第5話
ユイについての第三の発見は以上で終わりだが、それから間もなくして世界中を巻き込んだ第三次大戦が起こり、日本は国際的な窮地に立たされる。というのも日本は過去の経験から核を所有しておらず、人類の滅亡を今まで何度も寸前で止めてきた抑止力を持たないからだった。日本へ向けて敵国がミサイルを発射したとして、それを迎撃する備えはあってもそこから反撃に転ずることができないのである。
国民保護サイレンが町で鳴りひびき、どこかの国から日本に向けてミサイルが発射される。「ユイ」とぼくはぼくの妹の手をにぎり、最期の時を待つ。
「お兄さん」ぎゅっと、弱弱しい力でユイはぼくの手を握り返した。
というのはもちろん嘘で、その日も世界は少々ボケが入っているくらいに平和であり、リビングでぼくたちはお茶を飲んでいた。ぼくと、ユイと、それから先日ようやくユイにその存在を認知された田中さんの三人だ。
「ユイさんユイさん」と田中さんは壊れかけのラジオみたいに同じ言葉をくりかえした。ユイさんユイさん。「好きな色は?」好きな色は?
「黒」とユイは答える。
「黒!」ユイの返答に田中さんはわななく。「どうしてですか?」
「どうしてって言われても……」
と言って、ユイはぼくの方を見る。助けを求めるサインだ。
ぼくはお茶をすすり、すすり、すすった。それは実においしいお茶だった。ぼくは席を立ってお茶をおかわりし、また息を吹きかけて冷ましながらすすった。それは実においしいお茶だった。
「……」
ユイの目線が痛いほどに突き刺さる。けれど、無力なぼくにできることなどありやしない。
この数日、ユイからのレスポンスをもらえるようになった田中さんは連日ここに来てユイに質問&質問+質問をくりかえし、ユイはほとほと疲れ果て、すっかり疲労困憊という様相だった。頭痛が痛くなる問題だ。
「あの」とユイが切り出す。「何がしたいんですか、あなたは」
「私ですか? 私はですね、ユイさんと一つになりたいんです」
「はあ?」というのはユイとぼく二人の声で、その音程はぴったり一致していた。兄妹によるハーモニー。
「一つになりたいんです。私は。ユイさんと」
と田中さんはくりかえし、ぼくはその言葉の意味を考える。一つに? それは……どういう意味でなのか? 肉体的に? 精神的に?
「一つになりたい、というのはですね」田中さんが言った。「概念的な意味でなんですよ」
なるほど。ここに至って、事はしだいに観念的な段階へと歩みを進めたようだった。観念的すぎてさっぱり意味がわからなかった。今更ながら、ぼくは田中さんは気がくるっているのかと思った。
「ですからね? いまここにユイさんという概念が、形而上学的に、しかしたしかに実存しているわけで、それというのは例えようもなく崇高なことなんです。平和な日常のありがたさのように」
ぼくは何も言わない。
「だからですね? いいですか? 聞いてくださいよ? ユイさんはですね、ユイさんという一個体でありながら宇宙における統合存在でもあり、つまりユイさんこそが世界の中心で、かつ世界の終わりなんです。万物は流転します。そうです、万物はユイさんに始まりユイさんに終わるんです。収束するんです。そしてくりかえし、クラッシュ・アンド・ビルドの混沌を世界は漂っているんです。そして、その混沌の渦の中心が、つまりユイさんなんです。わたしたち人間がどこから来たのか? なぜこの場に実存しているのか? 宇宙はとてつもないスピードでいまも膨張を続けています。しかし、それはあくまで『場」が膨張しているだけのまやかしにすぎません。わたしたちは外宇宙にばかり気を取られ過ぎて、内宇宙へ目をむけることを忘れてしまっています。ここまで聞いていたならわかりますね? 宇宙を形作り、膨張させる量子のゆらぎ、それはここ、ユイさんの中で行われているんです。ダークエネルギーの正体を探っていったとき、それがユイさんである、と考えるのはひとつの答えでもあるんです。そしてユイさんがダークマターの正体のひとつであると仮定すると、ビッグバン、それに連なるインフレーションの正体すらも、見えてくるというものです。