第2話

 ぼくとユイは義妹・義兄の関係だった。

この文書を書き進めるにおいて、まずはその関係に至った経緯について話そうと思う。

 ぼくが一四才、つまり中学二年生のとき、ぼくの両親は離婚した。

 夕食を食べ終えた物寂しいダイニングテーブル。風にゆれるカーテン、ひゅうひゅうと侵入してくる一二月の空気。そこで離婚について話を切り出したのは母親の方だった。

 一般的に言って、こういったやり取りは子供の目の届かないところでひっそりと行われ、そして唐突に告げられるものだ。だが、ぼくの家庭においてその『普通』は施行されなかった。「本気か?」と父がたずね、「ええ」と母が答える。そのメロドラマのような風景をぼくはどこか達観した一つ上の次元から眺めている。ぼくはとにかく黙っている。ぼくは何も感じないでいる。何もかもを相対化している。ぼくは両手をテーブルの下ですり合わせ、今年の冬はやけに寒いな、と考えている。それだけだ。ただそれだけだった。

 そして、話し合いの結果、ぼくは母親の元に残ることとなる。「どちらに残りたい?」という両親の質問に、ぼくは脳内で花占いをして答えた。真っ赤なカーネーションの花がはらはらと地面に落ちる。父、母、父、母、父、母……。結果は前述の通りだ。

 それからほどなくして、母は連れ子持ちの男と再婚をする。そしてその連れ子というのが、つまりユイだったというわけだ。ぼくとしては父親に付こうが母親に付こうが本当にどちらでもよかったのだが、その花占いは結果としてぼくとユイを引きあわせる決定的なモノになった。そう考えれば、ぼくはあの一瞬の自分の判断に感謝するべきなのかもしれない。その幸運にだ。いや、もしかすると、それは不幸なのかもしれないし、別の何かなのかもしれない。しかし今となってはどうでもいいことだ。どちらにせよ、もう後戻りはできないのだから。

 新しい父親からあいさつを受け、どうも、よろしくおねがいします、とぼくは返事をする。順応しろ、とぼくは自分に言い聞かせる。順応しろ。慣れてしまえ。心を圧縮しろ。

 また、これは蛇足だが、いま思えば母と新しい父との出会いは偶然などではなかった。おそらくふたりは不倫関係にあったのだろう。夫婦間の不和や考えの違い、将来への展望の無さをこじんまりとしたダイニングテーブルで語っていた母のすべては、不倫の慰謝料逃れのお芝居だったに違いない。しかし、事実はいまとなっては確かめようのないことだし、ぼくにはどうでもいいことだった。

 事実、その時のぼくは人生の渋みや苦みなど何も分かっていないガキンチョであって、離婚という事物がどういった意味や将来を内包しているのかなんてまったく考えすらしていなかった。ユイの方にしたって、それは同じだろう。ぼくたちはどうしようもないほどに子どもだった。年齢から言っても、実際から言っても。しかしそれは仕方がないことだ。十四才や十一才の子どもが、だ。大人びた考えで冷静に浮気や離婚、その他諸々のうす汚いあれこれを正確に把握していたら、まったく気色が悪いったらありゃしない。

そのとき、ぼくたちは火事現場に殺到する野次馬だった。

小市民だった。

何度も踏みつぶされ、小さくなって生きるコンクリートに育った雑草でしかなかった。

ぼくたちはあくまでわき役に過ぎなかった。傍観者に過ぎなかった。村人Aに過ぎなかった。

眼前には『離婚』、そして『不幸』の四文字があり、ぼくたちはそれをただ眺めていた。だから、これは正しい現実認識なのであった。

 そんな異質な経験を通過したぼくとユイのファーストインプレッションは、ぼくたちの両親とは正反対のごく普通の義妹・義兄間のモノだった。有り体に言えば、つまり、ぎこちなかったのだ。

 ドアが開き、互いの親、つまりぼくたちの両親がさあさあ二人とも仲良くするのよとぼくたちを引き合わせ、ぼくは初めてぼくの妹になる人間の顔を視界にいれる。

 かわいい子だな、とぼくはまず思った。それはバイアスのかかっていない素直な感想で、何の気なしに脳内へポンと生まれ落ちた白いたまごだった。

「こんにちは」とぼくは小さく縮こまるユイに言った。縮こまらずとも彼女の体躯は小柄だったが、新たな出会いに萎縮したそのときのユイは実際以上に小さく見え、ぼくは自分の中で兄としての自覚みたいなモノがみるみる内に体積を膨張させていくのを感じた。

「こんにちは」と声を震わせながら、それでもユイは確かにそうぼくに返した。

 ぼくは嬉しかった。妹ができたことが。新しいことが始まるという事実が。

「ええと……」ぼくは脳内で辞書を必死に引いて、「趣味は?」と訊ねる。まったくスマートな質問ではなかった。お見合いかよ、といまのぼくが横にいたならツッコミを入れていただろう。

 でも、ユイは不格好で部相応なそんなぼくの質問にも律儀に真面目に答えを返した。

「読書です」

「読書?」とぼくはけげんな表情を浮かべる。その時のぼくと言えば、小説はおろか活字の印刷された出版物をいっさい読まないわんぱく少年だったのだ。いや、読書が高尚な趣味だなんて、高校も卒業したいまのぼくは絶対に言わない。でも、このときのぼくは読書が高尚かそうでないかなんてお構いなしに、そもそも活字が読めなかった。つまりバカだった。どうしようもないくらい。取り返しがつかないくらい。

