第10話

 ゴンドラが地をたつ。

 大きな中央の枢軸から伸びたフレームの一辺がぼくたちを支え、高く天へと導く。シミひとつ無い、いっそ空虚までの青空へと。天使と神が座するかもしれない天国、それに最も近い場所へと。

 見下ろせば、列を構成する人間たちが秒を重ねるごとに小さくなっていって、その変化の様子は少しだけ面白い。まるでカメラをゆっくりとズームアウトさせていくような光景だ。

 観覧車が回転する仕組みはひどく単純である。各ゴンドラの真上に設置された自転車のタイヤのような部品が動力を生み出し、上へ上へとゴンドラを運び出し、そして上空から地へと再び取り戻す。まるでゴンドラの出前配達みたいだ。宅配と回収のくり返し。

 そんなことを考えていると、ふと、ぼくはあの日食べたラーメンを思い出す。あの日。両親ともに仕事が遅くなるため、ユイと二人で出前をとって夕飯を済ませた日のことだ。雪の降る冬至だった。空気の冷たい夜だった。

 ぼくは思い返す。あのラーメンは、実においしかった。中太の縮れ麺が昔なつかしの醤油をベースとしたスープとからみ、生み出される七色のハーモニー。月並みな感想で申し訳ないけれど、あのラーメンに最も似合う言葉は『月並み』であると、ぼくはそう思う。つまるところ、この月並みは最上の褒め言葉としての月並みなのだ。純然たる利点としての月並み。何者にも代えがたい月並み。

 しかし、それを押しのけて素晴らしかったのは、何より熱々だったことだ。

 お手本のように熱々だった。

 湯気が立つほどに熱々だった。

 ぼくは感謝する。いや、感謝しなければならない。

 寒い中、食べ物が冷めてしまわないよう迅速にラーメンを届けてくれた配達員、そしておいしいラーメンを作ってくれた中華飯店の従業員にだ。やはり食べ物は熱々に限る。ぼくから言わせれば、冷めた料理からは元々保有していた魅力の過半数が失われてしまっている。この世で冷めていいのは夏季の冷やし中華と倦怠期のカップルだけだ。

 ところで、ぼくたちのゴンドラ内部の空気はひどく冷めきっている。

「……」

 ユイは何も言わない。

「……」

 ぼくも何も言わない。

 ぼくたちは向かい合ったまま、ただ観覧車の動きに身を任せている。風にたなびく鯉のぼりのように。

 さりとて、これはこの状況下における特別な沈黙というわけではない。家で二人で過ごすときなどは今の状況と同じように二人して沈黙し続けるのが常だ。元来、内気なのである。二人ともそろって。とはいえ、決してその沈黙は苦でありはしない。十数年付き合ってきた内気という性格を矯正することはできないけれど、順応することはできる。つまり、二人とも沈黙には慣れているのだ。

 けれど、今回ばかりは話が別だ。音が……ほしい。ゴンドラの駆動音以外の音が。付け加えるなら、こちらを眺めやるユイの視線をさえぎる完全な闇も同封してくれれば幸いだ。あるいは今すぐぼくの眼球と鼻孔と鼓膜をつぶして、破ってくれ。そうして知覚できないようにしてしまえば、視線の痛みを感じることだってなくなる。すべてを感じないでいられる。いつかの日と同じように。

 はらりと落ちる、真っ赤なカーネーションの花が具象化されたイメージとして脳内に広がった。順応しろ。慣れてしまえ。心を圧縮しろ。

 耐えきれず、ぼくは再び地上を見下ろした。人々はもはやゴマ粒のように見える。

 もう少し遠くを見渡せば、川の上にかかったトラス橋を無数の車が通過していくのが確認できる。車たちは手前側に、あるいは反対側にビュンビュンと得体の知れないスピードで走り去っていく。

 どれくらいの速度が出ているのだろう?

 ぼくは車、というか交通事情全般に詳しくないので、それがよくわからない。予測することもできない。まあ、とにかく早いのである。

 ぼくは考える。

 なぜ、そんなに急がなければならないのだろうか。一体誰に追われているのだろうか? あるいはスピードを出す、それが大人になるということなのだろうか? 

 ……いや、違う。

 よくよく観察すれば、車たちのスピードは早くとも、それらはみな一様に規定のレールの上を走っている。それは周囲に迎合すること、普通という概念に適応することであるけれど、同時に何者でもない自分になることでもあるのだ。

 何者でもないという状態はとても居心地がいい。それ以外、なにも欲さなくなるほどに。だから子供は大人になるにつれて何者かになろうとすることを諦め、いつしか自分を捨て去る。原型も留めないほど無残に何もかも捨て去ってしまう。

 とすると、ぼくもいつかはそうなるのだろうか。

 『わたし』を捨てた私へと成長してしまうのだろうか。

 物事はすべてユイに収束する、と田中さんは言った。それは田中さんの妄言であるとしても、とにかく物事が最終的に何かに収束する、というのは間違いではないと思う。結局、世界は収まるべきところに収まるのだ。たぶん、ぼくも含めて。それはいけないことなのだろうか? 悲しいことなのだろうか? 

