第14話
駅前でわかれ、ぼくたちはそれぞれの帰路についた。
河川敷では子供たちが野球やサッカーにいそしんでいて、ぼくはなんだか無性にノスタルジックな気分に浸せられる。サッカーボールにしろ野球のボールにしろ、あの丸い球体はぼくにどこかプリミティブな幼心をわき起こさせた。いや、部活に入ればいくらでもスポーツに打ち込める年齢ではあるのだけれど……しかし、ぼくはあいにく部活というものに入ったことがない。何というか……まあ、興味がないのである。単純な話だ。
そのまま、しばらくぼうっと子供たちの様子を眺める。いい加減見飽きて、その場をあとにしようと元の順路に足を戻したとき、キイン、と快打の音がした。バッターがいいヒットを出したようだ。唐突な快音にぼくはいささか驚く。その快打はそれほどまでに見事なヒットだった。
ひゅるる、と小さな物体が空気を裂く音がする。直後、ぼてんと自分の目の前にボールが着弾し、何回かのバウンドを経て地面にそれはコロコロと転がった。
「あの、すみません。そこのボール、取ってくれませんか?」と野球少年が言う。
ぼくは返事の代わりに片手を軽く上げる。まかせろ、の意のボディーランゲージだ。そしてぼくはボールを普通にとって普通にアンダースローで放り返した。スマートに肩から投げて返したかったところだが、生憎ボール投げには自信がない。暴投をかまして失笑を買うよりはマシだと判断した。
「どもー!」と野球少年がさけぶ。
いいことをしたので明日は晴れると思った。
「あいつ肩よえー」
普通に死ねばいいと思った。
家に帰ると静寂がぼくを出迎えた。
日頃の習慣から一応「ただいま」とだけ声をだすと「おかえり」と小さい返事がある。それはもちろん妹のユイのものだったけれど、今さら特筆すべきことではない。
特に顔を見合わせることもなくリビングに足を踏み入れる。
会話はない。
冷蔵庫をあけて中から麦茶のポットをとりだしタンブラーに注ぐ。タンブラーはいい。飲み物が冷めないし水滴が周りにつかない。そろそろ三種の神器にタンブラーを加え入れて四種の神器にすべきだとぼくは思う。どうでもいい。
麦茶を胃に流し込む。皮膚に夏がにじむような感じがした。
コップをおおざっぱに洗い、キッチンに備え付けの乾燥棚に丁寧に置く。我が家に食器洗い機や乾燥機はないが、特に不便はない。正直にいってぼくの家はあまり裕福とは言えないけど、親もぼくたち二人はそういった器具をほしいと思ったことが一度もない。なんというか、飲食にはそれに応じた見返りが必要だとぼくは思っている。それは金銭的な交換であったりするし食前と食後にごちそうさまを言うことだったりもする。そして我が家においては食器を手洗いすることでもあるのだ。
「お父さんとお母さんは今日も遅くなるそうです」
ふいに声がした。ユイの声だった。
「そうなんだ」とぼくは答える。父は仕事、そして母はまた遊びにでも出かけているのだろう。純金のネックレスや指輪を手にして。結局のところ、それはいつものことだった。何ら変わらない日常だった。
「夕食はこっちで作るの?」とぼくは問う。
「はい。今日は私が」
「そう」
「今日も遅かったですね。いつもよりは早かったですが」
「ちょっと早めに切り上げたんだよ」
最近、ぼくの帰りはいつも遅い。九時、十時を超えるのが常だ。そのわけはユイにも両親も黙ってやっているバイトにあるのだけれど、ユイには谷崎とカラオケに行っているということで話を通している。
「そうですか」
それで会話は終わる。
なんとなく数分ほどリビングのソファに座って本を眺めたりしてから、手持ち無沙汰さを感じてぼくは階段をあがって自分の部屋にあがった。PCと接続したスピーカーから古いロックンロールを流してベッドに横になる。ビートルズやレッド・ツェッペリンはいまでもロックをぼくの部屋で奏でている。良質な音楽とはそういうものなのだ。いつまでも鳴りやまないものなのだ。
しばらく音楽にたゆたい、それからぼくはベッドから身を起こした。
そして部屋の隅に設置された本棚の方へと向かう。
本棚からひっつかんできた適当な文庫本は今日はつまらなかった。つまらないが、面白くなることを期待して黙々と読み進める。もっとも本を読むときに『黙々と』以外の形容が似合うケースというのは想定しづらいけれど。
一時間ほど読んでもそれが面白くなる気配はやってこなかった。まあそういう本もあるし、そういう日もある。そういうものだ。ぼくはとにかくスピードを意識してその本を読み切ってしまい、別の本に取り掛かることにした。次はなにがいいだろう? 迷って、迷った挙句にぼくは本を読むことをやめた。一度つまらない本と巡り会ってしまった日には、きっとどんな本もつまらない本になってしまう。そういう気がしたのだ。
再びベッドに寝転がって音楽に耳をすます。名前も知らないパンク・ロッカーがしわがれ声でイデオロギーを主張するのを聞きながらぼくは軽薄な眠気に身を任せた。軽薄な誘いや軽薄な行動にない抗いがたい魅力を眠気は持っている。カラオケやそこまでの道のりで疲れ切ったぼくがそれに抵抗することは到底不可能というものだった。
暗転。
コンコンとノック音とともにユイがぼくを食事に呼ぶ。下から大声を出せばいいのにと思うけれどその光景を想像してぼくは苦笑いする。ユイに大声は似合わない。
夕食は質素なものだったがおいしかった。ご飯と焼いたサバとみそ汁。食事を通じて生きていることをかみしめると同時に日本人であることをかみしめた。
食べ終わり、おいしかったと素直にユイに伝えると彼女は一言「ありがとうございます。よかったです」と答えて片付けに向かった。作業を少し手伝ってからテレビ前のソファーに向かい、夕方のニュースをつける。今日もテレビモニターの中ではどこかの誰かが死んでいた。いつも通り平穏な日常が続いているだけだった。
平穏。
そして平穏はいつだって容易く破られるものだ。
『緊急のニュースが入りました』とアナウンサーは言う。『上由良区の路上で殺傷事件が起こり――』
「え?」
ぼくは耳を疑った。上由良というのが、ぼくたちの住むこの区域のことだったからだ。
殺傷。
死。
つい先ほどまで縁遠いと思っていた事象。それがすぐ間近で発生していたという事実は、平和な日常に亀裂を入れるにふさわしいほどの驚きを内包していた。
……いや。
何を怖がっているんだ。自分の住む区で起きた事件だといったって、まさか我が家の玄関先で起こったというわけでもあるまい。結局、他県で起きた見ず知らずの事件と本質的には変わらないのだ。
しかし、ぼくはそこで心中での独り言を中断した。中断したというより、二の句を継げなかったのだ。いやな気配が心中に充満していた。巨大な虫が壁面にへばりついていたのを感知する時のような、得体のしれない第六感が危険信号を告げていた。
いますぐこの番組を消してしまったほうがいい。遮断してしまったほうがいい。それは重々承知していた。へんに心配事を増やす必要はない。同区内で起きた事件として、ほんの少し自衛にはげむようにすればいい。それだけの話だ。
だけれど、ぼくはそうしなかった。続きの言葉を聞くことを選択してしまった。
目を背けるな。何かがささやく。
圧縮されたような声色でアナウンサーは告げる。
『現場の神代駅のロータリーには、大勢の人だかりが発生しており――』
それは、ぼくと谷崎が別れたその駅だった。
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