第12話

〈……こうして過去を振り返れば、つまり、結局のところ俺は浮かれていたのだ。物語の主人公になったような気分でいたのだ。現実がそうも思い通りにはいかないことを意識の外において、自分だけの世界で気持ちよくなっていたに過ぎないのだ。けれど、事実、世界はこの瞬間まで俺の思う通りに進んでいた。そしてそれが大きな勘違いを生んでしまったのだ。取り返しのつかないくらい大きな勘違いを。……〉



 その長大なメッセージは別れの言葉で始まった。さよならを教える言葉で始まった。

『まず、お別れを言わねばなりません』と田中さんは言った。『この話が終わったら、私はどこかに消えます。お兄さんたちの知りえない場所へ帰ることになります。これは決定事項ですし、純然たる事実です。それ以上でもそれ以下でもありません』

 違うだろ、とぼくは思う。違う。断じて違う。ここまで出来すぎに物事は運ばれてきたじゃないか? それともその結果がこれだっていうのか? たしかに展開としては悪くないさ。別れは転換のスパイスだ。

 でも、だからって、いまそれを用いる必要がどこにある?

 つまらない、とぼくはひとりごちた。声にも出さず、心の中だけで吐き捨てた。つまらない。何もかも。

 けれど、そんな自分の意志に反してぼくの視線は次々と送られてくるメッセージを順番に精読していく。

『ある程度、予想はできていました』と田中さんは言う。『良くないことが起きるのではないかと』

 予測できていたなら、事前に教えてくれたっていいじゃないか。ぼくはそう愚痴ろうとして、それからその言葉を取り消す。五分前のぼくなら、きっとそんな言葉は歯牙にもかけなかったに違いない。信じようともしなかったに違いない。

『お兄さんたちの陥っている状況は、物理的なものとはかけ離れていて』田中さんは言う。『つまり、観念的な性質を帯びた問題なわけです』

 観念的。

 ぼくはそのワードを心に刻み込む。観念的。

『宇宙にはびこる諸問題』田中さんは続ける。『輪廻する宇宙の――不定期に起きる量子ゆらぎが牽引する諸問題はすべて、実質的にはユイさんに回帰するのです。回帰。それは永劫回帰といったフリードリヒ・ニーチェの考えとひどく似通っていますが、しかし本質的な性質はまったく別のベクトルに存在します。どちらかといえば、チベット仏教の六道輪廻のほうがこの場合の諸問題に対しては違和感なく当てはめることができるかもしれません。どちらにせよ宣言された変数値を根本から修正してやるつもりはありますが。しかし根は近いのです。オブジェクト指向を持つ二つのプログラミング言語のように。

 世界は鏡写しで二つの世界を持っています。私たちが目視する月と、水面に映った月の二つを想像してもらえればわかりやすいでしょうか。それがすべてを表すわけではありませんが、ひとまずそのように理解していただければ助かります。さて。水面に映った世界はひどく不安定です。小石一つが生み出した波紋によってすべてがかき消されてしまうほどに。そしてその世界には常にゆらぎが生じています。ゆらぎは大なり小なりその世界に何らかの影響を及ぼしますが、しかし基本的にはそれはもう一方の世界と似通った現象に留まります。水面に石が投げられたとき、石は水面に投げられるのです。わかりづらいでしょうか?そうであればひとまずこの点は無視して次に進んでくださっても構いません。自ずと理解できることかと思われますので。つまり何が言いたいのかというと、世界は水面張力的な瀬戸際の均衡を保って存在しているけれど、それは滅多に崩れないのです。水は崩壊するその瞬間までグラスにたゆたっているのです。そして水は崩壊した後でも水でしかありません。それが何かしらの変化を見せるのは極稀です。極々稀で、極めて異常な事態です。

 お兄さん。そして、それが今なのです。鏡越しに重ねった二つの世界は、決して交わることのできない性質を帯びています。互いに影響を与えつつも二つは決して結ばれたり交わったりしません。そういうものなのです。そういうものなのでした。つまり、つい先程までは。お兄さん、ここまで言えばお察しくださったことかと思われますが、お兄さんとユイさんの立つその世界、それこそがつまり水面の世界なのです。いえ、正確には水面の世界を強制的に通常世界へコンバートした、限定的に存在する泡沫の世界といったところでしょうか。泡沫の世界は泡沫として、たしかにグラスの上に存在します。しかしそれは無限に存在する固定化された世界ではありません。泡沫はいつしか消えてしまいます。弾ける炭酸のように、スイッチ一つで消される照明のように、パチンとある瞬間原型を一寸も留めないまま消滅してしまいます。それなら、こんな悠長にしている時間はないのでは? と思うかもしれませんが、ご安心ください。グラスの例えを引き合いに出したことは容易にイメージしやすい手軽な物質だったからというだけで、それは一〇〇点満点の正解ではありません。六〇点が妥当といったところでしょうか。

