第9話

「おっと。私としたことが」

 レストランを出て数分ほど歩いた後、田中さんがとつぜんそんなことを言う。実に不自然な所作だ。大根役者と呼ばれるのがいいところ、実際はさながら株役者といったところで、ぼくはさっそく不安に襲われる。

「どうしたのですか?」とユイが問う。

「忘れ物をしてしまいました。たぶん、レストランにです。たぶん」

「たぶん、ですか」ユイが疑惑の目(おそらく、ぼくの主観による色眼鏡が混じっているからそう見えるのだ)を田中さんに向ける。それが自分にも向けられているような気がして、思わずぼくは視線をそらす。ぼくはいつだって嫌なことから目をそむけ続けてきたのだ。昔も、今も、これからも。

「はい。たぶん」と田中さんは答え、そしてぼくに目配せをする。

 わかりましたね? と田中さんはぼくに問う。

 わかったよ。ぼくは答える。

無言の会話。

 ぼくはテレパシーを送る。覚悟を決めろってことだろう?

 ええ、そうです。

 難しいな。

 ええ、難しいですね。

 それをこれからやらなくちゃいけないわけだ。

 ええ、そのとおりです。やらなくちゃいけません。

 わかったよ。ぼくは答える。

やり取りはそれきりにして、ぼくたちは両名をつなぐ電波を断ち切った。

「待ってます」とユイは言う。「ですから、ゆっくり取りに行ってきてください」

「それには及びません」と田中さんは言う。「大事な大事なユイさんとお兄さんの時間を、私の粗相一つで奪ってしまうわけには決していけません。けっして」田中さんはさらに続けて言う。一息に。息を乱さず。「ですから、ひとまずお二人で楽しんできてください。私はあとから追いつきますので」

「でも……」ユイは逡巡を見せる。当然の反応だ。誰だってそうする。ぼくがこの策謀の犯人の一味でなかったなら、きっと同じ反応を見せていたはずだ。品行方正・清廉潔白・聖人君子なユイなら、なおさら。

「ついでにお手洗い行くんです! 察してください!」と田中さんはさけぶやいなや、レストランの方角に向かって有無を言わさず走り去っていく。さながらチーターが横を走り去ったがごとき微風が巻き起こった。華やかなシャンプーの残り香。オーガニックシャンプーらしき匂い。

 そう。脇目も振らず、去っていく。跡形もなく。

「……」ユイは黙っている。

 ぼくのこめかみをツウと汗が伝った。嫌な汗だ。精神的に体温を下げさせる、できることならばあまりかきたくない部類の汗だった。

 ぼくは思う。今のは、いささか、わざとらしすぎなかったのではないだろうか。いかにもといった感じではなかったろうか。

 これで、もしぼくたちの真意に気づかれるようなことがあったら、とぼくは危惧する。

 いや。

 ぼくは悪い方向に流れていこうとする思考をそこでせき止める。いつだか旅行で見物した黒部ダムをぼくは心中でイメージする。決壊寸前の瀬戸際でピタリと静まった水面。そういったイメージだ。

 たしか、田中さんはこう言っていたはずだ。いっそわざとらしいくらいに、と。だからこれでいいのだ。ぼくと田中さんの間に流れる特殊な空気感を、むしろユイに察させてしまったほうが都合が良い。

 だって、どちらにせよ、この旅の最終目的はぼくとユイとの仲直りにあるのだから。だから、一向に問題がない。最終的にその目的が果たせさえすれば、そこに至るまでの過程に対してどこまでも無頓着であったとしても、一向にかまわない。

 ダムは決壊を瀬戸際で食い止めるからこそダムであり、それが存在意義なのだ。だからこそダムとしてそれは機能するのだ。つまるところ。

「そういうわけだから」意を決して、ぼくは口を開く。「行こうか」

「そういうわけで」ユイはぼくの言葉を反復する。

「うん。そういうわけで」

「……はあ」

 たぶん、これからが本番なのだ。本筋なのだ。本質的に。

 ぼくとユイはあるき出した。

 何事においても肝要なのは、まずやり始めることだ。ぼくが思う限り。そうでなければ、何もかもは始まらない。


 命令は簡潔に完結していた。

 そして、おおよそぼくの予想の範囲内に収まるものだった。

 田中さんから受け取ったメールの文面がこうだ。

『とにかく観覧車です! 観覧車! 一も二もなく観覧車!』

 観覧車。

 ぼくはひっそりため息をつく。観覧車。ありふれている。ありふれすぎている。……遊園地といい観覧車といい、田中さんのチョイスは実に定石どおりで、実に遊び心がない。

 まあ、ぼく一人ですべてを考えて、その結果レールを大きく脱線するような事態に陥るよりかはマシなのかもしれないけれど。なにせ、これは自慢ではないけど、ぼくは向こう見ずだ。言ってみてなんだけど、本当に自慢にならないな……。

 そしてメールはこう続く。

『そこでいい感じに決めてください!』

「……」

 もはや何も言うまい。

 ぼくはため息をつくこともなく、ただただ自分がなさねばならないことの難易度に辟易とした。いい感じに、観覧車で、仲直り。三文節で表現できてしまうこれのどこが作戦なのだろう。田中さんのあの自信はどこからやってくるのだろう。

 しょげかえった気を取り直し、ぼくはユイの方へ顔を向ける。

 正念場だ。

「観覧車らしい」とぼくは言う。

「らしい?」ユイは表情に疑問の色を浮かべ、そこでぼくは自分の犯したミスに気がつく。

 失言だ。

「あ、いや。違った」慌ててぼくは取り消す。かじを切り、軌道修正を図ろうとする。「観覧車に乗ろう、って言おうとした。間違い。いまの」

「はぁ」とユイは気のない返事をする。「どうしてまた」

「ど」予想外の返答に、ぼくはどもる。「どうして?」

「あ、いえ、少し気になっただけで……別に、大した意味はないです」

「なるほど」ぼくは冷静を装って言葉を絞り出す。どう答えればいい?「ほら……観覧車から見る夜景は綺麗だって、そう思ってさ」

「まだ昼間ですが」

「昼間だから行列がなくて、チャンスだと思って」

「年中ガラガラですが。この遊園地」

「……」

 いますぐこの場から逃げ出してしまいたい。

「ひ」ぼくはどもる。再び。「昼間だからこそ、ほら、夜の夜景とは違った都会的な、アーバンな雰囲気がさ。」

「都会的とアーバンって、意味、かぶってませんか」

「……」

 実に頭痛が痛い展開だった。

「とにかくだ」ぼくは言った。「観覧車だ。観覧車に乗ることにしよう」

 一も二もなく。

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