 答えはわからない。

 ぼくは何も知らないのだ。何も知らないし、何も知りえないのだ。

 ぼくたち子供の保有するスピードは、みなバラバラで不安定だ。均一化された大人たちのそれとは違って。そしてもちろん、ぼくのスピードだって今はまだ安定していない。いつか均等に配置されるとしても、まだバラバラだ。それがぼくには怖く感じられる。それがどこに行き着くかわからないからだ。

 急速に心が萎えしぼむのを感じる。もう、いいじゃないか。諦めてしまってもいいじゃないか。今までの一年、ぼくは十分にやったさ。兄として、人として、ユイの兄として。だから、もう――

 ピロン、と間抜けな音を立てて携帯電話のヴァイブレーションがメッセージの到着を通知した。それは場違いなほど気の抜けた気軽な音だった。

 ぼくはポケットから手のひらほどのそれを取り出し、メッセージアプリを立ち上げ、その着信が田中さんからのものであることを知る。

『お兄さん』とメールは始まった。

『遠方からでもわかりますよ。どうせ、あれこれと理由を付けて悪い方向に流れていこうとしているんでしょう?』

 うるさいな、とぼくはエアメールを返す。海を飛び越えない精神的なエアメール。

『だから、私が強制してあげます。その偏屈で後ろ向きな心を矯正してあげます』

 メールは続き、そしてこう結ばれる。

『現在は、今なんです。今しかないんです』

 画面を見つめ、数秒ほどぼくは考えた。

 しゃんとしろ、とぼくの中で誰かがささやきかける。

 そして、ようやくぼくは気づく。ぼくの中の何かが再び立ち上がるのを感じる。

 それがいかなるスピードを持つかは、誰にもわからない。七〇キロかもしれない。八〇キロかもしれない。九〇キロかもしれない。だったら、激突してしまえばいい。得体の知れないスピードでどこかに走り去ってしまえばいい。いつか後悔する日がくるとしても、今だけはそれでいい。

 観覧車はさらに上昇して、そして最も高い高度へと達そうとしていた。時計で例えるならちょうど一二時の方向だ。

「ユイ」とぼくは言った。「話がある」

「なんですか」とユイは答える。

 気張れ、とぼくは自分に言い聞かせる。現在は、今だ。今しかない。

 ぼくは口を開く。

 しかし。

 ぼくのその決心は強烈なゴンドラの揺れによってかき消される。人の頭蓋骨ほどの石をトラックで踏んでしまったような、下から上へと突き上げるような揺れだ。脳内をミキサーにかけられたように脳天に響く揺れだ。

「わっ」とユイが悲鳴をあげる。それはもしかするとぼくの声だったのかもしれないけど、どうでもいいことだ。

「なんだ?」と言ってぼくは状況を確認しようとするが、縦揺れの余韻も冷めやらぬまま、今度は横揺れがぼくたちを襲った。慣性の法則に従ってユイのバックが座席を滑り落ち、リノリウム張りの床に落ちる。中に入っていた文庫本や筆記用具、財布などが衝撃のはずみでバッグの口から散らばる。

 慣性の影響を受けたのはユイのバッグだけではなく、その持ち主も同じだった。ポーンとなんの前触れもなく、それこそ人形かなにかが投げ出されたかのようにユイはゴンドラの空に投げ出される。向かう先はもちろんアルミの壁だ。ユイは軽いけれど人形ではない。当たりどころが悪ければ、当然相応の結果が返ってくる。それは明白だった。

 ぼくは背をゴンドラの壁に激突しかけるのに不屈の精神だけで立ち向かって、なんとか崩れかけた姿勢を矯正する。ユイの座る席はぼくの対角線上にあった。ぼくからして一歩分ほどの距離だ。手を伸ばしただけではユイには届かない。動け、とぼくはぼくの足に命じる。今動かなければ、この足は一体なんのために付いているというのだろう?

「ユイ!」ぼくはさけんだ。前に飛び込み、ユイの両肩をつかんでこちら側に引き寄せようとする。空に投げ飛ばされた人間一人をたぐり寄せるのは並大抵の力では不可能だ。腕の筋肉が悲鳴をあげているのをぼくは聞き取る。いいさ、ちぎれたって構わない。ぼくは胸元にユイを抱きかかえ、後ろに倒れ込んだ。ガン、と背を強く壁に打つ。遅れて足に強い痛みが走る。くじいてしまったようだ。

「ありがとうございます」とユイが言う。「大丈夫ですか?」

「大丈夫」嘘だった。本当はいますぐ足首を抑えて地面をのたうち回りたかったくらいだ。背中も腕も過度の負荷によってつりそうになっている。しかし、ユイにいらない心配をかけるわけにはいかない。ぼくは無理に平常通りの声を出して言った。「それより、一体どうしたんだろう」

「さあ……」ユイは答える。

 ぼくは立ち上がると、身を乗り出し、窓から外を眺めやった。

 そして気づく。気づいてしまう。

「なんだよ、これ」呆然としてぼくはつぶやいた。

 外は、何者も寄せ付けない黒で染まっていた。純然たる黒だけがそこにはあった。

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