第3話
それから引っ越しのあれこれが済んで、ユイは正式に我が家に住むことになった。
ユイの部屋はぼくの隣、二階の廊下の突き当たりにある部屋、物置を改築して作られた。
「優しく、親切にするのよ」と母は言う。無論、ユイについての話だ。母は遊び人でその挙句離婚にまで至るような人物だったが、人一倍家族の情というものには厚い人間だった。「お兄ちゃんなんだから」
「うん」ぼくは素直に答える。
しかしだ。
兄。
兄とはなんだろう。
ぼくは半日もかけてその日本語の意味を考え、はてはブラザーの語源を考え始めたところで、それがいかに無益な行動かを思い知る。
無理に言葉を理解する必要はないのだ。自分なりに咀嚼すればいい。何度も反芻して、その結果自分が思い至る形に収束すれば、それで万事はよくなる。
そして、ひとまずの形としてぼくが考えだしたのは図書館に通うことだった。最も簡単に導かれる答えとして。
ぼくはたびたび、みんなが寝静まった夜更けに彼女の部屋を訪れた。もちろんノックは欠かさなかったし、ユイからの了解も得ていたことはここに記すまでもない。
「起きてる?」とぼくはドア越しにユイへ声をかけた。「入ってもいい?」
「はい」とユイが答え、ぼくはドアを開ける。
中でユイは水玉模様のベッドレスに腰掛け、文庫サイズの本を手に広げている。豪華な天蓋もヨーロッパ製の椅子もそこにはなかった。吹き抜けの構造でもなく、もちろん天窓もなかった。あるのは簡素な勉強机と小型のテレビ、ベッド、ブラインドのついた小窓、そして大きめの本棚だけだった。けれど。けれど、本を片手にするユイはその風景へ一枚の絵画のようになじんでいた。それはぴたりと和音のように調和のとれた風景だった。ユイと文庫本と本棚とそれからベッド。
……そう、本。
本の話をしよう。
思い返せば、ぼくがユイの部屋を訪ねたとき、彼女はいつも本を読んでいた。アメリカあたりの少し小難しい翻訳小説が主だ。アーネスト・ヘミングウェイやスコットフィッツジェラルド、時たまのエドガー・アラン・ポー……。特別な偏見があったわけではないが、日本文学はときどき口にする単なる口直しに過ぎないようだった。
「何を読んでるの?」とぼくはユイに訊く。
「ヘミングウェイの小説です」とユイは言ってその本の表紙をぼくに見せる。
目に映ったのは短い英文だった。ジ・オルドマン・アンド・シー。ぼくはピンとくる。「あ、知ってる。老人と海、でしょ」
「……珍しいですね。……その、お兄さんが、そういうことを知ってるなんて」
ぼくは内心でこぶしを天高く掲げた。苦心の末考え出した図書館通いという安易な方法は、実にうまいこと良い結果をもたらしてくれた。まるで世界がぼくの考えた通りに動いたかのように感じられ、心地よい万能感がぼくを包んだ。今ならなんでもできる、うまくいく、と、そう思わせる無類の万能感だ。
ぼくは得意げに言う。「知ってるよ。老人がいて、でも彼はもう漁で大きな成果を上げられなくて……でも、ある日、めちゃくちゃ大きな魚を釣り上げるんだ。でも……」
「わかりました」とユイは言った。「それ以上言わないでください。私、まだこの本を読み終えていないので」
「あ……ごめん」ぼくは謝った。ぼくは彼女の世界に少しでも近づけたような気がして、少し浮かれていたのだ。「もう黙るよ。ごめんね」
「あ、いえ……」ユイはぼくに申し訳なさそうな視線を送った。「別に、迷惑したわけじゃありません……むしろ……」
「むしろ?」ぼくは訊ねた。
「……何でもありません」とユイはそっぽを向いてつっけんどんな態度をとった。
「はは」とぼくは笑った。そんな態度すらかわいく思えたからだ。
「何ですか。……気持ち悪いです」
「ひど」
「そのくらいお兄さんが気持ち悪いってことです」
「……」
ぼくはショックを受けた。妹から気持ち悪いと言われるのは、こんなにも悲しいことだったのか。ぼくは新しい発見に胸を躍らせることなく普通に落ち込んだ。
「……あの」ユイは恐る恐ると切り出した。「いつ読んだんですか? ……だって、わたしもまだ読んだことなかったのに」
