超いもうと。
舞山いたる
第1話
妹は爆発した。
シーアイエーだかエフビーアイだかカーゲーべーだかケーケーケーだか共産党だかに体の隅から隅までをいじくられて挙げ句に爆発して妹は死んだ。十三才の誕生日を迎えたその次の日に死んだ。まだ十三年と一日しか妹は生きていなかった。
妹。ぼくの大事な妹。ぼくの愛する妹。肉片と血液の総計四〇キログラムになってしまったぼくの妹。佐々木ユイ。ぼくのすべて。
だから物語は始まらない。物語は物語としてそこにあるものでしかない。これは終わった物語だ。ぼくがユイについて語れる領域は限られているし、一年もかけてぼくが得たモノはあまりにも少なすぎた。ぼくが表現できることはあまりにも断片的に過ぎた。
ぼくは語る。ユイがそこに生きていたことを記録するために。ユイの死にわずかでも意味を生じさせるために。何よりも、ぼくのために。そして、ユイのために。
くり返す。物語は始まらない。
物語は物語でしかない。
だから、これはぼくの遺言だ。
暗転。
巻き戻し。
時間はさかのぼり、ぼくの目の前でユイは死につつある。
あたりで火が燃え盛り、煙が立ちのぼる中、ユイとぼくは太平洋にぽつんと浮かぶ孤島のように猛火の中にたたずんでいる。
崩落。あたりの地面がひび割れて奈落のような暗黒に沈み込んでいく。ぼくたちを追いかけてきた組織の連中は、火に飲まれるか崩落に巻き込まれるかして消えていく。それは事実消えていくという表現が正しかった。物理的な死ではない、概念的な存在の消滅。カメラのフラッシュが炊かれたその次の瞬間消えて無くなるように。
フラッシュ。
消失。
それが無数に繰り返される。
世界が消失を始めている。
ユイの息はしだいに衰えていく。それは避けようのない確定された事実なのだ。運命なのだ。そして運命はぼくたちの淡い心臓に銃口を突きつけ続けている。ずっと昔から、目を背けるなとぼくに言い続けている。
うるさいな、とぼくは言い返す。いいから放っておいてくれよ。おまえの声は聞きたくない。おまえの声は聞き飽きたんだよ。
目を背けるな。
しっかりしろ。
ああ、しゃんとしてるさ。頭は冷えている。これ以上ないまでに冷静で、これ以上ないくらいに研ぎ澄まされている。今のところ、コンディションは完璧だ。悪くなる予定もない。そうだろ?
感覚が鋭敏に研がれている。
全能感が全身を包んでいる。
けどそれは借り物の感覚だ。そのことをぼくは知っている。目の前で横たわるユイからのギフトなのだ。実質的な神からの贈り物。
世界に迎合し、世界軸として機能するユイはいま、その淡い呼吸を止めようとしている。人間としての存在証明を根底から上書きしようとしている。一段階上のステージへ上がろうとしている。
進化。
開花。
弁証法で言うところのジンテーゼ。
たしかに聞こえはいい。けどそんなものには意味がない。
ユイの意思はどうなんだ? それを飛ばした結果なんてものに意味があるはずがない。あるわけがない。
ユイは、ぼくの妹は、そんなことを望んじゃいない。
それでも進化は続く。
それでも世界は回る。
くだらない。何もかもくだらない。ユイを抜きにした世界に存在価値なんてあるはずもない。頼むから、ぼくの勝手な思いをくんでくれ。頼むから、ぼくからユイを奪わないでくれ。頼むから。
本来、ユイを一次元上においた状態にあることが世界にとっては正しい形となる。そんなことは百も承知だ。そんなことは一も二もなく分かりきっている。それでもぼくは運命を否定したかった。決まりきった概念に逆行したかった。我を通したかった。限りなく自分勝手な己の思いに正直でありたかった。
けど世界はそれを許さない。言い換えれば、ユイの本来的な機能はそれを拒む。そこにユイの意思は存在しないけれど、たしかにぼくは拒否されている。ぼくというちっぽけな個人は巨大な意思の前になすすべもない。
一にして全。
全にして一。
ユイは宇宙のゆらぎとして万物を問わずありとあらゆるものを超越している。同時にあらゆるものに内在している。そういうものだ。そういう現象、あるいは事象だ。理解できなくて当然だ。彼女を理解しようとすること自体が無謀なのだから。
仕方の無いことだと諦めるのはたやすい。自分の手に負えないと悟って手を引くことは正しい。けれどぼくはあきらめられない。やはり、あきらめきれない。世界である以前に、ユイはぼくの妹なのだ。
