第6話
翌日、ぼくは苦悩していた。
ノリがない。
ちなみに言っておくとノリというのは文房具のノリであって海産物のノリではない。というのも翌日の提出物をノートに張り付けるためにそれが必要であって、しかしいまは切らしていたのである。関係ないが海産物の方のノリも切らしていると母が夕食時に言っていた。明日あたり、お使いに出向いて駄賃を得るのも悪くない。
提出物についてだが、ホッチキスで代用という手もある。が、なんだかそれは心地が悪い。完璧主義なところがあるのだ、ぼくは。宿題は完璧な状態に済ませてしまわないと夜もよく眠れない。あまり熱心に勉強をするタイプではないけれど、それとこれとはまったくの別問題なのである。
というわけで、ぼくはユイにノリを借りることにし、彼女の部屋のドアをノックする。
コンコンカツコツ。しかし反応はない。
「ユイ?」とぼくは声をかけるが、それでも返事は帰ってこない。
はて、手洗いに行っているのだろうか。ノリを借りる程度のこと、別に勝手に入っても怒られることはないと思うが、プライバシーの観点から考えると少しまずい気もする。だって、ぼくたちは肉親じゃない。たとえそうであってもプライバシーは守るべきだとぼくは考えるし、だからこそぼくたちの関係ではなおのことである。
「ううん……」
思い悩んで、ぼくはドアノブをひねる。家族だからオッケー? オッケー! 卒中とか起こしてるかもしれないし!
ぼくは変に躁の入ったテンションでユイの部屋に入った。
「……寝てたのか」
すうすうと静かな寝息をたててユイはベッドに横になっていた。掛け布団がずれて上半身が空にさらされている。ぼくは布団をあらためて掛けなおしてやり、それから目的のノリを得るため彼女の学習机の前に立った。
そこでぼくは気づく。
世界地図の広げられた学習机のうえ、ノートが一冊開かれた状態で放置されていることに。
宿題か? とぼくは思い、それを何だか後ろめたい気持ちで盗み見る。
紙面にはびっしりと文字が書き連ねてあって、表紙を見るとそこにはマーカーでちいさく日記帳と書かれている。日記! そういえば、一時期ぼくもせかせかと書きつけていたことがある。三日坊主気質なぼくは見事に三日で飽きてやめてしまったが、しかし続けていれば悪いことはなかったはずだ。自分の一日を振り返るというのは自分を省みることにもつながる。温故知新だ。故きを温めて新しきを知る。素晴らしいじゃないか、日記ってものは。
というわけでぼくは妹の日記をこっそり見ることにする。
ぼくの親指がページをめくった。
七月一日
七月が始まりました。
蒸し暑い八月が始まるときまであと一月を切り、校内は興奮と期待の入り混じったカオスの様相にすっかりと覆われていました。休み時間のたびにクラスメートたちが夏休みの遊びの計画を楽しげに立てていて、それを横目にしながらの読書は悪くはありません。ちなみに今読んでいる小説はアイザック・アシモフの『われはロボット』です。感想については、また後日に書き留めておくこととします。
さて、今日の授業は国語に算数、体育、それから理科・社会の五つでした。
国語の授業では予習を行っていた部分でピタリと斉藤先生に指名され、するりと滞りなく答えを言い当てることができました。といっても、小説が好きだからか国語はもともと得意な科目なので、予習の必要は本当はないのかもしれません。それは他の教科にも同じことが言えます。予習や復習を行わずとも、授業をしっかり聞いてさえいればどの教科でも問題はないに違いありません。
しかし、今後のことを考えると、予習・復習のクセをつけておくことは損にはなりません。今後のことというのは、中学高校、それから大学での勉学を指します。今は授業をしっかり聞いているだけで大抵の問題に対応できたとしても、今後もそれが続くとは限りません。というより、たぶん続きません。兄の英語や数学のノートを覗き見ると、何やら難しげな英単語や数式が並んでいて、やはり初等教育と中等教育では何もかもが 違うのだと、そういった感情を覚えます。
続いて算数、理科、社会も何かしらで詰ることなく、滞りなく授業が行えました。
ただ、問題は体育です。
自分で言うのもアレですが、わたしは俗に言う『優等生』というものに属するように思われます。けれど、頭の出来は運動神経には直結しません。バスケやサッカーなど、瞬間瞬間の判断力が求められる種目では、頭の出来が有意義に働くこともあるかもしれません。ですが、あいにく、いま体育の授業で行われている単元は長距離走。こんなことを言ったらプロのランナーの方々に怒られてしまいそうですが、長距離走に判断力はあまり必要ないかと思われます。
はじめの数秒はたいして辛くはありません。でも、一分がすぎ、二分が過ぎ、三分がすぎ、体内での時間間隔がしだいにぼんやりと酩酊し始めたころ、体はツラツラと疲労を訴え、足はギシギシとさびた鉄扉のようにきしみ初めます。しだいに脳へ送られる酸素が欠乏してきて、喉からはイヤな血の匂いが立ち上ってきます。
いったんその状態におちいれば、その先は赤黒い地獄に他なりません。
体は悲鳴をあげ、足は疲労の感覚を脳にうったえ、吐息はみっともなく乱れていき、自分の隣を平気そうな顔をしたクラスメートが駆け抜けていきます。私だけが一周、二週と差をつけられていき、みんなが次々と所定の距離を走り終えてゴールインしていくなか、わたしはみんなに見守られながらトロトロと校庭の外周を走っています。
