第16話
目覚めるとそこはバイト先だ。
「やあやあやあやあ佐々木君。今日もベイビーフェイスがベイビーでプリティーだねヘイヘイ! ご機嫌いかが?」
チャランコラン。ぼくのバイト先の格安カフェ『マンハッタン』のトビラを開け、そこに設置されたベルがやかましく音をたてた瞬間、このカフェでともに働くハイテンション女子大学生、藤原都子は言った。
「ええ、まあ、はい。おかげでやる気マンゴスチンです。がんばるぞお」とぼくは答える。
「テンションがひくーい!」
「高いですよ。比較的」
「ホントにー?」
「むしろ藤原さんはよくそんなに元気でいられますね」
「え、ほめてる?」
「一部分においては」とぼくは言葉を選んで答える。
「やっほい!」藤原さんは叫んで、ガッツポーズをする。お客さんがいないとはいえ、あまりにも大学生らしいムーブからはかけ離れている。これが共感性羞恥というやつだろうか。見ているだけで恥ずかしい。
「何に由来してるんですかね、そのエネルギー」とぼくは心の底からの疑問を藤原さんにぶつける。
「そりゃもう、男日照りで蓄積されたリビドーがストレスフルなわけだよボーイ」
「うわあ、聞きたくなかった……」
藤原さんと話していると、なんだろう。中学生特有の女性に対する幻想がミクロレベルで解体されていくというか、とにかく残念な気持ちになる。容姿はいいのだけれど、性格がなあ。そこらへんが男日照りの原因なのではないかとバイト仲間の全員が思っているのだけど、そういうことは口に出さないでおこう。時として知らない方がいい現実というのもこの世にはあるのだ。かまぼこの赤い部分の原料のように。
「なんなら君がうるわしき女子大生のボーイフレンズになったっていいんだぜ」
「複数形じゃないですか。イヤですよそんなただれた関係は」
「なんだい不満かいボーイ。性欲はないのかい。不能なのかいインポテンツ・ボーイ」
「そういう問題じゃねえ!」
ああ、この人と話すのは本当に心底疲れる。心労の加算度合いが、他と段違いだ。もちろん全部冗談だというのは分かっているんだけど……。思わず普段とは違う口調になってしまったのも、仕方がないだろう。
「それともあれか。逆か。逆がいいのか。有り余ったリビドーを私にぶつけたいか少年」
「仕事しましょう、仕事。労働は義務ですよ」
マスターのこちらを見る目が厳しくなってきたのを境に、ぼくはバカ話を打ち切る。
「へいへーい」
しぶしぶといった様子で、藤原さんはホールへともどっていく。
すると、チャランコラーン。ベルとともに、お客さんがまた一人。
「あ?」
その人影があまりに自分の見知った人なので、ぼくは素っとん狂な声をあげてしまう。
「ゆ、ユイ?」とぼくは声をかけ、
「お兄さん?」とユイもまた答える。
なぜここにユイが?
