第11話
その疑問に答えも出ないまま、光がフェードアウトする。ぴったり一秒ほどの時間をかけて闇が光を吸い込み、辺りには暗闇が広がった。
それは恐ろしいほどに完璧な暗闇だった。テレビモニターの映す暗闇ではない。コカ・コーラの示す黒ではない。深夜の軒先、そのまた向こうに広がる暗闇だった。つまり、真の意味での暗闇を空間は有していた。
「落ち着け」とぼくはつぶやく。自分に言い聞かせる。「ユイ」
ぼくは闇の中を手探り、ユイの手のひらを探した。
「はい」とユイが答え、ぼくたちはそれぞれ手を握り合う。ぼくは左手で、ユイは右手だ。
この右手を、決して離してはいけない。
ぼくはそう確信していた。根拠はない。ただ、この手を今離したら、とてつもなく悪いことが起きるような、そんな気がしたのだ。漠然とした不安があったのだ。そして、その不安は根拠がないからこそより一層確実性を帯びているように感じられた。
ぼくたちは二人して立ち上がったまま、周りの状況を確認しようとする。暗闇はさきほど座っていた座席すら覆い隠してしまっている。目が暗闇に慣れる気配は一向にしてやってこない。そして、それはたぶん永久にやってこないのだ。
ぼくは空いたもう片方の手で手探り、座席の位置を探り当てようとした。
そして気づく。気づいてしまう。ぼくはさっきから気づいてしまってばかりいる。
座席は、そこにはなかった。ぼくたちが先程まで間違いなく座っていた座席は、影も形も残さず消え去っていた。まるで土か煙にでもなってしまったかのように。
「なんなんだ」とぼくはつぶやいた。「なにが起きているんだ」
怖い、と本能がさけんだ。
ぼくの中の何かが問う。怖いか?
怖い、とぼくは返す。当たり前じゃないか。
暗闇の中では、まるで自分がどこにも存在しないかのような錯覚が引き起こされる。自分という概念が千々に散らばり、ジグソーパズルのようにバラバラになってしまうような感覚だ。ツギハギだらけの『わたし』に自分がなってしまうような、末恐ろしいまでの恐怖感。
原始、暗闇は人類の敵だった。暗闇で敵に襲われる生活をしていた時期が、人類にははっきりと存在したのだ。それから幾千年もの時間が経ち、人類はまるで暗闇を完全に制したかのような態度で地上を闊歩している。実質的にも暗闇はもはや人類の敵ではなくなったのだ。けれど、そんな今でも時々だがそれは我々に牙をむく。それらは淡々と人類に叛逆を起こすときを待ち続けている。そして、そのときが今だ。
落ち着け。落ち着くんだ。ぼくは、目の前の問題の一つ一つに冷静に対処していかなくてはならない。ユイを守らなくちゃいけない。それがぼくの使命だからだ。それがぼくの存在意義だからだ。
そうだろ?
その通り。
「ユイ」とぼくは声をかける。「絶対にこの手を離しちゃいけない。絶対にぼくから離れちゃいけない。いいね?」
「はい」とユイは答える。そして(おそらくだけれど)うなずく。目には見えずとも、たぶんその直感は間違っていないはずだ。
「よし」とぼくは言った。それから右手を闇の中で滑らせる。
壁。壁はどこだ?
ぼくは壁を探して手を三六〇度回転させた。
けれど、ぼくの背中が痛烈に打ち付けられた、あのアルミ製の壁は見つからない。間違いなくぼくはそれを背にしていたはずなのに。まさか、とぼくは考える。座席と同じように、壁までもが消えたっていうのか?
