第4話

 その日、ガチャリ、とドアはいつも通りの開閉音を立て、ぼくはユイを出迎えようと玄関へ向かった。

 するとそこには平然としたユイの姿があったが、それだけではなかった。ユイの後ろ、左斜め四五度くらいの位置に、見慣れない生物がいた。女子小学生だった。この時ユイは小学五年生だったから、たぶん彼女も同級生だったに違いない。

「お、お邪魔します」という友達の声は緊張によって震えていた。カラオケマシンならビブラートの採点を間違ってするくらいに。「は、初めまして。田中です」

「田中?」とぼくは聞きかえした。苗字のその先を促したのだ。

「あ……未羽、未羽です。未来の『来』に、羽田の『羽』。田中未羽です。お邪魔します」

「ああ、はい……どうぞ、上がってください」ぼくはいまだに『お邪魔します』に対する最適な返事を知らないし、知らなかった。「飲み物、お茶でいい?」

「あ、いえ、ぜんぜん、お水とかで。はい。大丈夫です。はい」

「じゃあ、はい、どうぞ」

 コツン、と音を立てグラスを彼女の前に置き、そしてぼくは所在なさげになった。妹が友達を家に連れてきたとき、それに対する兄としての適切な対応は何なのだろう?

「……」

 友達は水を一口飲むと、それっきり黙ってしまう。

 そして当の妹たるユイは、家に帰ってきてからというものの、一言も言葉を発していなかった。彼女が無口なのはいつも通りのことだが、このときばかりは何でもいいから話してくれと、そう願わざるをえなかった。

「ええと……田中さんは、ユイの友達?」と恐る恐るぼくは訊いた。

「友達……ううん……」彼女はうでを抱えて悩みこんだ。「友達というよりかは……」

「よりかは?」

「弟子」

「弟子……」とぼくは反復した。弟子。

 そのまま、淡々と幾秒かの時が流れた。

 沈黙に耐えられず、ぼくは口を開いた。「って、どういうこと?」

「弟子なんです。私は。佐々木さんの」

「え? ……ああ」ぼくは一瞬自分の名前を呼ばれたのかと思い、それが間違いであることを悟る。ぼくたち一家の性は『佐々木』だ。しかし、ぼくの中でユイはユイだった。両親もユイをユイと呼んだし、ぼくの生活の中で『佐々木』という言葉が使われることはほとんどなかった。あるのは、学校でクラスメートや教師に名前を呼ばれたときだけだった。だから佐々木という性は自分のものだと、そういう思考回路があったのである。

「ええと……弟子って、つまり、何かを教えてもらうの? ユイから?」

 ぼくはこの質問をユイに投げかけたつもりだったが、田中さんは食い気味にこう答えた。「そうなんです! ユイさんは、お兄さんならよく知っているかと思いますが、スゴいんです。お兄さん。ユイさんはスゴいんです!」

「まあ、それはたしかに」

 で、結局何を教えてもらうのやら。彼女の回答は、実に惜しいところで、今ひとつ要領を得なかった。

 その時、ユイがとつぜん立ち上がり、彼女はそのまま二階へ通じる階段に歩みを進めた。「自分の部屋に、戻ります」

「え?」

「……どうしたんですか?」

「いや、うん、わかった」

 ぼくは歯切れの悪い返事を返して、それから隣に座る田中さんを見た。4カラットのダイヤのように輝いた両目が、ユイの後ろ姿へ向けられている。放っておくと、後塵を拝して床とのキスを楽しみ始めそうな様子だったので、慌ててぼくは彼女に声をかけた。「あの……ユイ、行っちゃったけど、君は着いてかないでいいの?」

「着いていくだなんて、そんな!」彼女は両手をついて立ち上がった。「私ごときが、おこがましいにもほどがあるじゃないですか!」

「おこがましい」

「はい。おこがましいです」

「……じゃあ、君、なんでウチに来たの?」

「なんでって……それは」

「それは?」

「私は、ユイさんが歩いて、食事をして、支度をして、勉学に励み、本を読み、その他あらゆる生活に関することを行うこの家に来られただけで、それで充分に満足なんです。それより多くを求めるなんて、罰当たりにもほどがあります」