そう問おうとして、ぼくは口を開きかけた。が、それに先駆けてユイが言う。「私は偶然立ち寄っただけなのですが、お兄さんはどうしてここに?」
「いや、なんていうか、その」とぼくは言いよどむ。
なるほど。けしてぼくのバイト先がここだと知ったうえでやってきた、というわけではないらしい。本当に、ただの偶然にすぎないのだろう。いらっしゃいませー、などと言ってしまう前で助かった。まさに不幸中の幸いといったところだろう。
「というか、外には出ないようにって、昨日言ったじゃないか」ぼくは今さらながらにそれを指摘する。
「でも、お兄さんも約束を破って外に出たじゃないですか。なら、私にも外を出歩く権利はあります」
「ん……」何も言い返せない。まさにその通りだ。ぼくが間違っていた。先に約束をたがえたのはぼくの方じゃないか。
しかし、なぜユイがこの店に? 言っては何だが、このカフェはひどく古さびていて、はっきりいってみすぼらしい外見をしている。ましてやユイはめったに外食などしないし、学校帰りに寄り道をすることなども少ない。どんな間違いがあってユイはここにたどり着いたのだろう。
しかし、そのわけをユイ本人に訊くのはためらわれることだった。だって、ぼく自身がこの店でバイトをしていることを隠していたのだから。この店で、というよりは“バイトをしている”こと自体を隠していたのだから。
そしてこの場において一番大事なことは、ぼくはユイにバイトをしている、ということをバレてはいけないということだ。このカフェに制服などがなく助かった。どうにかうまいことやれば、ただの客だとして誤魔化せるかもしれない。
「せ」焦りからかぼくはどもる。「せっかくだし、いっしょの席に着こうか」
「ああ、はい。それはもちろん」とユイは答える。
「よし。よしよし。じゃあここにしよう。ここに座ることにしよう」とにかく行動は素早くだ。ぼくはユイを少し強引な感じにテーブル席に座らせると、「少しお手洗いに行ってくる」と言ってキッチンのほうへ向かった。ユイの座った席からキッチンは死角になっていて、一見しただけでは本当にお手洗いに行ったようにしか見えないだろう。
そのままキッチンに入りかける瞬間、お客さんのオーダーをとってキッチンに引っ込んできた藤原さんをチョイチョイと手招きでこちらに呼び寄せる。
「なになにどうしたの少年。暗がりに連れ込んでいったい何をする気なの」
「なにが暗がりですか。ただのキッチンですよ。そんなことよりですね」ぼくは一息置いて言った。「非常にまずい事態です。ぼくのバイト人生の存続に関わるといっても過言ではありません」
「なんですと?」
「実はぼく、バイトをしていることを家族には隠しているんですよ。親が中学生のバイトには反対なもので」嘘をついた。本当は親がぼくにそんな干渉などしたことはない。ただ、これはつかなければいけない必要なウソだった。なぜなら、そう、今さらだが、ぼくは中学生だ。そして中学生のバイトは労働基準法によって厳密に禁止されている。ではなぜぼくがこうしてバイトにいそしめているかというと、つまるところ――年齢を偽っているのだ。高校生であるということにして、履歴書の提出の不要なバイトを選択した。給料は手渡し。自分から言わない限り、バレることはない。といっても、今まで何度も藤原さんに「君はまるで中学生みたいにちっこくてカワイイねー」と言われ、そのたびに肝っ玉を冷やしたものだけど……。
まあ、ユイにバイトをしていることをバレたくない理由はもう一つあるのだけど、それは今は関係ない。とにかく、現状に向き合おう。
藤原さんが言う。「んで、あのカワイイ女の子が妹さんってわけ?」
「まあ、そうですね」
「うーん。ぱっと見、親御さんにバイト程度のことをチクるような子には見えないけどなあ。純粋無垢って感じ? バイトに反対してるのはあくまでお父さんとお母さんなんでしょう?」
「いやいや。一見そう見えるかもしれないですが、あれですよ。めちゃチクりますよ。小学校では情け容赦なく先チク(先生チクり)を実行することで男子の間で有名ですよ」
「マジで! あんなおとなしそうな子が!」
「ええはい。表向きは清純そうにしていて、裏では冷徹そのものなわけです」
「まじかー……」呆然とした様子で藤原さんは何もない空をあおいだ。心ここにあらずといった様子だ。「まあまあ、そういうことなら協力してあげよう。それで、私はどうすりゃいいのん?」
「普通にしててください。ぼくはいったん客として振舞うので、自然な接客をお願いします」