そして、過去にビッグバン・インフレーションによって誕生し、いまなお加速膨張を続ける宇宙のこの先の行く末は、ユイさんにかかっているんです。くりかえしますよ? ユイさんはこの宇宙の中心なんです。ユイさんはこの世界そのものなんです。そしてユイさんの終わりはこの世界の終わりを示すんです。だから、わたしたちが住まうこの宇宙がこれからどうなるのか、ダークエネルギー、つまり宇宙を遍くたゆたうユイさんを構成する諸要素が宇宙の膨張とともに減少するのか、一定のままなのか、あるいは増加するのか、あるいはシャボン玉のようにはじけて消えてしまうのか、それは誰にもわかりません。おそらくユイさん本人ですらもわからないことでしょう。未来は不変ですが、絶対的であるがゆえに予測不可能なのです。わたしたちが何をしようとも、宇宙はひとつの答えに収束します。つまりユイさんの元へと世界の『結果』は現れます。それがいつのことになるのか? おなじく、これもわたしたちにはわかりません。ユイさんにも。世界はユイさんの体躯のように華奢です。それが消えてしまうのはまばたきからコンマ一秒後かもしれませんし、何千年、何万年もあとかもしれません。けれど、宇宙の長い歴史から考えれば何千、何万という数字は千々に散りばめられたパズルの、その一片程度でしかないのでしょう。ですから、世界の終わりはもう、すぐそこに迫っているのです。だから――」
そろそろ限界だ。
「お茶、なくなっちゃったね。ちょっと待ってて。いま新しいの持ってくるから」とぼくは言って、この不毛な長広舌を中断させる。
長かった。実に長かった。
気が付けば時計は五時半を指していて、外はすっかり夕焼け色に染まっている。
しかし、妄想豊かなことだ。将来はシナリオライターにでもなるといい。
将来は――
そのとき、ズウンとした重みがぼくを襲った。立ちくらみのようだが、そうではない。つまり、前後左右に脳がめまいを覚えたわけではない。下、真下に向けて体が引っ張られるような感覚だ。ズウンと、という擬音は的を得ていると自分でも思う。
ぼくは冷蔵庫の扉に手をつき、地面にうずくまった。
「お兄さん!」とユイがさけび、ぼくは自分の軸を回復させる。ユイを心配させてはいけない。心配は――彼女とはまったく無縁の存在でなければならない。だって、ぼくは彼女の兄なのだから。だって――
そして、より一層の重みがぼくを襲い、ぼくは床に倒れこむ。ユイと田中さんがこちらに駆け寄ってきて、ぼくは二人に抱き起される。しゃんとしろ。いいか、しっかりするんだ。「も……もう大丈夫。大丈夫だから、放して」二人はぼくのうでを放した。
ぼくはゆっくり深呼吸をして、うるさく急かす脈拍や息の乱れを治すように試みた。
体が落ち着くにつれて、ぼくを異常な眠気の悪魔がおそう。
ぼくは言った。「ごめん。なんだかもう、眠たいんだ。上に行かせてもらうよ。田中さんも、遅すぎないくらいに帰ってくれればいいから。冷蔵庫の中のものも、好きに飲み食いしてくれていいよ」
「あ、はい、お気遣いいただきありがとうございます」と田中さんは言う。「でも、大丈夫です。もう帰りますので」
「ゆっくりしていったらいいのに」
「そんな、ご迷惑をおかけするわけにはいきません」恐縮のお辞儀をくりかえしながら田中さんは言った。「お兄さん」と田中さんはぼくに声をかける。
「何?」
「わたしのこと、よく覚えていてくださいね。いいですか? お兄さん。ユイさんは世界の中心なんです。それでは」
「ああ、うん……」
ぼくは何だか面倒くさくなって、彼女の妄言に適当な相づちを打つと、そのまま階段を上ろうとする。後ろを振り向き、ぼくは言った。「ユイ。玄関まで送っていってあげて」
「はい」とユイは答える。
自室にもどり、ぼくはベッドに横になる。
強制的にシャットダウンをうながされるような強烈な眠気は、ものの数十秒でぼくを眠りに落とした。
その日に、ぼくは夢を見た。どんな夢だったかは覚えていない。
けれど、それは悲しい夢だった。それだけは覚えている。
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