「……」ぼくには黙る以外にこの長広舌の返答が思いつかなかった。家に来ている時点で、結局のところ同じではないだろうか。とぼくは思うのだが、彼女の中ではそこには明快な区切りがあるようだった。これ以上そこを突き詰める必要はないだろう。なので、ぼくは話題を変えようとする。「いったいユイのどこがそんなにスゴいっていうのさ?」

「どこがそんなにスゴい?」田中さんは豆鉄砲を食らった鳩のようにポカンと脱力した表情をその顔に浮かべた。

「そんな……お兄さんなのに、そんなことも知らないのですか? もしくは、日頃からユイさんの威光を浴びているせいで、そのありがたさを感じなくなるまで慣れてしまっているのですか?」

「いや、ごめん。単に知らない方なんだけど。そりゃ、ユイの記憶力の良さとかは知っているけど、それ以上は……」

「なんたること!」芝居がかった調子で田中さんはさけび、立ち上がった。「信じられません!」

「いや、その……ごめんなさい」とりあえずぼくは謝る。

「では、不肖ながら」と彼女は言った。「私がそのスゴさを、余すことなく説明いたしましょう!」

 その内容について、ここに改めて書き記すことはしたくない。

 ぼくは充分に理解したのである。実に、骨の髄までユイの偉大さを知ったのである。

 だから、もう書かない。


 そして、ぼくは女子小学生をストーキングした。いや待て。誤解しないでほしい。ぼくが知りたかったのはユイと田中さんの関係であり、女子小学生の生態ではないし、それは健全なストーキングだったのである。

 電信柱から電信柱を渡り、ぼくが知った事実の一つは、ユイと田中さんは友人関係にはない、ということだ。というより、田中さんこそがユイをストーキングしている第一人者だった。好きなお菓子は? 寝る時間は? 好きな色は? もし動物を飼うことになったら? 将来の展望は? パジャマの色は? 休日は何をする? 得意な科目は? 宇宙とは? 世界とは? 私とは? などなど、田中さんはユイからの返事が一つもないのにも関わらず、ニコニコと、実にニコニコと彼女の後ろを着いていった。そしてその後ろを追尾するぼく。つまり、このときのユイはダブル・ストーキングを受けているという具合だった。かわいそうなユイ。

 田中さんの変質的とまで言えるその質問攻めは我が家までいよいよあと数分といったところでパタリと止み、田中さんはしばしそこに立ち止まる。もちろん、ユイは知らん顔で歩みを続ける。そしてあくびを一つ。本当に知らなかったのかもしれない。そう思わせるくらいにその仕草は自然だった。

 田中さんは数メートル先まで進んでしまったユイに向かってさけぶ。「あの!」ユイは振り向かない。田中さんはもう一度さけんだ。「あの、ユイさん!」

 すると、あっけなくユイは振り返る。つまるところ、彼女はあまりにも興味がなかったのだ。田中さんに対して。だから自分の名前を呼ばれて初めてその存在に気が付いたと、そういうわけなのだろう。

「何ですか?」とユイが問い、

 田中さんは答える。「私を……で、でで、弟子にしてください!」

「は?」とユイは答える。「誰ですか、あなた」

「は?」とぼくは小さくひとりごちる。どういうことだ?

 弟子にしてください?

 田中さんはユイの弟子に……なっていたんじゃないのか? だって、本人が言っていたじゃないか。……というよりかは……弟子……

 ああ、とぼくは気づく。

 つまり、すべては田中さんの思い込みだったのだ。彼女はユイの弟子などではなく、友達ですらなく、そもそもユイに認識すらされていない。……認識されていない? だとすると、あの日、なぜ彼女は我が家を訪れたんだ? ユイに許可を得て、それで足を踏み入れたんじゃないのか?

 まさか、とぼくは思う。ユイは気づいていなかったのか? 昨日、自分の背後を田中さんが追いかけていたことも、ユイと一緒にぼくの家へ足を踏み入れたことも、彼女がリビングで水を飲んでいたことも。

 それは――

 漫画やアニメならさておき、この世界では、異常だ。

 ぼくはこのとき、不遇な田中さんに対する哀れみとともに、一つの感情を覚える。

 未知への恐怖。人類に備えられた根源的な感情。

 ユイは、ぼくの妹は、いったい何なのだろう?

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