 泡沫の世界は、非常にゆらぎやすい特性を持っています。逆に言えば、ゆらぎが起こらない限り世界はいつまでもそのままの諸要素を含んだまま存在し続けるのです。ゆらぎが起こる原因は定かではありませんが、少なくとも物理的な干渉によって均衡が損なわれることはありません。決して。考えられるのはやはり精神的な、つまり形而上学的な段階での行動に限定されていきます。お兄さん。あなたはいま自分の無力さに打ちひしがれているかもしれません。あるいは、もう絶望に身を委ねきってしまったかもしれません。いえ、ユイさんのお兄さんに限ってそんなことはないかもしれませんが。ですが一応言っておきます。

 イメージしてください。イメージを保ち続けてください。それが一度棄却されてしまったとしても、イメージを再び取り戻してください。出口は存在するのだという純然たる希望、世界はたしかに地続きに存在するのだという希望的な観測を決して捨てないでください。

 世界は観測された瞬間からその存在を決定づけられます。転じて言えば、観測されるまで世界は決定づけられないのです。泡沫の世界にたゆたう粒子はひどく不安定です。そして、お兄さん、その要素の性質を最終的に決定づけるのは、他でもないお兄さん自身なのです。このメッセージを通読しているあなた自身なのです。佐々木ユイという一現象に付随した普遍的な一個体、お兄さん自身なのです。

 ええ。酷なことを言っているのはわかります。人間はひどくもろく、不安定で、あっけない生き物です。いつだって世界に付随して、まるで砂鉄のように流動的なあなたたち人類に求めるものとしては、それはあまりにも甚大です。ですがお兄さん。いいですか? よく聽いてくださいね?』

 ぼくはただ黙ってメッセージを読み続けている。そこから意識が他に向かってしまわないように。

『あなたはユイさんを守らなくてはいけません。しゃんとしなければなりません。正解に向かって動き続けなければなりません。例えそれがブラックボックスに覆い隠された得体のしれない物であっても、あなたはその渦中に自ら手を突っ込まなければなりません。それがあなたの存在する意味、ひいては世界があなたに決定づけた義務なのです』

 絶え間なく送られていたメッセージはそこで一旦ストップする。静寂。いよいよ電波が通じなくでもなってきたのか? とぼくは思うが、幾ばくもなく通知音は再び鳴り出す。その静寂に込められた意味をぼくは知りえないし、知りえなかった。そしてこれからも。いつだってぼくは何かを知らないでいる。

『……私は。私は、干渉しすぎました。ユイさんと――お兄さんと――あるいは世界と。それは身勝手な自己判断でした。いま世界の秘密、その片鱗をこうしてお兄さんに話しているのだってそうです。おそらくクビになることでしょうね。齢一三にして無職です』

 うんともすんとも笑えない冗談だ。ぼくは田中さんのギャグセンスを改めて疑った。

『お兄さんは、さっきから私が何を話しているのか、きっと何もわからないのでしょう。当たり前です。私はいつだって自分勝手なんです。いつだって。私は一人じゃなにもできないし、しないんです。臆病だから、と一言で切って捨てられればどれほど楽になれるでしょうか。これは一種の懺悔です。先に謝っておきます。これから、お兄さんたちには大変な運命が待っています。暴風雨が過ぎ去るかのような運命が。それによってお兄さんは命を落とすかもしれません。失意の底に陥るかもしれません。誰も彼もを信じられなくなるかもしれません。お兄さんを待つ運命というのは、そういった種類のものなんです。分かっています。ひどく無茶な話をしているのだということは、心の底から理解しています。お兄さんの頭に浮かんだ疑問の色だって、私には手に取るようにわかります。意味がわかりませんよね、こんな話。当たり前です。私がお兄さんの立場だったなら、きっとそうなるに違いありません』