「ユイが好きだって言うから」ぼくは答えた。「本を読むの……だから、有名な本は、だいたい読んでみた。正直退屈な時もあったけど……でも、ユイが好きだって言うから、だから読んだ」
「……何で、ですか?」
ユイはぼくに訊ねた。ビクビクと怖がりながら、でも、一抹の期待を持って。
「ユイが好きなものを、ぼくも好きになりたいって思った」ぼくは正直に返した。「悪いんだけど、でも、ただそれだけだよ。ぶっちゃけ、つまんなかったな、本って」
「……何それ」と返すユイのまぶたは涙に濡れていた。「バカみたいですね」
「……ごめん」ぼくは謝った。「でも、ぼく、バカだから。だから、それくらいしかユイと仲良くなる方法、ないなって思って」
「……別に、そんな無理しなくたっていいです」ユイは言った。「私、お兄さんのこと、嫌いではありませんから」
「本当に?」
「……はい」ユイは答えた。「恥ずかしいから、何度も言わせないでください」
「……はは」ぼくはこぼれる笑いを抑えることができなかった。ぼくは、自分は、充分に兄を勤められているのだった。ユイの兄を。その事実はぼくに計測しがたい自信をもたらしたし、ただ単純に嬉しくもあった。
「ねえ」とぼくは問いかけた。「ユイの好きな小説、もっといろいろと教えてよ。とびっきり好きな……それこそ人生の指針にしてるような小説、かけがえのない小説たちを」
「……そんなの、知ってどうするんですか」と問いかけるユイの声にはまだ警戒の色がハケでべったりと塗られていた。
だからぼくは、彼女を安心させるべくこう言った。
「ユイが好きなもの、ぼくも好きでいたいんだ。どうしようもないくらいに。かけがえのないくらいに」
いま思えば、実にこっぱずかしいセリフだ。でも、ぎこちなかったぼくたちの距離感はこの日を境に縮まったような気がする。もちろん断定はできない。しかし、おそらくそれが最たる理由だということに間違いはないとぼくは思う。
「じゃあ、これ、貸します」と言ってユイはぼくにその本を差し出す。
ぼくは困惑して問いかける。「いや、ぼくは前に読んだし。それにまだ続きでしょ?」
「……いえ、私にはまだ難しすぎたので」
「難しすぎた?」
「はい。簡単な文章だというので挑戦したのですが……」
ぼくは改めて表紙をまじまじと見つめた。小さく印字された「ジ・オルドマン・アンド・シー」という原著のタイトル。そして「老人と海」という翻訳版のタイトル……。
「あれ?」
ぼくは気づく。表紙には英文のタイトルと筆者名が書かれているのみで、日本語が見当たらない。まさか、と違和感が全身を包んだ。まさか、そんなことはあるまい。その違和感の正体を確かめるべく差し出された文庫本をぼくは手に取り、そして適当なページを繰る。ガサガサとした低品質なパルプ紙が耳障りのよい音を立てる。
そのパルプ紙は、一面が英文で埋められていた。
アイ・ワズ・ボーン。
この時のぼくの英語力は……いささか言及しがたい。というより、したくない。
だからぼくにはその書面に書いている事柄は一つたりとて理解できなかったし、理解できるようになる気もしなかった。中学生活も半ばにして、すでに英語という難物と仲良くなることをぼくは諦めていたのだ。
「でも、驚きました」とユイが言う。「英語、得意なんですね。意外です」
「……いや、まあ、うん」
その後、ぼくの英語力が急速に、それこそ竹のような速度で向上したことはここで書き記すまでもない。
そして、たぶんこの日、ぼくはようやくユイの兄になった。本質的に。
それから日を追うごとに、ぼくはユイについて詳しくなっていった。ユイ本人以上にユイについて知っていった。
まず第一に、前述のとおり彼女は本が好きだった。何よりも、誰よりも、すべてに優先して彼女は本が好きだった。彼女の本への執心ぶりはいっそ気持ち悪いくらい(本人には聞かせられない)であって、前の家から持ってきた文庫本の数はおよそ五〇〇冊に及んだ。
五〇〇冊。