「なるほどーそれなら簡単だ! 任せて任せて!」
「……」
大丈夫かなあ……。
マスターに話をつけ(しぶい顔をしていた)、ぼくはユイの座る席へともどった。
「ごめん、おまたせ」
「いえ、だいじょうぶですよ」
「注文は決まった?」
「そうですね。カフェモカを頼もうかと」
「じゃ、ぼくも同じものにしようかな」
ぼくは手をあげ、オーダーのため藤原さんを呼んだ。
「はいはいはいはーい! ただいまー!」
やたらに高いテンションで藤原さんがこちらに駆け寄ってくる。なんだか、すでにまずい予感が止まらない。イヤな汗がこめかみを伝った。
「ご注文は? コーヒー? 紅茶? それとも?」
「カフェモカ二つ」
ぼくは小娘のたわむれを切って捨てた。
「へーい。カフェモカ二つ」
藤原さんがふてくされた様子で注文を繰り返す。よし。それでいい。まっとうに接客さえしてくれれば何も文句は言うまい。ホント、その調子でお願いします。
藤原さんがオーダーを伝えにキッチンへ引っ込み、すると店内はぼくとユイの二人だけになる。静かだ。気味が悪いほどの静寂、といったら店長に悪いだろうか。とにかく閑古鳥が鳴いている店内は殺風景な内装と合わさって不気味なほどだった。
「あー……」ぼくは言葉を探す。「珍しいよね、こんなところまで出向いてカフェに入るなんてさ。さっきも訊いたけどさ、やっぱりなにか理由があったりしない?」
「いえ、本当にたまたまです。少し寄り道をしてきたもので、その帰りにこの店が視界に入って……」
「なるほど」とぼくは答えて、二の句を継げずに黙り込む。何を……何を言えばいいのだろう。相変わらずぼくの対人スキルは皆無に等しかった。特にユイに対しては。
そんな微妙な空気に配慮してか、珍しいことにユイから口を開いた。「お兄さんはよくこの店に来るのですか?」
ふむ。なんと答えたものか。これから先もここでのバイトを続けるとして、そしてユイがこのお店の微妙な味のカフェモカを奇跡的に気に入ったとして、やはりここは行きつけの店だということにしておいたほうがいいだろうか。
「うん……しょっちゅうってわえじゃないけど、よく来るよ。だいたい、週三くらいかな」
週三。その数字は、つまるところぼくのシフトの入り具合を意味していた。
「けっこう来てますね……」
「そ、そうかな? 普通だと思うけど」
「いえ、多いかと」とユイは毅然と言う。
「まあ……そういう意見も場合によってはあるかもしれない」
なんとも苦しい言い訳だ。つらい。いつになったらこの状況から解放されるのか…。
「ヘイお待ちー」
と、その苦しい空気は、寿司屋みたいな気の抜けた藤原さんの声で解放されることとなった。
「ども」
会釈をしてカフェモカを受け取る。いろんな意味の感謝をこめて。
ただ、ひとつ文句をつけるなら「ごゆっくりー」と言う藤原さんの顔のにやけ具合が妙にしゃくに触ったことだろうか。
まあ、いい。今のところぼろをださずに済んでいるのだから、協力してもらっている手前、文句は言えまい。
「ふう」
とりあえず、カフェモカに一口、口をつける。甘く、そしてビターなテイストが口中に広がった。うん。相変わらずおいしくない。いくら自分が働いている店とはいえ、食べ物に対して嘘はつけない。はっきり言って、おいしくないというより不味い。そういうカフェモカだった。だからこそこんなに客がいなくて、バイトの身からしたら楽なのだけれど。
顔をあげてみると、ユイもぼくの気持ちと寸分も違わないであろう微妙そうな表情をその顔に浮かべていた。感想を訊いてみたい衝動に一瞬駆られたが、やはりやめておいた。こちらを見るマスターの手前、そんなむごいことはできない。ユイが店内でそこの飲食物に文句をつけるようなマナーのなっていない子だとも思えないけれど、念のためだ。
ぼくたちは二人して苦心しながらそのカフェモカを飲み干すと、店内をあとにした――といってもぼくはまだ帰るわけにはいかないので、適当なところで「少し忘れ物をしたから、先にもどっていて」と言ってユイを先に帰らせた。
チャランコラン。店にもどると、案の定というべきか、藤原さんがニヤニヤとこっちを見ている。
ああ、いじられる。
仕方がない。覚悟を決め、ぼくは過酷な運命へと身を投じていった。つまり、店内での仕事に戻っていた。
でも、いやだなあ……。
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