第8話

 まず、ぼくたちが選んだアトラクションはムービングチェアズという名前のものだった。それはどういうアトラクションなのか? と説明を求められれば、答えは明瞭だ。

 つまり、空中ブランコである。一本の太軸を土台として、周りに飾り付けられたチェアがぐるぐると延々に空を回り続ける、そういったものだ。

 ところでだが、ぼくは絶叫系のアトラクションが大嫌いだ。なぜって、怖いから、としか答えようがない。しかしそれを小学生二人にあけっぴろげに伝えるのは、ぼくの微々たるプライドが許さなかった。

 ぼくはすくむ足を奮い立たせ、アトラクションの行列に加わった。後ろにユイと田中さんが並ぶ。ずいぶんと繁盛している遊園地らしく、ぼくたちが列に並んだ数分後には、さらに十数人の客がぼくたちの後ろに続いていた。

「もうすぐですね」と田中さんが言う。「期待と不安が入り混じってすっかりダークマターです。わたしの心は」

「なにそれ……」とツッコミをいれるぼくの声は蚊の鳴くような声量で、その違和感を二人はばっちり補足した。

「お兄さん……」とユイが何かを言いかけ、ぼくは手を差し出してそれを止める。

 ぼくは努めて平静を装いながら言った。「怖くなんか……ない。マジでない。ぜんぜん、怖くない」

「自分で答え合わせしちゃいましたね……」という田中さんの言葉で、ぼくは自分がしでかした失敗に気がつく。

「いや……違うんだって。だからさ、つまり……」

「安心してください」と田中さんが言う。「このアトラクション、そんなに高くないですから」

「いやさ、高いとか低いとかそういう問題じゃなくて……」

 などと言ってるうちにもぼくの中の恐怖症はみるみると体積を膨張させていき、いい加減にもう辛抱が効かなくなってくる。

「やっぱ、乗るのやめようかな」ぼくは情けなく嘘を並べ立て始める。「お腹いたくてさ。朝の牛乳が原因かな。はは、ははは。いや、ホント。ホントにお腹、いたいんだよ。嘘とかじゃなくて」

「嘘が下手ですね、お兄さん」と田中さんはジト目をぼくに向ける。


 そのとき、ぼくの鋭敏な耳はそれを感じ取った。

 それというのは、クツクツと、噛み殺したような誰かの笑い声のことだ。

 まさか、とぼくは思って、後ろを振り返る。

 案の定、いや、想定外にも、笑い声の持ち主はユイだった。

 しかし、ぼくの視線が向けられた瞬間、彼女はそのか細い笑いを引っ込めてしまう。ひどく残念なことに。

 思えば、ユイが家へ来てからの一年間、彼女が声をだして笑っているのを見たのは、初めてかもしれない。そのくらい、普段のユイは無表情で無愛想で無感情なのだ。

「こほん」とユイは咳払いをひとつする。それで誤魔化しているつもりなのだろうか。

「い……いまの、聴きましたか」と田中さんはぼくに耳打ちしてくる。「笑ってましたよね、いま、ぜったい」

「たぶん」とぼくは曖昧な言葉を返す。ぼく自身、信じられないのだ。ユイが笑うなんてこと、地軸が九十度回転でもしない限り起こりえない、とぼくは思っていたのだ。いま目の前で起きた現象が本当に起こったことなのか、ぼくはそれを裏付ける証拠を見つけるために、自分のほおをつねってみせた。痛い。リアルな痛み。

「現実だ」とぼくは田中さんに耳打ちする。「紛れもない現実」

 そしてぼくは思う。

 この『仲直り作戦』、案外悪くないのかもしれない。

 グッジョブ田中さん。フォーエバー田中さん。

 世界は平和だ。


 ぴいいいい!

 というのはヤカンが沸騰を知らせる音ではなく、ぼくの悲鳴だ。もしかすると、高齢の人だと聞こえないかもしれない高温域をぼくののどは鳴り響かせた。近くのチェアに座ったお客さんがギョッとしてぼくのことを見る。恥ずかしい……。穴があったら入りたい、という慣用句を、ぼくはいままで冷めた視線で見ていたのだが、今ここで本当によく理解した。ああ、理解したとも。穴があったら入りたい。

 それから二分足らずくらい回転が続いて、ようやくのことでアトラクションはその動きを止める。

「終わった……」

 ぼくは力なくつぶやいた。

 精根はとっくのとうに尽き果てていた。代わりに削られたのは、とても大切な、ぼくをぼくたらしめる何かだった。聞くところによると、魂の重さは二一グラムらしい。誰か体重計を持っている人がいるなら、ぜひぼくの体重を量ってみてほしい。たぶん、ぴったり二一グラムだけ減っているに違いないから。

「あはははは!」と田中さんがグロッキーなぼくを見て大声で笑う。

「次は……次は、もう少し激しくないアトラクションにしよう」

「情けないですねー」

「……」

 返す言葉もない。

 情けない。

 自分が恥ずかしい。

 だが、いつだって成功には犠牲が必要で、転じて言えば犠牲には成功の可能性が含まれるものだ。

 横目に、ぼくはうすく微笑むユイを見る。

 いいぞ。いい調子だ。回転ブランコくらい何回だって乗ってやる。気張れ、ここが正念場だ。

 ぼくはぼくに言った。


 ぴいいいい!