口にするだけなら簡単だ。むしろ、貫禄をまとった読書家からすれば「たった五〇〇冊」と吐いて切り捨てられる冊数なのかもしれない。ただ、思い出してほしいのは、このときユイはまだ十一才であったということだ。彼女はお小遣いを貰い始めてからというものの、そのほとんどすべてを近所の古本屋で消費した。まるで古本屋を貯金箱に見立てているかのようだった。彼女はゲームや駄菓子にお金をいっさい使わなかった。本だけが彼女のすべてだった。
本棚は日を追うごとに余裕をすり減らしていき、いよいよ本を収納するスペースがなくなってしまうと、ユイはダンボールに本を詰め込み始めた。それじゃあ読みたいときに目的の本を探すのも一苦労じゃない? とぼくはユイに訊いたが、その答えは拍子抜けするくらいあっさりしていた。
「ぜんぶ覚えてるので、大丈夫です」
というものだ。
つまり、ユイはぼくなんかが気をつかうのが申し訳ないくらいに秀才だった。いま思えば、彼女にはサヴァン症候群らしき傾向があった。サヴァン症候群とは、知的障害・発達障害を持つ人間のうち、ある特定の分野に優れたヒトを指す病名なのだけれど、『らしき』と表したのは、彼女はけっして発達の段階での障害を抱えてはいなかったと思われるからだ。
では、ユイはただの天才だったのか?
答えはノーだ。
彼女には、明らかに何かが欠けていた。それが何なのか、いまでもぼくはわからない。わかることといえば、彼女が唯一無二であることだった。彼女は一〇年にひとりの天才ではなかった。ユイはユイだった。宇宙が始まってから終わるまで、ユイという概念はいつまでも姿を変えずに世界をたゆたっていた。
だから、ユイはユイだし、彼女はぼくの妹だった。それ以上でもそれ以下でもない。
第二の発見は、彼女の音楽鑑賞という趣味についてだった。
夜、みんなが寝静まるころ、ぼくの部屋には厳かなピアノ曲がいつも染みこんでいた。それはユイの部屋から漏れでた音のようだった。クラシック音楽だ。たいして大きな音量ではない。意識しなければ聴き取ることもできないほどの音量だ。音が漏れないよう、ボリュームを極端に下げていたのだろう。事実、そのピアノの旋律が一階の両親の元まで届いたことはなかったし、ぼくの部屋の右隣にある物置にも、その音は届いていなかった。届いていたのは、真隣にあるぼくの部屋のみだった。
ピアノが奏でるメロディー、コードはいつも同じだった。つまり、彼女は同じ曲しか聴いていなかった。
彼女は自分がその曲を好んで聴いていることを周囲に知られたくないようだった。ぼくが彼女の部屋を訪問しようとドアをノックすると、彼女は必ずスピーカーの音量をゼロにしてからトビラを開け、それから「お兄さん。どうしたんですか、こんな夜中に」とぼくに言う。それがお決まりのルーティンだった。
ぼくはたびたび「ねえ、いつも聴いてる曲、アレって何なの?」とユイに訊ねたくなることがあった。でも、結局ぼくがそれを行動に移すことはなかった。なぜだろう? ぼくはいまでも答えを持たない。そもそも答えなんてなかったのかもしれない。ただ、そのときは理性がいつも濁流をせき止めていた。ただそれだけだ。
第三の発見は、彼女がどうしようもないほどユイ自身であったことだ。
つまり、ユイは他者に協調して自らを柔軟に変化させるということをしなかった。他者と交わるとき自らに調律をほどこさなかった。彼女の音色はいつだって半音ズレていた。人間関係のあらゆる面において、彼女はうまくやれなかった。
現代社会において、それは取りつくろいのできない致命的な欠点であった。
しかし、だからといって彼女はすべての人間から避けられてはいなかった。致命的なまでの短所は、ある意味では長所でもあった。彼女にはマイノリティを引きつける一種のカリスマ性があった。彼女は生涯においてイジメにあったことはなかったし、むしろ遠巻きに彼女へ羨望の目を向ける人間さえいた。
それをよく表すエピソードとして、とある日、ユイが友達(と呼べるのかは分からない)を連れて家へ帰ってきた時のことを話そうと思う。
田中さん。ユイの最初で最後の友達。
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