ユイの呼吸が浅くなる。
あの時、「あなたにしか彼女を救えません」と田中さんは言った。呆然とするぼくに言った。その言葉を通じてあふれんばかりの力をぼくに分け与えた。
ぼくはそれを聞き入れた。自分の使命なのだと己に定め、その通りに行動してきた。なるべくしてなった。彼女を守ることだけを考えてきた。
また一歩、ユイが死に近づく。
その結果がこれだ。目も当てられない、田中さんに合わせる顔も面目もない。まったくお話にならない。笑ってしまいたいほどに何もない。ぼくはあまりに空っぽだ。
時を重ねるごとにユイは人間らしく無くなっていく。人じゃなくなっていく。
消失。
人間性の喪失。
それは今になって始まったことではなかったのかもしれない。ただぼくが気づいていなかっただけなのかもしれない。ぼくのメガネはいつだって曇っていた。ぼくの意識はいつだってあやふやだった。だから気付かなかったのかもしれない。
そうして、気づけばユイのロウソクは根元まで消えかかっている。
そうして、すべてが泡になって消えてしまう前に、ぼくは彼女の存在を証明しなければならない。存在証明をするのだ。そして回答を探り当て、こちらにたぐり寄せなければならない。けれど、とぼくは思う。この証明に使える公式はぼくに備わっていない。それどころか解決の糸口すらさっぱり見つけられていない。
部分点をぼくにくれ。
バツじゃなく、三角の採点をつけてくれ。
だからぼくはもう正攻法には頼っていられない。手段は選ばない。選べない。
カンニング。
用紙のすり替え。
採点スタッフへの恫喝。
今となっては何でもござれだ。
ただ、残念なことにぼくにはそれを実行するだけの勇気だけが足りていない。生来のチキン。腰抜けのビビり。生粋の名脇役。いいさ、なんとでも呼んでくれ。自分でもそんなことは分かっているんだ。
いつだってぼくは勇敢じゃなかった。
いつだってぼくは主役じゃなかった。
それは今も変わらない。実を言えば、明け透けな本心はさきほどからもう帰ってしまいたくて仕方がない。いつだってぼくは後ろ向きで、逃げよう逃げようとそればかり考えている。目を背けようと努力している。
いい加減に覚悟を決めろよ、と誰かがささやく。
分かってるよ、とぼくは答える。ことここに至って、覚悟はできている。
本当に?
本当に。
信じられないな。
信じてくれよ。
結局、最終的にはぼく自身の問題だ。初めから最後まで、いつだってぼくが何をするかの問題だった。初めから問は示されていたのだ。答えも示されていたのだ。解法も例題もぼくの周りには転がっていたはずなのだ。結局この物語は、ただそれを見つけられなかっただけの話だ。つまり、ぼくの失敗談でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。
それでも、最後のこの今、ぼくはユイを救わねばならない。たとえ自分を犠牲にしようとも、ユイだけは助けなくてはならない。だって、ぼくはユイの兄なのだから。
ぼくはビデオテープを最初の位置にまで巻き戻す。
フラッシュ。
逆再生。
キュルキュルと逆再生された映像たちがユイとぼくの数年間を示す。秒間二十四コマに敷き詰められたぼくたちの思い出が高速で巻き返されていく。そうして淡い残像となって消えていく。
テレビは言う。この映像を見る際は、できるだけ離れてご覧になってください。
いまから再生するのは、極めて個人的なぼく自身の話だ。
エッセイ。
自伝。
そう呼ばれる類の個人的な物語だ。
テレビは言う。この映像はイメージやフィクションではありません。
これはけっして小説のように整合性のとれた『物語』ではない。けっして他人を楽しませるためにお膳立てされた予定調和ではない。けれど物語だ。
だから、ぼくは生きていた。ユイは生きていた。母も、父も、友だちの谷崎も、バイトの先輩である藤原さんも、みんながみんな懸命に生きていた。
つまるところ、これはそういう物語だ。
ここから時は正しく進み始める。容赦なく、躊躇なく、前にだけ動く。そして最後までけっして止まらない。
だから――
テレビは言う。どうか最後までお付き合いくださいますよう。
再生。
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