 というのは今度こそヤカンが沸騰を知らせる音……ではなく、またもやぼくの悲鳴だ。リフレイン。

「ちょっと……大丈夫ですか?」と田中さんがぼくの顔を見て言うが、

「なにが?」とぼくは彼女が何を心配しているのかわからない。

「なにがって……お兄さん、ちょっと尋常じゃない顔色してますよ。世界が終わるまであと5日みたいな感じです」

「なにそれ……」

「自分の目で見てみてください」

 田中さんはぼくの眼前に手鏡をかざす。

「ああ……」

 そこには青魚が写っていた。ゾンビみたいだ、なんて安直な表現はこの場には似つかわしくなかった。ぼくは青魚だ。イワシだ。ニシンだ。煮付けにされてしまえばいい。

「ううん。ちょっと、からかえる範疇を超えてきちゃいましたね」

「きゅうけい、休憩にしよう。いいよね?」とぼくはユイと田中さんの二人に訊く。もはやそこには恥も外聞もありやしなかった。

「大丈夫です」とユイはうなずく。

「そろそろお昼時ですしねー」と田中さんが続けて言って、ぼくは自分の空腹に気がつく。

「どこかで、お昼にしようか。どこがいい?」

「どこでもいいですよ」と田中さんが言う。

 こくり、と動作だけでユイも同調する。

 ぼくは言った。「じゃあ、ここは豪勢に、昼からレストランにしようか。お金なら、親からたくさんもらってこれたしね」とぼくは言って、そして気がつく。

 ユイとぼくは前述の通り両親から十分なお小遣いをもらってきているから問題ない。けど、田中さんもそうであるとは限らない。小学生の懐事情たるや、物寂しいのが普通というものだ。こちらが仲直りの仲介を頼んだ手前、ここはこちらからおごりを提案するのが常識的ではないだろうか。

 そう思い口を開きかけたぼくを、田中さんは手で制する。

「あ、お金のことなら、心配ありませんよ」

「いやいや。こっちが付き合わせてるんだし、そういうわけには――」

「これだけもらってきているので」

 ぼくの視界に諭吉が十人ばかり立ち並ぶ。

「ああ、じゃあ……」

 なにが『じゃあ』なのかもわからないまま、ぼくはぼんやりと返事を返した。

 ふと、もっと以前から浮かんでしかるべきの疑問がいまさら意識の表面に浮かび上がってくる。

 田中さんって、何者なんだろう?

 ……まあ、いいか。

 考えるのも面倒で、ぼくは園内マップを取り出し、レストランの位置を確認することにした。

 北東。

 ぼくたちは歩き出した。


「お待たせいたしました」

 と言って、店員さんがぼくたちの注文したメニューを順番に読み上げ、それぞれの料理が机上に置かれていく。

 レストランはわかりやすくイタリアンな風貌をしていて、ぼくはアルデンテのミートソーススパゲッティ、ユイはカルボナーラ、そして田中さんはオリーブオイルの垂らされたピザ(ビスマルクという名前で、半熟卵とハムが乗っている)を注文した。このようなレストランでは、上品にピッツァと書き表したほうがいいのだろうか? まあ、どちらでもいいことだ。

「おいしそうですねー」と田中さんが気の抜けた調子で言う。

「うん」とぼくは答え、そして食事に手を付ける。

 そのまま、ぼくたちはスパゲッティとピザを黙って食べた。カツカツと食器にフォークがあたる音が控えめに響く。それはじつにおいしいスパゲッティだった。だから沈黙は苦ではなかった。つまり、沈黙に耐えうるだけの味をしたスパゲッティだった。沈黙を内包したパスタだった。

「これから、どうしましょうか」と田中さんが切り出し、静寂が破られる。田中さんは言ったあと、ぼくの方にチラチラとめくばせしてくる。

 その視線の意味がわからず、ぼくは訊いた。「どう、って?」

「どうもこうも、今後の行程についてに決まっているじゃないですか」

「ああ、なるほど――」ぼくは納得する。「まあ、いきあたりばったりでいいんじゃないかな」

 というぼくの返事を聞き、田中さんは「そうですねーあははー」と言ってほほえんだ。百点満点のほほえみだった。ぼくも同じく笑い、二人でふふふと笑い合う。平和な日常の一ページ。そして田中さんはぼくの足をつま先で蹴った。テーブルの下。するどい痛みがふくらはぎに走る。

 ホワイ。ぼくは目線で抗議する。なんだってこんな目にあわなくちゃいけないんだ。ぼくが何をしたっていうんだ。

「ちょっとお手洗いに」田中さんは言って席をたち、店の奥へと消えていく。

「ああ、うん……」ぼくは答える。

 ユイと二人残された静かな静寂。なんだかすわりが悪く、ぼくはしきりに咳払いをする。

「……おいしいですね」ユイが口を開く。

「え?」

「このパスタです」

「ああ、そうだよね。うん、おいしいね……」

 二の句を継げず、ぼくは黙り込む。

 黙り込むこと以外、ぼくに何ができただろう?