 そんなぼくとは裏腹に、十一才のユイは素晴らしく頭が良かった。知識量とかそういった副次的なあれこれを別にするなら――つまり頭の回転というか、IQ的な諸問題において彼女は秀才だったのである。

「読書……」ぽつりとぼくは言葉をしぼり出す。考えろ。働けマイブレイン。ぼくは競走馬に対するように、自分の前頭葉にムチを打った。考えろ。「うん……読書か、ええと……」

「はい……」

「ああ……」

「……」

「うん……」

 顔を突き合わせ、ぼくたちは互いに言葉を探しあった。二人してしどろもどろになりながら、会話とは呼べない何事かを続ける。増大するエントロピー。極まっていくカオス。

 そしてとうとつにユイは言った。「あの……スコット・フィッツジェラルドは読みますか?」

「誰?」とぼくは答える。

「ゲーテは?」

「名前なら聞いたことあるけど……」

「ジョージ・オーウェルは……」

「……」

「じゃあ、ドストエフスキーは……」

「ええと……」

 と、そのような問答がいくつか続き、無論ぼくはその問いに一つとして答えることができなかった。今ならおそらく大方答えられるのだろう。けれど、この時のぼくは何よりも外で遊ぶことが大好きな中学二年生のガキンチョであった。とびきりのバカであった。

 いささか気落ちした様子で「……誰も知らないんですか」と彼女はぽつぽつと言う。

「うん……ごめん」

「……他の話題にしましょうか」

 というユイの言葉に、ガツーンと、ぼくはパンチの効いた衝撃を受ける。なんてことだ。妹にあきれられてしまった。三才も下の妹に……。当時のぼくに、その事実は致命的なほどの恥ずかしさを与えた。それは実にクリティカルな一撃だった。調子に乗った大学生がテキーラをショットで一気飲みしたかのような一撃だった。熱が全身に回る。恥ずかしくて、情けない。いますぐこの場から逃げ出してしまいたい。

「ええと……」ぼくはふたたびちっぽけな前頭葉から言葉を探す。その間ユイはただ黙りこくっていた。なにを、なにを話せばいい? さっき彼女の趣味について訊いたのだし、次はぼくの趣味か? 待てよ、いったいどんな趣味がぼくにあるんだ? というか趣味ってなんだ? まず趣味ってどういう意味なんだ? 思考が脳内をトビウオのように跳ね回り、前頭葉がジャブジャブとかき混ぜられる。しだいにわけが分からなくなってきて、ぼくは闇鍋の中から異物を探り当てる。しかし混乱に混乱を重ねたぼくにはそれが異物であるとの判断はできず、そのまま愚直に声にだしてしまう。

「せ……セックス・ピストルズ」とぼくは言う。「セックス・ピストルズは商業パンクだって現代では言われがちだけど、やっぱりパンクのレジェンドであることに変わりはないよね。ウェストミンスター宮殿近くで挑発的なゲリラライブを行ったっていう話は有名だし、やっぱりぼくは彼らこそが純粋に真なパンクロックバンドだと思うんだ。現代にそんなことができる気概を持ったバンドがどれだけいる? ねえ、それについて、ど……」ぼくはここまで一息に言い切って、そしてようやく自分の過ちに気がつく。「どう……思う……?」

「あの……せ……なんです?」

 ぼくは言葉をひねり出す。「……セックス、ピストルズ」

「……」

「いや、つまりセクステットみたいな意味であって……」

 そう。多重奏なのである。男女混声のハーモニーなのである。ワワワワー。というのは真っ赤な嘘で、それは純粋に下品な言葉だった。

 間違えた。決定的に話題選びを間違えた。そしてぼくはたまらなく恥ずかしくなる。「……ごめん。興味ないよね」

「……いえ。謝らなくてもいいです」

 タンタンタン。

 ユイは淡々とタンバリンを鳴らすように言った。「人と趣味が合わないのは、いつものことですから」

 と話すユイの表情には、憂いの色が浮かんでいて、幼心にぼくは思う。ダメだ。憂いは、ここにふさわしくない。笑っていなくちゃダメだ。笑わせられなくちゃダメだ。兄として、人として。ぼくはとにかく彼女に笑っていてほしいと思った。出会って間もないのに、ぼくは彼女という人間にどうしようもなく惹かれていたのだ。

「……ごめん。本当に」ぼくはくり返し謝った。

「……いえ、別にだいじょうぶですから」

 とユイが言っても、それでもぼくは謝り続けた。それはむしろはた迷惑な行動だったのかもしれない。でも、そうすることでしか彼女の機嫌はとれないと、当時のぼくはそう思っていた。ぼくは彼女に笑って欲しかった。新しい自分の妹に。佐々木ユイに。「ねえ」ぼくは呼びかけた。「教えてよ。おすすめの……その……小説を。前から興味はあったんだ。いい機会かもしれない」

「そんな、無理しなくてもいいです」

「無理なんかしてない」ぼくは言った。「無理なんかじゃない」

「……」ユイは黙りこくっている。

「本当に、知りたいんだ。きみが好きなものを」

「……」ユイは黙りこくっている。

「本当に」とぼくはくり返す。「心から思ってる」

 ユイは黙りこくっている。

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