第41話

 喫茶店『マトリョーシカ』の扉を、カランコロンカランと開ける。店内中の木材が軋んで、カウンターに置いてあるマトリョーシカ人形がカタカタと揺れた。


 店名の由来がこの人形にあることを知ったのは、通い始めてら何か月か経ってからだ。店主が当時の恋人から貰ったプレゼントらしいが、彼女とは別れたという。

 そういえば、ここでロシア料理だとかロシアンティーだとかを食い飲みした覚えがない。


 先輩と並んでカウンター席に座りながら、流れているギターの音色に耳を澄ました。音は大きく澄明だ。

 不意にミナガワ先輩が、「あ」と声を出した。


「どうしたんですか?」


 言いながら、先輩が見ている方に目を向ける。店内に設えられた、異質な雰囲気のライブステージがあって、そこでギター演奏をやっていた。

 ギターを弾いているのは、見知った顔だ。


「中田先輩」


 またの名を『乱視ゼロコンマ』。

 名前を呼ぶと、『乱視ゼロコンマ』こと中田先輩は、弦から目を離した顔を上げた。ぼくらと目が合って、顔を綻ばせる。


「やあ」


 陽気に挨拶しながら、中田先輩は演奏を止めた。


「2人、知り合いなの?」


 中田先輩が訊ねた。


「そうなんすよ~」


 飄々と答えるのはミナガワ先輩だ。


「マジかー。夏川君、皆川に悪いこと吹き込まれてない?」

「何もしてないっすよ。俺のことなんだと思ってるんすか」

「悪い先輩だと思ってるよ、そりゃ」


 テンポよく繰り広げられる2人の含み合いは、気が置ける仲間同士の冗談にも、頭の切れる大人同士の敬遠にも聞こえた。


「えっと」と、おずおず言い出しながら、自分のターンを手繰り寄せる。


「2人はどんな知り合いなんですか?」

「去年からここで知り合ったんだよ」


 ミナガワ先輩が答えた。


「僕が今日みたいに演奏してたら、こいつが話し掛けてきたんだよ」


 いつの間にか、中田先輩はぼくの隣まで来ていた。両脇を先輩2人に固められて、変な緊張感が走った。


「話し掛けたんですか?」

「キャンパスで見たことあったからさ。『上手いっすねー大学一緒っすよ、多分』って」

「え、やば。中田先輩はどうしたんすか?」

「変な奴だとは思ったよ。まあでも、結局そこから話すようになったわけでさ」


 中田先輩は懐かしむように目を細めた。若気の至りだよ、とミナガワ先輩も笑う。

 至り過ぎている、と思った。もしも来年、見知らぬ後輩に声を掛けられたら、ぼくはどうするだろう。こんなにも寛大に迎えられるだろうか。


「そういえば2人とも、講義は?」


 中田先輩に話題を振られて、そういえば、本題を思い出した。高崎のプレッシャーがたちまち押し寄せてくる。


「実はリオくんに悩みがあるらしくて、さ」

「悩みかあ。僕も聞いてあげよう」


 両脇の先輩から視線を向けられる。

 これはこれでプレッシャーだが、同時に頼もしくもあった。


 ぼくは2人にこれまでの経緯を伝えた。

 細部まで丁寧に話しながら、中田先輩も一枚噛んでいることに気付いた。噛んでいるというか、サキノが巻き込んだのだ。


 サキノが、宮本アスカのドラマ主演の情報を掴んで来たこと。

 しかしドラマの主演は早々に発表されたこと。

 ちょうどタイミングよく、宮本アスカと高崎浩司のデート現場を見てしまったこと。

 張り込みをしたりして、2人の関係について探っていたこと。

 そこで高崎に声を掛けられて、仄めかすように脅されたこと。

 それでもめげずに探り続けて、宮本アスカにインタビューをしたこと。

 高崎が大学を通じて接触してきて、今朝脅されたばかりだったこと。


 いざ話してみると、大したことではないように思えた。思えたが、断片的に覚えている個々の場面が、得体の知れない恐怖感を呼び起こす。

 震えを鎮めるように、大きく息を吐き出した。


「正直、めっちゃビビってます」


 わざと笑みを浮かべて自虐的に言った。


「ふうーん」


 ミナガワ先輩の相づちは伸びやかだった。横顔を窺うと、口角が仄かに上がっている。ゾッとして、中田先輩に向き直した。


「災難だったね」


 中田先輩は親切そうな笑みで言う。「災難でした」と力なく答えた。


「そうか、富山さんが凄い勢いでアポ取ってきたのは、そういうわけだったのか」

「そうなんです……迷惑でしたか?」

「いや、大丈夫」


 大丈夫、というのは、迷惑は被ったけど自分は大丈夫、なのか、迷惑でもないから気にしないでも大丈夫、なのか。後者であってほしかった。


「リオくんはさ、どうしたいの?」


 ミナガワ先輩が言った。相変わらず伸びやかな調子で、ようやく面白がっていることに気が付いた。

 サキノを気に掛けていたので、忘れていた。そういえばこの先輩もこの先輩で、ブレーキの壊れた人だった。


「……分からないです」

「言い方を変えると、高崎浩司っておっさんは恐いの?」


 はい、と言うのは悔しいので、首を縦に振るに留めた。


「そりゃあ恐いよ」


 中田先輩がフォローを入れる。言葉の芯に、ミナガワ先輩を静止しようという意図がある気がした。


「とりあえず、大学名と電話番号は控えられてるんでしょ? 新卒採用みたいなもんじゃん」

「逆に高崎のおっさんの会社名とか電話番号は知らないの?」

「知らないです」

「あれ、でもテレビ番組出るとか出ないとか、言ってなかった?」

「まあ嘘だろうけど」

「持ち掛けられただけです。ミナガワ先輩の言う通り、多分嘘です」

「名刺はもらってない?」

「ないんでしょ」

「貰ってないです」


 ぼくが答えると、2人とも「やっぱり」と唸った。


「出演オファーするのに、名刺を渡さないなんてあり得ないんだよね」

「そもそも、マネージャーにキャスティング権なんかないし」

「それはぼくも言いました」

「お、そこ気付いたんだ」

「そしたらなんて?」

「プロデューサーに話を通すだけならできるって」


 ぼくの答えに、中田先輩が声を上げて笑った。


「そんなことしたら、タレントの仕事なくなるよ」


 店主がおずおずと割り込んできて、「コーヒーでいいかい?」と言った。ぼくとミナガワ先輩が頷いて、中田先輩が思い出したようにテーブル席からカップを持ってきた。


「それで、リオくんはこれからどうする?」

「どうするって……分からないです」

「大人しくしてる?」

「他に選択肢が?」

「反撃するに決まってんじゃん」


 思わず言葉を失って、ミナガワ先輩の顔を見る。背後で中田先輩のため息が聞こえる。


「皆川。変なことを吹き込むなよ」

「いいんすよ。どっちみち、リオくんがやらなくても俺がやるんで」


 言いながら、ミナガワ先輩がニヤリと笑った。

 ケンジといいミナガワ先輩といい、どうして人は思いついたときにニヤリと笑うのだろう。

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