「どう、遊園地は楽しい?」ぼくは問う。下手な問いだ。

「はい。それなりに」

「それなり……」

「言い方が悪かったですね」とユイは言う。「言い直します。十分に、です」

「十分」ぼくはくり返す。十分。

 それは、つまり満足しているということなのだろうか?

 と、直接本人に問えばいいじゃないか、と君は言うかもしれない。でも、そんな度胸があったなら、こんな遠回りな仲直りには至っていないに違いない。

 沈黙が広がった。

 言葉だ。ぼくは思う。言葉を探せ。

 それは、なんだか一年前の、あの初対面の時の心境にも似ていた。

「ああ、その、ええと……」

 曖昧な雰囲気。言葉が継げないがゆえの、言葉にならない雰囲気。

 その時。バイブレーションと共に、ぼくの携帯電話に着信がくる。

 ぼくは通知を確認した。そこにはメッセージがあり、それは次のような文言だった。

『こっち来てください! 速攻!』

 ありがとう田中さん。

 ぼくは大いに感謝する。


 手洗い前の空間に向かうと、そこには田中さんの姿があった。女子トイレに呼び出されたわけではないことにホッとしつつ、ぼくは口を開いた。「なんだってのさ」

 なんだってのさ、というのは、もちろんあのテーブル下での痛烈な一撃に対する抗議の位置も含んでいる。

「作戦会議です」と田中さんは答える。「お兄さん、元の目的を忘れてはいませんか?」

「元の目的って……」

「仲直りです」

「ああ……」ぼくはため息をつく。自分がそれを意識の外に意図的に外していたことに気がついて、自己嫌悪が生じる。「忘れてはない……けど、あまり考えないようにはしてた。目をそらしていたっていうか、意識から除外していたというか」

「それじゃあ、意味がないじゃないですか」田中さんは言った。「私たちはただ遊園地を楽しみにきたわけじゃないんですよ? お兄さん」

「ごめん」ぼくは素直にあやまる。

「よろしい」と田中さんは言って、言葉を続ける。「手厳しいことを言いましたが、しかしながら、いまのところ計画は順調です」

「そうなの?」

「だって、ユイさんは十分に楽しんでいるようじゃないですか」

 十分。ぼくは脳内でくり返す。また十分か。

「まあ、確かに」とぼくは応える。フラッシュ。ぼくの脳内にさきほどのユイのほほえみが想起される。思いがけぬ瞬間にふとおとずれた、貴重な一ぺージ。「実際のところ、いい感じだとぼくも思うよ」

「でも、それじゃあ意味がないのです」田中さんは言う。「いい感じじゃダメなんです。超いい感じじゃなきゃダメなんです」

「超いい感じ……」

 ぼくはわけがわからなくて立ちすくむ。

「お兄さんは、もっと行動的にならなくてはいけません」

「行動的」とぼくはくり返した。行動的「難しいな」。

 ぼくはさっきから、やたら同じ言葉をくり返してばかりいる。きっと前世はオウムなのだ。だからこんなにも不器用なのだ。

「難しくともなんとも、とにかくやらなくちゃいけないのですよ」と田中さんは言う。「それとも、このまま楽しく遊んで帰りますか?」

「……いや。それは、ダメだ」

「そうでしょう」田中さんは言う。「だから、こうしましょう」

「こう、って?」

「いいですか」田中さんは人指し指を眼前にかかげ、そして一言一言、ところてんを絞り出すように発声する。「いっそわざとらしいくらいに、これみよがしに、私が場をセッティングします。そうでもしなくちゃ埒があきません。何をすべきかは、私がすべて指示します。ですから、お兄さんはただ小川のように身を任せてください」

「小川のように」

「そうです」

「……」ぼくは何も言わない。

「いいですか? わかったらワンと答えてください」と田中さんは言う。「ワンです。ワン。英語じゃありませんよ? 犬の鳴き声のワンです。英語で言うところのバウです。ビー・オー・ダブリュー。わかりますね?」

「ワン」

 そう。ぼくは忠犬ハチ公だ。ワンワン。

 ……今度こそ、信じてみてもいいのかもしれない。

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