そうなると、わたしは自分がみじめでたまらなくなります。いっそ死んでしまえばいいとすら考えてしまいます。……いえ、それは少し言いすぎかもしれません。ですが、わたしがいかに恥ずかしい思いをしていたか、それはこの表現によってよく伝わるかと思います。
それでは、また明日。
ぼくは日記の一ページ目を読み終え、いったんノートを閉じた。完璧に見えるユイに、まさかこんな欠点があったとは。日記から垣間みえた意外な人間らしさにぼくは苦笑をもらし、ベッドに横たわったユイを眺めやった。スウスウと静かに寝息を立て、規則正しく呼吸をしている。そうだ。ユイは、ぼくの妹は、じつに人間らしいじゃないか。ぼくは田中さんのユイへの信奉ぶりを思い出し、やはり彼女はユイに対してあまりに過大評価をしているのだと結論づけた。
ぼくは続きを読むため、ふたたびノートを開いた。しかし、一日一日を追っていくのは面倒なので、最新の――つまり今日の分のものを読むため、最新のページをぼくの両手は手繰った。
七月一〇日
昨日、田中さんが家に来ました。
田中さんとわたしは同じクラスで、近ごろ、よく登下校をいっしょにしています。
きっかけは、何だったでしょう? 思い返してみることにします。
学校から帰っていたある日(とても涼しく、過ごしやすい日でした)、田中さんは大声でわたしを呼び止めました。なんと言っていたでしょう? 「あの!」だったように思われますが、はっきりとは覚えていません。本当に突然で、わたしは「は?」と無遠慮な言葉を発してしまい、けれど田中さんはその表情に歓喜の色を浮かべました。
そして田中さんはこう言いました。わたしを弟子にしてください、と。
わたしは思いました。頭がおかしいのか、と。
聞くところによると、田中さんはここ数日ずっとわたしの後を付けていたそうです。まったく気づきませんでした。いつからだったのでしょう? 今度聞いてみることにします。
とにかく、そうして田中さんとわたしは知り合いになりました。
毎日、田中さんはわたしと登下校をともにして、それから家へとやってきます。
昨日もそうでした。
わたしと兄と田中さんはリビングでお茶を飲んでいて、田中さんはわたしに質問の雨あられを投げかけました。好きな色だとか、食べ物だとか、いろいろとです。
こんな質問に一体どういった意味があるのかと、わたしは疑問に思いながらも一つ一つ律儀に答えを返しました。兄が苦笑していたのが記憶に新しいです。兄は田中さんのことをどう思っているのでしょうか? 迷惑に思っていなければいいのですが。わたしがこの家で暮らし初めてからしばらく立ちましたが、わたしは未だにこの状況に慣れません。それは、おそらく兄も同じではないでしょうか? だけど、面と向かってそのことについて問えるほど、わたしたちは打ち解けていません。
閑話休題。
残念(かどうかはわかりませんが)なことに、このあとの記憶はありません。お茶を飲み、田中さんがわたしに質問を投げかけ、そして……そのあとに何があったのでしょうか? なぜだか、うまく思い出せません。
そこで、ぼくは日記を読む視線をピタリと静止させた。
ぼくの中で、田中さんのあの長口舌の妄言が想起される。
ユイさんはこの宇宙の中心なんです。
「まただ」とぼくはつぶやいた。
認識されていない。
同じだ。ユイは、ぼくの妹は、あまりにも都合よく何かを忘れる。
田中さんとユイとが接触したとき、その何かが能動的に働いたとき、世界はユイにとって都合のいいように改変される。
それは――それは、あまりにも異質だ。
例えるなら、まるでこの世界が彼女を中心として回っているような――
ぼくの中で二度、田中さんの言葉が想起される。
ユイさんはこの宇宙の中心なんです。
「ちょっと待てよ」とぼくは自分自身に言った。それは、田中さんのふざけた妄言なはずだろ? どうして、ぼくは彼女と同じ結論に行き着いたんだ? どうして二度、同じ結論がくり返されるんだ?
こめかみを、イヤな汗がつうと伝った。
そんなの……馬鹿げている。
ぼくはふたたび心中でひとりごちた。ユイは、ぼくの妹は、いったい何なのだろう?
ぼくはその違和感から目をそむけたい感情に襲われた。ユイは、普通だ。ユイは、れっきとした人間だ。そして――ユイは、ぼくの妹だ。
パタリ、ぼくは音をたて、ノートを閉じた。
そして、その油断が問題だった。
「お兄さん?」
というユイの声が後ろから投げかけられ、ぼくは肩を跳ね上げさせる。
「ごめん」と瞬間的にぼくは謝った。食い気味なくらい素早くだ。
「何をしていたのですか?」
「いや……ノリを借りようと思って。接着させる方のノリ」
「それで、どうしてそれを手にしているのですか?」
それ、と言ってユイが指さしたのは、いまだにぼくの手元にある日記帳だ。
「ごめん」とぼくはふたたび謝った。「見ようと思って見たわけじゃないんだ」ぼくは嘘をつく。「ただ、なんというか……」
「もういいです」ユイはピシャリとぼくに言った。「ノリなら机の中にあります。もう、出ていってください」
「ごめん」ぼくは三度目の『ごめん』を口にした。その他に言うことはないように思われた。「ごめん。ホントに、ごめん」
「……」
ユイは何も答えない。
「じゃあ、おやすみ」と言ってぼくは部屋のドアを開け、廊下にでる。別れ際にふたたびぼくは「ごめん」を口にし、そして自分の部屋にもどった。
その日は、一秒たりとも眠れなかった。眠ってはいけなかった。
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