 メッセージが止まる。止まってしまう。

 ヴァイブレーションが鳴る。鳴ってしまう。

 そのヴァイブレーションは、メッセージの通達を示す振動ではなかった。電話の着信を示すものだった。

「田中さん」とぼくは電話に応答する。

「お兄さん」と田中さんは言う。「前に進んでください。前にです。それはいまこの瞬間だけの話ではありません。お兄さんは前に進み続けなければならないのです」

「田中さん」とぼくは言う。ぼくが聞きたいのはそんな言葉じゃない。

「ユイさんによろしくお伝えください。でも、本人にはさっきまでの話はしないほうがいいでしょう。おそらくですが。少なくともそうすることがプラスのベクトルに働くとは考えられません」

「田中さん」とぼくは言う。よろしくなんてされたくない。まっぴらごめんだ。

「後は……そうですね。私の戸籍とか私に関係した記憶とか、その辺りはうまいこと処理されるので気に病む必要はありませんよ。もちろんお兄さんたちの記憶はそのままにするつもりですし、なんら一切手を加えないことをここにお約束します」

「田中さん」とぼくは言う。それが何らかの救いになるとでも思っているなら、とんだお笑い草だ。とんだ間抜けだ。

「それ以外に言い残したことは……ええと。何でしょうか。うまく思いつきません。日頃ならどうでもいい会話の一つや二つや三つ、ポップコーンのように湧き出るのですが。ここぞというときに働いてくれないなら意味がありませんね」

「田中さん」とぼくは言う。そんなもの、帰ってからいくらでも働かせればいい。

「そうですね」と田中さんは言う。「やはりこの場にふさわしいのはお涙頂戴の感動的メッセージでしょうか。ええと、あれです。楽しかったですよ。この数ヶ月間。ごく短い時間でしたが。それなりに。いえ、結構楽しかったです」

「田中さん」とぼくは言う。「田中さん」とぼくは呼びかける。

「それでは」と田中さんは言う。「ユイさんを、よろしくお願いします」

 言ってしまう。

 行ってしまう。

 ピロン、と軽薄な音がぼくと田中さんをつなぐ電波が断ち切られたことを通知する。軽薄だ。あまりにも気軽で、あまりにも無責任な音だ。そこに込められた意味を解釈しようともしない、今世紀最大に間の抜けた音だ。ふざけた音だ。

「田中さん」とぼくは言う。

「田中さん」とぼくは言い続ける

 いくらなんだってそれはひどいじゃないか。

 それは、違うじゃないか。

 この場にふさわしい展開はそうじゃない。

 オーラスはいつだって大団円じゃなければならないんだ。

 そうだね?

 返答はない。

 誰も、何も言わない。

「田中さん」とぼくは言う。

 ユイは隣で黙っている。ただ黙っている。

 そして、ぼくの携帯にメッセージが届く。軽薄で、気軽で、無責任な音。

 携帯電話のガラス素材がその言葉を表示した。最後の言葉を。

『さようなら』

 そして、いつだってぼくは彼女の名前を呼び続けている。これからも、それからも。


 田中さんの言葉に従って、ぼくたちは前に進んだ。

 自然にユイの手を握る力が強まる。あるいはユイがぼくの手を強く握ったのかもしれない。どちらでもいいことだ。どちらにせよ、過ぎ去ってしまった事実はもう元には戻らないのだから。取り返しはつかないのだから。

 数分ほど歩いたところで、ぼくたちはドアの気配を感じ取った。ドア。ドアと仮に表記したが、正確にはそれは出口と呼ばれるべき事象だった。ドアノブなんてものはもちろん付いていない。とにかくそこを超えれば外に出ることができるのだ。それ以上の意味もそれ以下の意味もそこには内在していなかった。それはそういった一つの現象でしかなかった。

 形而上的なドア(あまりにもおざなりな表現だけど、そう呼ぶ以外にはなかった)に向けて手をかざす。

 それからぼくたちは外に出た。それは同時に別れを意味した。


 外にはまた闇が広がっていた。しかしそれは人間によって支配下に置かれた現代的な闇だった。ぼくたちが経験した闇と比較すれば、それは赤子の拳のようにチャチな闇だった。

 園内に植えられたポプラの並木にイルミネーションが光またたく。乱反射する光。それは実に幻想的な風景だった。それはあまりにも幻想的な風景だった。こんな気分でなければ、素直にこの風景を楽しめたのだろうか。

「ユイ」とぼくは声をかける。「帰ろう」

「はい」

 何もかも、今となっては分からないことだった。取り返しのつかないことだった。

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