それは、あまりにも非現実的だ。思わず笑ってしまいそうになるくらい。
……いや。
非現実的。そんなこと、疑うまでもないじゃないか。
ぼくは目をそらしていたのだ。あらゆる非現実的なことから。あらゆる信じがたいことから。けれど、世界はそんなぼくの意志とは裏腹に、とっくのとうからシュールレアリズム的な性質を保有していたのだ。疑うまでもなく。
そして、その非現実の核は間違いなくユイの中に存在するのだ。
「進もう」とぼくは言う。「進まなくちゃいけない」
「はい」とユイは言う。
ぼくは一歩足を前進させた。
そしてあえなくぼくたちは空中を自由落下する。ということもなく、右足はしっかりと地を踏みしめた。地と呼んでいいのか判然としない何かをぼくは靴底越しに感じ取る。それはリノリウムのような弾力性を持っていた。ゴンドラの床と同じく。ということは、この暗闇は超現実的な性質を持っているが、それと同時に現実とも確かに地続きの位置に存在しているのだ。ならばここから現実に帰還することも決して不可能ではないのだ。……そう信じなければ、ぼくの脆弱な精神はどうにかなってしまいそうだった。だが、その思い込みはおそらく悪い思い込みではなかった。ここでは『帰れる』と思い続けていなければならないのだ。そう信じてさえいれば、非現実はそれに応じて柔軟に形を変える。逆に言えば、信じていなければそれは現実として認識されないのだ。そして、ぼくたちはこの暗闇から二度と現実には戻れなくなるのだ。
ぼくたちは歩みを続けた。
滝のように流れる汗をシャツが吸い、ぐっしょりと濡れた生地が肌に張り付く。まるで一〇キロばかり川辺を走ったあとみたいな大量の汗をぼくはかいている。気分は最悪だった。喉がからからに乾いている。まる一日水分を口にしていないかのような乾きだ。
「……」
ぼくたちはただ黙って歩みを続ける。
闇の中を進むことがこんなに恐ろしいことだなんて、思ってもみなかった。ぼくが発狂せずに済んでいるのはユイがそばにいるからこそだ。闇の中で徒歩を続けることは、巨大な化け物の口に向かって歩みを進めているかのような漠然とした恐怖をぼくに与えた。
しかし、一度壁を見つけてしまいさえすれば、それに這っていくだけで間違いなくぼくたちはこの暗闇から逃れることができる。それは確かだ。現実でのそういった法則がこの場に適用されれば、の話だけれど。しかしぼくたちの進むべき指標となりうる『壁』は一向に現れない。センサーをかざすように前に突き出されたぼくの右手はただ空を切るばかりだ。そこにはなんの感触も気配もなかった。ここには空間だけが無限に広がっていて、それを構成する壁や天井、ましてや出口なんて存在しないのでないだろうか?
待て。
ぼくは疾走する自分の思考にブレーキかける。
ここでは『帰れる』と思い続けていなければならないのだ。
「ああ、くそ」ぼくは日頃なら絶対に口にしない汚い言葉を吐く。まったく、こんなのぼくらしくないじゃないか。ぼくは自分で自分をせせら笑う。悪い流れがおとずれていた。ぼくのすべてが恐怖に支配されようとしていた。だから、ぼくは恐怖を退けなければならない。どうにかして。どうにかして? 無責任な言葉だ。何の責任感もない言葉だ。どうにかできるならば、とっくにしているはずだ。どうにもできないから今こうしているんじゃないか。そんなこともわからないのか?
端的に言って、ぼくはあせっていた。そのあせりはさらに別のあせりを呼んだ。早く、ここから出なくちゃいけない。タイムリミットなんてものはないのに、ぼくは自分で自分に有限的なタイムリミットを課してしまっていた。そうでもしなければ、つまり何か小さなゴールを小刻みに設定しなければ、自分がなさねばならないことへの巨大さに打ちひしがれてしまうような気がしたのだ。
「お兄さん」とユイが唐突に言った。「世間話をしましょう」
「世間話?」とぼくはくり返す。世間話だって?
「ここは、静かです。静かすぎます」ユイは言う。「そして、過度の静謐さは恐怖を誘発させます」
「……」ぼくは何も答えない。答えるべき言葉が見つからなかったからだ。ぼくはいつも答えるべき言葉を見つけられずにいる。
「昔の話をしましょう」とユイは言う。
「昔?」
「はい。例えば、一年前のこの日のこととか」
とユイが言って、ぼくは気づく。
そうだ。今日は――太陽暦の持つかすかなズレを無視すれば――ぼくとユイが初めて会った日だ。どうしてぼくはそんな大事なことを忘れていたのだろう?
