第40話

 重い足取りで3号棟を後にした。

 気負いなんていう、抽象的な感情ではない。もっと明確な、怯えによって、ぼくはコテンパンに打ちのめされていた。


 途方もない恐怖と無力感に襲われて、頭がグワングワンと回る。

 エレベーターで降りる間、高崎の顔面に貼り付いた陰険な笑みが、何度かき消しても浮かび上がった。


 1階に着く。ため息をつく。俯きながらエレベーターホールを歩いていると、誰かとすれ違った。


「夏川」


 声を掛けられた。

 顔を上げると、カナトだった。


「何してんだよ」

「呼び出されてたんだよ」

「誰に?」

「高崎浩司」

「は?」


 藁にもすがる思いで喋ろうとしたが、そういえばカナトは何も知らないんだったと思い出す。


 やれやれ、肝心なときに使えない。やっぱりカナトは、陰気なインドア作業が好きなだけで、いざという時には――いや、違う。


 ぼく自身のせいだ。カナトを遠ざけたのは、他の誰でもない、ぼく自身だった。

 カナトを遠ざけて、衝突して、いざ助けてほしいときに助けてもらない。宮本アスカと高崎浩司にのめり込み、警告を出されて縮みあがっている。

 自分で自分の首を絞めて、こんなにも苦しんでいるのだ。


「いや、なんでもない」


 一方的に切り上げて、再び歩を進める。ここから、カナトから、立ち去りたかった。合わせる顔がなかった。


「なんだよ……」


 カナトが怪訝な声を出した。ぼくを責めるような響きはなくて、あくまでも訝しげな態度に徹していた。


「ごめん」


 背中越しにゴニョゴニョと言った。しかし、向き合って口にしない謝罪など、カナトに届くはずもない。


   ☆


 2限の講義には間に合いそうだったが、とても行く気分ではなかった。

 トボトボと歩きながら、一刻も早くキャンパスを立ち去りたいと思う。


 敷地を後にして、行くあてを探す。どこがあるだろう。ぼくが行っても差し支えない、腰を落ち着かせられる場所。


 はじめは『いおり』が浮かんだ。

 しかし日中から開いてるはずもなく、負の感情が負の記憶を呼んで、ユウスケら軽音部連中の嘲笑う顔が脳裏に浮かび上がる。

 ため息をついて、眼中の嫌なイメージを拭い去った。


 次に思い浮かぶのは『マトリョーシカ』だった。

 悪くないと思う。近いし、行き慣れているし、単価は安くないが気分を落ち着かせるのにはちょうどいい。

 そこに決めようとして、カナトと怒鳴り合ったことを思い出した。次から次へと、嫌な思い出がフラッシュバックしてくる。

 どうしてぼくは、こんなにもネガティブな物事に塗れているのだろう。


 キャンパスを出て、ワールドバザールを歩く。

 多くの学生とすれ違った。これから講義を控えた学生が、続々とキャンパスへ向かっているのだ。

 チラリと視線を上げる。誰ひとりとして、陰険な顔はしていない。ぼくみたいに、悲惨な局面に立たされている学生はいない。


 ため息をついた。何度目のため息か分からなかった。

 ぼくだけじゃないか、こんなにも沈んでいるのは。


 悲劇のヒーローに陶酔しているみたいだったので、前向きになろうと顔を上げた。頭を切り替える。とにかく、漠然とした不安感をかき消さなければならない。


 少しばかりの冷静さが蘇ると、漠然とした不安は具体的な場面の輪郭を描き始める。

 高崎から電話がかかってきて、家族友人に触れて脅されること。

 家に帰ると高崎がいて、法律を持ち出して金銭を要求されること。

 高崎から長いメッセージがきて、弁護士と一緒に起訴状を出されること。

 何かの罪に引っ掛かって、気付けばパトカーに乗せられて気付けば取り調べを受けていること。


 よくもまあこんなにも思い浮かぶな、と思った。

 自分に苦笑しながら、血の気が失せていくのを感じる。


 リオに会いたいと思った。しかし会えないとも思った。高崎に何をされるか、分かったもんじゃない。


 不意に、誰かに肩を叩かれた。

 顔を上げると、見知った顔が親し気な笑みを浮かべている。


「ミナガワ先輩」


 呼び掛けながら、心のどこかでホッとする自分を感じた。


「顔を真っ白だよ? どうかしたの」

「そんなにですか?」


 先輩が目を丸くして訊ねるので、慌ててスマホの内カメラで確認する。自分では分からない。

 首を傾げると、ミナガワ先輩が言葉を続ける。


「本当に血の気が引いてる」

「まあ、えっと……」

「話だけなら聞けるよ」


 言いながら、先輩が笑みを浮かべる。久しぶりに見る、心地よい笑顔だった。

 人の警戒心を解き、心を開かせて、懐にスルスルと入り込む、強大な魔法の力を持った笑顔だ。


 気が付けば、ぼくの口がペラペラと動いた。

 宮本アスカを追いかけようとして、高崎が接触してきて――という経緯を数分話していると、


「ちょっと待って」


 先輩が遮った。


「はい」

「長くなる?」

「はい」

「それじゃあ場所を変えよう――リオくんはもう帰り?」

「いや、『マトリョーシカ』って喫茶店行こうと思ってて」

「ああ、あそこね。いいよ、そこに行こう」


 ミナガワ先輩は踵を返して、ぼくと一緒に『マトリョーシカ』へ向かった。


「先輩、講義はいいんですか?」

「うーん……どうだろうね」

「え?」


 はぐらかす先輩の真意を計りあぐねて、本当は出席しないとマズいのではないかと思ったが、とにかく助けがほしいので何も言わないで置いた。


 ワールドバザールを逆行しながら、不意に思い出すことがあった。

 不安でいっぱいの頭のどこに、思い出す余裕があるのかは分からないが、そのまま口にできるくらい、具体性を伴う疑問だ。


「そういえばミナガワ先輩」

「ん?」

「前に中田先輩……『乱視ゼロコンマ』がいるって言ってたやつ。先輩が情報ソースでしたよね」

「うーん、そうだったかな」

「どうして『マトリョーシカ』にいるって分かったんですか?」

「どうしてかなあ」


 ミナガワ先輩は伸びやかな調子で言った。誤魔化す風には到底見えない、軽快な様子だった。


「ここだけの話にしてくれる?」


 ぼくはコクリと頷く。


「音楽系のお店を適当に言って、行かせてみただけ。喫茶店とかバーとかは多いけど、音楽系になると少なくなるから」

「適当に?」

「そ。適当とは言っても、平日は全く会えなかったから、試しに週末を狙おうとは思ったけどね。まあ、そんな程度」

「もしいなかったらどうするつもりだったんですか?」


 先輩は答えない代わりに、声を上げて笑った。

 誤魔化しの笑いさえ人をほだす魔法になるのは、ずるい。

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