうに違いなかった、とぼくは思い込んでいた。

 ぼくはどうしようもなくバカだった。

 親に構えてもらえず心を圧縮し続けたあの日々をキレイさっぱり忘れ去って、一人でくだらない偽善に浸っていた。一人だけで気持ちよくなっていた。ユイという大事な妹が自分にはいるのだということを忘れて、くだらない偽物の自己犠牲に酔っていた。

 死ね。死んでしまえ。そんなに生き恥をさらしたいなら、一人で勝手にやっていろ。

 しかし、そのことにぼくが気づいたのはぼくたちにとって決定的なことが起こったその後のことだった。


 土曜日。今日もバイトが続く。

「いらっしゃいませー」ぼくは言う。

「らっしゃっせー」藤原さんは言う。

 神代町の朝は都会に遊びに出る人でいっぱいだから、朝の時間帯だけはこのさびれたカフェもほんの少し忙しくなる。チャッチャッチャッとコーヒーを出して一丁上がり。チャッチャッチャッとカフェモカを出す。ラテを出す。サンドイッチを出す。ぼくは自分は機械になったのだと思い込みながら機械的に(これはダブルミーニングに当たるのだろうか?)作業をこなす。ついでにお盆をフラフラと運ぶ藤原さんの動きにハラハラしたりもする。ハラハラドキドキな元気溌剌な朝だ。こんな日はきっといいことがある。

「いい日だねー佐々木君!」と藤原さんがにこやかな笑みをこちらに投げる。

「まったくですね藤原さん」とぼくも応じる。

 チャランコラン。そしてまた一人お客さんがやってくる。

 うん。こんなに気分のいい朝なのだ。たまには藤原さんのごとく大声を張り上げてお客さんを出迎えるのも悪くないだろう。

「いらっしゃあせええ」ぼくはさけぶ。

 ユイだった。


 カフェ『マンハッタン』の空気は死んでいた。正確には死にかけていた。そしてそれは形而上的な話ではなく物理的に死んでいた。だってさっきから酸素が薄いのだ。うまく呼吸ができないのだ。酸素が死に絶えていって二酸化炭素が充満していっているに違いなかった。もしくはぼくの呼吸器官が壊死していっているのだ。

「……」

 お互いに無言の状態が続いている。もどかしい。いったいどうすればいい? 助けて神様仏様、と信心浅いぼくは和洋両方の神、それどころか八百万の神々にすら助けを求めた。ついでに藤原さんとかマスターにも祈った。そんな藤原さんはさっきから店の隅でこっちを瞳をうるうるさせながら覗いていた。たぶん、いっぱいのかけそば的なお涙頂戴エピソードが展開されていると思っているのだろう。

 しかし現実は非常である。彼女はぼくに詰問するかのように疑問を投げかけた。「バイトなんてしてたんですか、お兄さん」

「うん……黙っててごめん」

「そもそもお兄さんは――」

 中学生でしょう。と続く気がしてぼくは「ごほんごほんげふげふ」と続きの言葉をかき消した。マスターが聞き耳を立てていた。「違うんだ。これには理由があるんだよ」

「理由?」

「ほしいものがあるんだ」

「なんですか?」

「ギター」

 谷崎ごめん。やっぱりぼく、ギターがやりたいよ。

「嘘でしょう。お兄さん、ロックは好きですが、演奏する側には回る気なんてさらさら無かったじゃないですか」

「いやいや。ぼくだって中三――ごほむごほむ! 夢見る少年なわけで、ロックンローラーにあこがれることもあるさ。ギャギャギャギャーンとエレキギターをかき鳴らしたいわけだよ。将来の夢はジョンレノンになることなわけだよ」

「はあ、そうだったんですか……」

 ああ、恥ずかしい。なんでぼくがこんな目に。

 ユイはジト目で言う。「いえ、それも嘘だとバレバレなのですが」

「えっ」

「お兄さんはポーカーフェイスが下手くそですね」ユイは淡々と言う。「それで、本当は?」

 ぼくは頭をフル回転させる。どう答えればいい? どうすればこの場を乗り切れる?

 いや、そもそも――と、ぼくの中の一部が言う。そうまでしてユイにこの事を隠し立てする必要があるのか? いずれは公になることだ。なら、いっそ今バラシてしまっても構わないのではないか?

 そのようにぼくが煩悶のうちに悩みこんでいると、ユイは言った。「私だって、お兄さんが個人的にこっそりバイトをしていた程度のこと、責め立てるつもりはありません。ただ、今のお兄さんからは……どこか、後ろめたい隠し事があるように感じるんです」

「……」

「それも、私に対してのものです」

「……わかった」ぼくは白旗をあげた。どうも、この妹相手に隠し事をしようと思っていた自分がバカだったらしい。ぼくはすべてを白状することにした。「話すよ。ぜんぶ」

「はい」

 ぼくはぽつぽつと語り始めた。

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