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第30話
「この前、私たちのこと見てたよね?」
高崎浩司は、にこやかな笑顔で言った。
いや、到底にこやかではない。たしかに笑顔は笑顔なのだが、見るからに無理矢理な笑みなのだ。
目の奥が笑っていないとか、口の端が妙に引き攣っているとか、そういう次元ではない。もっと心の奥底から不安になるような、ゾッとする冷徹さを秘めていた。
「この前って。えっと、それは……」
言い淀んで、答え方を見失った。
正直に肯定したら、何をされるか分からない。同じくらい、嘘をついて否定するのも怖い。
答えられずに黙っている間、高崎は何も言わなかった。無言のまま、冷徹な笑顔でぼくを見つめていた。
「この前って、いつですか……?」
「とぼけなくても大丈夫だよ」
なんとか絞り出した問いに、抑揚のない声が答えた。
「はい」
肯定のための2音でさえ、発するのに必死だった。頭だけが変に冷静で、心臓がバクバク脈打ってることや、脇にダラダラ汗をかいていることにばかり気付く。
上手く切り抜ける術など、微塵も思いつかなかった。
「そうだよねぇ。ほら、夏川君は『乱視ゼロコンマ』君の撮影のときでもお世話になってるからさ。一応説明をしておきたくてね」
高崎は朗らかに言う。朗らかな調子を見せて言うだけで、朗らかとは言い難いのかもしれない。
「ぼくは宮本アスカのマネージャーだから、仕事現場も一緒になるんだけどね。あんな風に待ち合わせて、仕事に行くこともあるんだ。ちょっと親しい仲に見えたかもしれないけど、あれはあくまで仕事の一環だよ。分かる?」
ぼくは頷いた。頷かざるを得なかった。
「よかった、分かってくれて。わざわざお話するのもどうかと思ったけど、せっかく一緒に仕事してくれたんだし、その辺の誤解は無くしておきたかったからね」
「はい」
自分でも、何が「はい」なのか分からなかった。
「でも、よかったよ。夏川君が分かってくれて」
「え?」
「もし詮索されてたりしたら、大学やお家に直接行って、説明しなきゃならなかったから」
面倒くさいんだよね、と高崎は笑った。
何が可笑しいのだろう。ぼくの恐怖に、ほんのりと疑問が湧いてきた。
この人は、何が可笑しくて笑っているのだろう。この人は、ぼくの家を知っているのだろうか?
高崎はひとしきり笑った後で、再び口を開く。
「一緒にいた女の子にも、お話しておきたいんだよね」
「ぼくの方から伝えておきます」
反射的に答えていた。これは言わされたのではない。紛れもないぼくの本心だ。
「ありがとう。でも、一応正式な形でこちらから説明しないと……」
「これは正式な形なんですか?」
言った後で、まずい、と思った。もう、後には引けない。
ぼくの反論に、高崎は面白いくらい簡単に目の色を変える。笑い皺が消えて、瞳から光が失われていく。
「教えてよ、あの女の子の連絡先」
「個人情報ですから」
「参ったなぁ」
高崎は乾いた声で笑いながら、
「面倒くさいこと、嫌でしょ?」
ぼくは何も答えなかった。黙って高崎の顔を見続けた。ほとんど睨んでいたかもしれない。
お互いに何も言わないまま、睨み合いが続いた。無限にも思える時間だった。
次の瞬間、高崎の拳がぼくの腹に飛んで来て、その場に蹲ったところを、数人の男に抱えられてあっという間に車に連れ込まれる――なんてことも、有り得る。
果たして、状況が変わるのは、伸びやかな別の声によってだった。
「リオくーん!」
声のした方を見ると、サキノが、大きく手を振りながら駆け寄って来ていた。
ぼくも大きく手を振り返した。
「どうしたの?」
駆け寄ってきたサキノが言った。
「この人、宮本アスカのマネージャーだって」
「ふぅん」
「こんにちは。高崎浩司って言います」
「こんにちは」
高崎は、いつの間にか元の冷徹な笑みを取り戻している。
もちろんこれも胡散臭いが、さっきまでの光のない表情より、よっぽどマシだ。
「君も同じ大学の子?」
「はい」
「そっかぁ」
高崎の「そっかぁ」には、納得や了承とは異なる、不穏な文脈があるのだと思った。その文脈に、既にぼくは組み込まれているのだ。恐ろしいことに、そこにはリオもいる。
しばらく高崎は様子を窺っていたが、やがて諦めたように「それじゃあ」と言った。
「じゃあ私は失礼するよ。夏川君、またね。あの件は頼んだよ」
テキパキと告げて去って行く高崎を、ぼくはどんな顔で見送っていたのかは分からない。
背中が遠ざかって、サキノに顔を向けると、「なに?」と怪訝な声を出された。きっと、よっぽど険しい顔をしたいたのだと思う。
「何だって?」
「前に豊洲で見たこと。あれはただの仕事なんだって」
「違うよ」
サキノは即座に言う。
「だろうね。要するに、あの件は口外するなってことでしょ」
「それもそうだし」
ぼくに向き直って、
「宮本アスカにマネージャーはいない」
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