「あの時は、二人ともそろって緊張しきっていましたね」とユイは言う。
「うん」とぼくは答える。「緊張していた。吐きそうだった」
「私もです」
「知らなかったな」
「言ってませんから」とユイは答える。「こんな状況じゃなければ、きっとこの先もずっと話さなかったと思います」
「こんな状況」とぼくは言う。
「すごく突飛な状況」とユイは言う。
「うん、まったく……」ぼくは言う。「ヘンテコにもほどがある。へんてこりんがどんどこりんって感じだ」
「アリスですか?」
「うん。不思議の国のアリス……最近読んだんだけど、このセリフが気に入っちゃってさ。いつかどこかで使えないかと思っていたんだけど、まさかこんなところで使うことになるとは思わなかった」
「それもそうですね」とユイは答える。「予想できたら、大したものです」
「それもそうだ」とぼくは答える。
そして二人の間には再び沈黙が広がった。
でも、この沈黙は苦しい沈黙ではなかった。息苦しい沈黙ではなかった。
「あのさ」だから言葉はひどく自然に、岩間を伝う水滴のように流れ出てきた。「謝りたいことがあるんだ」
「謝りたいこと?」
「うん」ぼくは意を決して言う。謝りのフレーズはもう心の中で定まっていた。何度もくり返てきた。飾らずに、端的に、実直に。余計な言葉はいらない。「日記、さ。その……盗み見ちゃって、ごめん」
「……」しかし、ユイは黙っている。
ぼくは目の前が真っ暗になったかのような気持ちだった。口の中に血の匂いが広がる。頬の肉をかんでしまったようだ。鈍い痛みが広がる。
なんてことだ。これだけお膳立てされたのにも関わらず、ぼくはどこか間違えてしまったのだろうか?
「ええと」ユイは言う。「ごめんなさい。何のことだかさっぱり分からなくて」
「へ?」ぼくは素っ頓狂な声をあげる。「ほら、二日前にさ」
「ああ」そのときになってようやくユイは気づいたようだ。「いえ、あれは……」
「あれは?」
「別に怒っていたわけじゃなくて、その」ユイは言う。「少し恥ずかしくてああいう言い方をしてしまっただけで……」
「そ」そんな馬鹿な。と言いかけてぼくはつんのめる。そんな馬鹿な。
「あの、もしかしてなんですけど」ユイは言う。「今日、遊園地に来たのって」
「……」ぼくは何も答えない。あまりにも恥ずかしいからだ。
「馬鹿ですね」ユイはめったに言わない言葉を口にする。「馬鹿です。お兄さんも田中さんも。むしろ、それを知っていま少し怒っているまであります」
「あ、はは……」ぼくは苦笑いをする。なんだよ、そんなオチなのか。ちょっと今日のぼくは間抜けがすぎる。あまりにも……あまりにも馬鹿だ。ぼくも田中さんも。「ははは」
「もう……本当に馬鹿です」と言ってユイは笑う。顔は見えないけれど、きっと笑っているに違いなかった。
そしてぼくは思いだす。
田中さんの作成した本作線の計画書をだ。
『第一回 超仲直り計画スケジュール表』
超いい感じに遊園地を楽しむ。
めちゃいい感じに和やかな空気を作る。
暗くなってきたころ、バリいい雰囲気で先日のことを謝罪。
ザッツグレート。
暗くなってきたころ。
「あはははは!」いよいよ耐えきれなくなってぼくは大声で笑い始める。出来すぎだ、何もかも。誰かが仕組んでるのではないかと疑ってしまうくらい。
ピロン、と軽薄な音がした。気軽な音がした。聞き慣れた音だった。
……音?
音の出どころはぼくのポケットに入った携帯電話だった。
……ああ。本当に、ぼくは馬鹿だ。馬鹿の中の馬鹿だ。救いがたい馬鹿だ。こんなに身近にあった光源に気づきもしないなんて。
ぼくはポケットから携帯電話を取り出した。モニターの電源をつける。二度と晴れることのないように思えた圧倒的な暗闇は、携帯電話という文明の利器によって至極あっさりと切り開かれた。
ぼくはモニターに目をやった。久しぶりの光で目が痛い。思わず目をすぼめてしまう。しかし、しだいにその痛みにも慣れてきて、ぼくは通知画面をようやく判別することができた。
ここまで出来すぎに物事が運んでいるのだ。メッセージの送信者は、もちろん決まっている。
田中さんだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます