第15話

 結果から言えば、その哀れな犠牲者はただの垢の他人であり、ましてや谷崎などではなかった。やつ本人には聞かせられないが、「よかった……」と小さくつぶやき、ひとまずホッとしてぼくは谷崎とつないだ携帯電話をベッドの枕元に投げ出す。

「なんだ、俺の心配をしてくれたのか」と谷崎が電波を介して言う。

「うるさい」とぼくはやつの言葉を一蹴する。にやけた谷崎の表情が伝わってくるようで無性にしゃくにさわった。

「くくく。いやあ、俺は友人思いのいい友達を持ったものだ」谷崎はむかつく声調で言う。「電話をとったときの、おまえのあせった声といったら、いま思い出しても涙が出てきそうなほどに感動的だったな」

「うるさいうるさいうるさい」

 とにかく恥ずかしかった。いや、友人を心配するなんてごく当然の感情なのだけれど、まあ、そういう年頃なのだ。多感なのである。あと、それを分かりつつもからかってくる谷崎の性格は普通に悪いと思いました(真面目に)。

「しかし、不思議なもんだな」と谷崎はふいに話し始める。「俺たちがついさっきまで立っていたあの場所で、殺人か。物騒な世の中だ」

「うん。たしかに」

「怖いもんだ。いまごろ現場は人だかりでいっぱいだろうな」

「まあ、そうだね」とぼくは答える。

 そこで、ふと疑問に思ってぼくは自問する。本当にぼくはこの出来事を『怖いものだ』と考えているのだろうか? こんな身近で起きた不幸だというのに、ぼくはどこかこの出来事をはるか遠くの国で起きたテロや殺人と同列に考えてしまってはいないだろうか? それはひどく恐ろしい思考だった。そんなことはないはずだ、とぼくは自分の善良である部分を信じることにする。無理やりにでもそう思い込もうとする。そうでもしなければ、自分が人でなくなる気がしたからだ。

「結局、殺されたのは近所のオッサンだっけか? いや、人一人が殺されたってのに変わりはないんだけどさ、ずっと小さい知り合いの子供が殺された、なんてなったら夢見が悪いからな。不幸中の幸い、って言い方はさすがにまずいか。でもまあ、どちらかと言えば『良い』ほうだろ」

「オッサンだって生きてるんだよ。人としてなにも変わりはしないよ」

「変わるさ」と谷崎は言う。「人間なんてエゴの塊だ。身内が死んだならともかく、大した交流もない近所のおっさんが死んだところで、何も思わなくたって普通だ」

「そうなのかな」

「そうだよ」

「そっか」ぼくはホッとした。実に身勝手なことに――自分は普通なのだと、この友人の言葉を都合よく解釈することにした。人が死んだことに対して何も感情をわき起こせないとしても、それが見ず知らずの他人なら何も問題はない。その考えは非常に冷酷だけれど、非常に現実的なのかもしれない。

「まあ、とにかくだ」

 とにかく。

 ぼくたちは人の生き死にを『とにかく』の一言で川に流した。

 谷崎は言う。「事件の影響で、明日は学校休みらしいぜ。不謹慎だが、犯人に感謝だな」

「不謹慎ってレベルじゃないよ、谷崎」

 天国に行ったとき、二人して被害者のおっさんに喝されないだろうか。心配だ。

「ま、そんなもんだろ。だって赤の他人だぜ?」

「それは関係ないと思うけどな……って、休み?」初耳だ。

「おう。学校からメール来てたぜ」

「ああ……親のメールアドレスで学校には登録しちゃってるから、ぼくのところには来てないみたいだ。ありがとう。一人ぽつねんと空き教室にたたずむ羽目になるところだったよ。助かった」

「うむ。感謝したなら何かおごれ。ラーメンでいいぞ」

「ははは」ぼくはから笑いをあげる。「じゃあ明日もいい日が来るように願ってるよさようなら」一息に言い切ってぼくは電話を切る。

「ふぅ……」

 電話を終えると、室内は一気に静寂に包まれた。

 カチコチと時計の秒針を刻む音がやけに耳障りだった。

 学習机の椅子に座り込む。一息ついて、心労がするすると引き返していく。要らぬ心配だったようで何よりだけど、ニュースを見た瞬間は心臓に冷や水を浴びせられた思いだったのだ。ぶり返しで、いまは逆に落ち着きすぎている感がある。波打ち際には貝殻すら残らなかった。首を投げ出し、頭を空っぽにしてボケっとする。

 まあ、よく考えてみればだ。ロータリーで二人同時に分かれたのだから、もしも谷崎が殺されていたとして、それにぼくが気づかないなんて逆に難しいだろう。

「人間、あせると思考能力がここまで落ちるものか……」

 ぼくはベッドに身を投げだす。疲れた。非常に疲れた。さいわい明日は休みということだ。寝るには少し早いが、このまままどろみに身を任せて明日の昼頃まで眠ってしまっても構わないだろう。

 ぼくは目をつぶった。おやすみ世界。

 暗転。

 が、そうは問屋がおろさない。

 コンコン、とひかえめなノックの音。

 親はまだ仕事で帰ってきてないのだから、消去法でこのノックの持ち主はユイに違いなかった。というより、たとえ親が家にいる状況であってもぼくがユイのノック音を他の誰かと聞き違えるはずがない。ユイのノックの特徴はこうだ。一つ、おごそか。二つ、丁寧。三つ、コンコンと二回だけ。

「いま開ける」とぼくはノックに返答し、そしてトビラを開ける。ユイは平均からいっても身長が低い。肩下ぐらいに位置したユイの頭が、こちらを心配げにのぞき込んでいる。

「どうしたの?」

「いえ。さっきテレビを見て、青ざめながら部屋にもどっていたので……何かあったのかと思って」

「そっか」

 どうやら、ぼくを心配してやってきてくれたらしい。できた妹を持てたことにぼくは兄として感涙した。なんていい子なんだろう。ぼくにはもったいないくらいだ。

「なんでもなかったよ」とぼくは言って、ことのあらましをかいつまんで説明する。簡潔に、しかし隠し立てすることなく誠実に、だ。友達を心配するという当たり前の感情を、ユイがバカにするとは思えない。だから素直に話してもいいと判断した。

「そうでしたか」ぼくの説明をきき、ユイはぽつりと言う。「それなら、よかったです」

「うん。本当によかった」とぼくは言葉を繰り返す。本当によかった。「それから、ユイも気を付けてね。この近くで事件が起きたってことには変わりないんだから」

 そう。犯人は、白昼堂々ロータリーで事件を起こしたにも関わらず、いまだ捕まっていない。どのように追跡をかわしているのかは定かではないが、駅前からぼくの家までは大した距離はない。念には念を入れて用心するべきだ。

「とりあえず、明日は外出禁止。ユイの学校からも連絡きてるよね?」一方的に外出禁止を義務付けるのは少し横暴かとも考えたが、今回ばかりはあまりに心配なのだ。兄としての権力を存分に発揮させてもらった。もっとも、こんな事態において外にうかうかと外出するほどユイは無鉄砲ではないけれど。

「はい。休みだそうです。少なくとも今週いっぱいは」

「今週いっぱい?」

「もしかすると、犯人がつかまるまで長期休校になるかもしれません」

「まあ、それもそうだね」

 おそらく、まだ本決定がされてないだけで、明日の夜にはぼくの学校からも似たような通達がされることだろう。ぼくの通っているのは公立中学だけれど、そのあたりの柔軟性は必要以上に備えているはずだ。もっとも、このような状況であるなら公立も区立も私立も変わりはないかもしれないけれど。

「お兄さんも明日は休みですか?」

「まあ、そうだね」

「ダメですからね」

「え?」言ってる意味がよくわからない。

「外、でちゃダメですからね。危険です。私だけじゃなくて、お兄さんも家にいてください」

「……谷崎とカラオケにでも行こうかと思ってたんだけど」

「ダメです。絶対ダメです。どうしてもというなら、私もついていきます」

「それは困るかな」ぼくはあきらめてアメリカン風に手をあげて答える。「わかったよ」

「なら、よかったです」とユイはホッとした表情で答える。なんていい子なんだろう。

 しかし、そうなると明日はヒマになるな。いったい何をして時間をつぶそうか。

「そうなると、明日はヒマになりますね」とユイがぼくの思考をなぞったかのような言葉を発する。「何をして過ごしましょうか」

「な、何をって?」

「何かは何かです。なんでもいいじゃないですか」とユイは妙にふてくされたような表情で答える。

 ぼくはしばし思案して答える。「よし。じゃあ、ちょうど駅前のツタヤでレンタルしてきた映画のDVDがあるんだ。ゾンビ物の映画で、ユイのお気にには召さないかもしれないけど、それでもいい?」

