第38話
「高崎浩司?」
宮本アスカは、微笑みを絶やさずに聞き返してきた。
こんなときでも笑顔は歪まなかった。艶やかな唇から、真っ白な歯が覗いている。
今までは笑顔のための装飾に過ぎなかった歯が、いまぼくに嚙みつかんとしているように思えた。歯でではなくとも、宮本アスカはぼくに噛みつかんとしているに違いない。
「高崎浩司」
ぼくはオウム返しにした。我ながら、口が回らないと思った。
もっと手を変え品を変え物言いを変え、上手く聞き出すべきなのだ。
しかし、ぼくはオウム返し。
「高崎浩司……」
言い淀んで、宮本アスカは口を閉ざす。それから、わずかに唇が開いた。
光沢を放つ紅色がねっとりと開かれて、妖しく魅了される心持ちだった。一重瞼の簡潔な顔立ちの中で、唇だけがエロティックな雰囲気を纏っている。
しばらく彼女の口に見惚れていたが、背後で足踏みがしたので現実に引き戻された。本能的にリオだと思った。
「高崎とは……」
宮本アスカはそこで口を閉ざす。
高崎、という呼び方に引っ掛かりを感じた。ぶっきらぼうな呼び捨ての中に、嫌悪とか敵対とかの響きがあった気がした。
空気が張り詰めたような気がして、身を強張らせる。
やがて宮本アスカが口を開いて
「高崎浩司って、何の人ですか?」
反射的に、はぐらかされたと思う。はぐらかされたのには違いないが、同時にボーダーラインも見えた気がした。
つまり、ここから先は踏み越えてはいけない。もし進んだら、身の安全は保障されない。
高崎浩司が声を掛けてきたときの、淀んだ瞳を思い出した。
もし詮索されてたりしたら、大学やお家に直接行って、説明しなきゃならなかったから――あいつは笑いながら言ったのだ。
めんどくさい、とも付け加えて。
「ああ、えっと。なんでもないです」
ぼくが何か言うよりも先に、リオが割り込んだ。
「高崎浩司って、うちの教授です。たまにテレビとかも出てて、プチ有名人だから」
「そっかあ」
そう言って宮本アスカは笑った。ぼくらからも笑いを釣り出すような笑い方だった。全員が笑うことで、場を誤魔化そうとするみたいに。
「高崎浩司はあなたのマネージャーだと言った」
だからぼくはそう告げた。
リオのフォローを無視しながら、そういえば、彼女に盾突くような真似をするのは初めてだと思った。
「高崎浩司とはどんな関係なんですか?」
「あなたたちの教授なんじゃないの」
「あなたのマネージャーだと言ってました」
「高崎浩司と会ったの!?」
宮本アスカは目を見開いて言う。ゆっくりと首を縦に振ってみたが、それも見えていないようだ。
しばらく、ぼくを見つめていた。正確に言えば、ぼくの方に視線を向けてはいるものの、目で捉えているのはぼくではなく、宙を舞う見えない何かだった。
何か言葉を探しているのかもしれないし、言葉を失って自失になっているのかもしれない。
ぼくはジッと彼女の出方を待つ。重い沈黙が続いて、不思議な空間になっていた。
ケンジのため息やリオの咳払いが、聞こえてくる気がした。
やがて宮本アスカが口を開く。
「ごめんなさい。高崎浩司なんて人、本当に知らないの」
「そうですか」
それっきり、ぼくは口をつぐんだ。これ以上は、どう追及しても得られるものはなさそうだ。
得られるもの。思えば、ぼくは何を期待していたんだろう。
彼女が不倫していたかもしれないことか、パパ活でもしていたかもしれないことか、あるいは、単なる年の差カップルでもいいから、面白い情報があれと望んでいたのだろうか。
思わずため息が出た。
ずいぶん下世話なことを考えていたのだと、ようやく理解できたと思う。自分に辟易した。
「マクラ」
不意に誰かが呟いた。そちらを見ると、それまで存在感を消すみたいに黙っていたスタイリストが、真剣な眼差しで宮本アスカを見つめている。
「アスカさん――」
全員の注目を浴びながらも、スタイリストは臆せずに言う。語り掛けるような口調は、頑なな相手を宥める風でさえあった。
「ダメ」
宮本アスカが短く告げる。きっぱりと言い放つ彼女を見て、頑なになっているのは宮本アスカなのだと分かった。
「もういいですか?」
「はい」
何も言えないぼくに代わって、サキノが返事をした。
「インタビューも終りですよね。それじゃあ、次の現場があるから」
それだけ告げた宮本アスカを、ぼくはあまりに一方的だと感じたが。
そしてすぐに、一方的に詮索したのはこっちも同じだと気付いた。
「それじゃあ、今日はありがとうね」
宮本アスカは、笑顔で告げてスタジオを後にする。ついに彼女は、例の簡潔な笑みを絶やさないままだった。
後に続くスタイリストが、唇をジッと噛んでいるのに気付いた。
「マクラって言ってたね」
彼らが去ったあとで、ポツリとサキノが零す。
「マクラって、何だよ」
言いながら、ケンジが順に顔を見回していく。
当然ぼくも知らないので、首を横に振るしかない。
「思ったより大きいことになるかも」
「どういうこと?」
訊ねると、サキノは真顔で口を開きかける。
しかし――
「ダメ。これ以上は首を突っ込まないで。見たでしょう、宮本アスカの表情。タレントの迫力って、あんなもんじゃないよ」
まるで轟音を上げて駅を通り抜ける快速列車みたいに、リオが続けざま言った。長くて凛とした正論に、誰も言い返せなかった。
「分かってる」
本当だ。本当に分かっていた。もう首は突っ込まないし、突っ込みようもない。
宮本アスカスキャンダル追っ掛け作戦は、そんな風にして幕を閉じるはずだった。
大学の事務から電話が来たのは、翌朝8時のことだった。
『夏川李央くん? 高崎浩司さんからお電話がきてます』
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