「はい!」とユイが彼女にあるまじき大声をあげたので、ぼくはわずかに後ずさる。

 ユイは、彼女はそんなにもゾンビ映画が好きだったろうか。彼女がドーンオブザデッドやバタリアンをみて興奮している姿はいささか想像しがたい。いや、まったく想像できない。風と共に去りぬとか、そういう映画を好むのかと思っていたのだけれど。

 まあ……喜んでくれているのならどちらでもいいことだ。

「では、私は授業の復習をしてから寝ることにします」とユイは言って、笑みを浮かべる。

 なんだかよくわからないが、ぼくはうまく彼女の機嫌をとれたようだった。ゾンビか。そんなにゾンビが好きか。

 ところで、ぼくはユイが今発した言葉について考える。

 勉強。

 ……なるほど。さっきは考えつきもしなかったが、休日の過ごし方としてはそういうのもあるのか。いや、ゾンビが好きだっていうならそれに従うまでだけど。

「では、おやすみなさい」とユイが言う。

「うん。おやすみ」

 ドアノブをひねり、ユイはろうかへと足を進める。かちゃりとささやかな音を立て、ゆっくりとトビラが閉められる。バタムと派手な音を立てないところがユイらしい。

「勉強……勉強かあ」

 ぼくも自分の部屋にもどり、そしてお利口なユイにならって机に向かおうとして、ひとまずベッドに身を投げて考えることにする。

 勉強。

「やらなくちゃだよな……」

 ぼくも、もう中学三年生だ。しかも今は夏休み。気を抜けばあっという間に来年はやってきてしまって、気が付けば受験がやってくるのだろう。

 高校受験程度、数か月もあれば、つまり冬休みからやり始めても余裕だという意見もあるかもしれない。実際のところ、それは一部においては正しいのだろう。中学レベルの勉強であるなら、そしてある程度優秀な頭脳を持っているならば、数か月もあれば十分上位レベルには達することができるはずだ。……ただ、問題は、ぼくという人間があまりに無気力なダメ人間というところにある。数か月集中してやればよろしい。なるほど、その理屈はわかる。では、実際にぼくが毎日まいにち集中して机に向かえるだろうか?

「……無理だよな」

 だからこそ、いますぐ机に向かったほうがいいのだ。時間切れになってからでは、何もかもが遅いのだ。

「あー……」ぼくはベッドに勢いよく横たわり、天井を見上げてあくびを一つもらした。「ふぁ……」

 まあ……そういうことは明日考えればいいことだろう……明日の朝食にはコーンスープを用意しよう。いまはとにかくスープのことだけを考えていたい。

 そして今度こそぼくは眠りに落ちた。深く、深く、意識の奥底に落ちていった。

 今度こそ暗転。

 ……とは、またしてもいかない。

 携帯電話がブルルとメッセージの受信を知らせたからだ。大した意味のないくだらない通知の可能性もあるけれど、もしも重要なメッセージだったら事だ。ぼくは枕元においた携帯電話を闇の中から手探りで探し当て、画面を表示させた。

 そこにはぼくの勤めるバイト先からの連絡が入っていた。

 なんでも、どうしても明日人手が足りなくなったのでヘルプでシフトに入ってほしい、とのことだった。

「あちゃあ」

 バッティングだ。バイトとユイとの映画鑑賞、どっちを優先すべきだろう。

「ううむ……」

 実に難問だ。フェルマーの最終定理の次くらいには難問だ。

 思考。

 そして数分ほど悩み続け、ぼくは最終的にバイトを優先するという解を導き出した。

 映画鑑賞なら、週末にでもまたやればいい。大事なバイト先での信頼を勝ち取る方がより大事だ。ぼくはユイの部屋のトビラをコンコンとノックすると、彼女にやはり谷崎とのカラオケの約束を断れなかった、ということにして話をつけた。

 トビラ越しの「わかりました」というユイの声はくぐもっていて感情がうまく読み取れないものだったけれど、きっと彼女もそこまで落胆してはいないはずだ。たかが映画程度、そこまで期待しているというわけもあるまい。それに、一人でだって映画は見れる。ぼくは「机の上にDVDなら置いておいたから、見たかったら先に見てもいいよ」と言って自室にもどった。くれぐれも外には出かけないことを言い残して。

 自分のことを棚に上げて。

 そして、今度の今度こそ暗転。おやすみ世界。

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