第26話

 改めて周知したいことが、富山咲乃は「止まれ」と言って止まるような人物じゃないということである。

 むしろ、無茶苦茶なアクセルを踏む思い切りのよさは、ケンジを上回る。


 4限の時間になり、ミナガワ先輩に代わって、サキノがやって来た。


『いまから時間ある?』


 チャットが届くと同時に、彼女が姿を現した。


「いまから時間ある?」


 チャットと同じことを訊ねながら、テーブルにカバンを置いて椅子に座る。返事を待たないのも、チャットと同じだった。


「ぼくは空いてるけど」


 答えながら、2人を――特にケンジを見やる。サキノの要件は、言うまでもなく宮本アスカのことだろう。


 分かってるよなお前残れよ、と思った。

 しかし、困ったことにケンジはこの後講義がある。カナトも一緒である。ここでカナトをハブってケンジだけ残ると、人間関係に計り知れない亀裂ができてしまう。


「おれ授業あるからなあ」


 ケンジが言った。


「おれもー」


 カナトも言った。


「結構大事な話なんだけど……」


 サキノが言いながら、ケンジとぼくをチラチラ見る。

 分かってるよね残ってよ、と言っているみたいだ。


「じゃあサボるわ」


 と言うのはケンジだった。


「そうだなー今日は夏川もサボってるし」


 そしてもちろん、カナトも言った。


「サボるって、そんな簡単にいいの?」

「どっちかだけでも出ておけばいいじゃん」

「じゃあじゃんけんで決めるか」


 なんでだよ。話合いとかにして、上手く丸め込めよ。

 しかし公平な運によって決めると言ってしまったが最後、もう「さいしょはグー」と言い出すしかない。


 ぼくとサキノは、おそらくこれまでで最も緊張感のあるじゃんけん観戦をした。


「さいしょは、グー」


 生唾を呑み込む音がした。ぼくの咽頭が疼いたので、その音はぼくのだと分かった。


「じゃん、けん……」


 大きく息を吐き出す。隣を見ると、サキノが小さく両手を組んでいる。静謐の中の祈りは、彼女を聖母に見立てさせた。

 ぼくも祈った。頼む、ケンジが勝ってくれ、仮にカナトが残っても、特に話すことがない。


「ぽい!」


 2人が、自身の手を繰り出した。

 ケンジはグー。

 カナトはパー。


 世界が静止する音がした。辺りは静寂に包まれ、誰かのため息ばかりが響く。身体の芯が凍り付いて、もう二度と動かなくなるのではないかと思った。

 いや、そうは言ってられない。ぼくはここでへこたれてはいられない。やらなければならないことが、山ほどある。


 そして冷静に考えれば、カナトとサキノと駄弁るのも、それはそれで悪くはない。時間の浪費感は否めないが、大した苦行ではないのだ。

 何よりも、宮本アスカスキャンダル追っ掛け大作戦(仮)の作戦会議は、未だかつて有意義な話し合いになったことがない。


「まあいっか」


 気が付けば口に出していた。言った後で、しまった、と思った。


「なにが?」

「いや、別に。それよりさ、これどっちがどうするの?」

「そりゃあお前、勝った方が講義に出られるんだろう」


 抜け抜けと言い放つのはケンジだ。こういうときだけ、ら抜き言葉にも気を付けるのだ。


「え、俺が講義行くの?」

「そう、行っていいぜ。おれの出席も入れといてくれ」


 滑らかに言いながら、ケンジは学生証を手渡した。


「じゃあよろしくな」


 にこやかに言い放つケンジを、カナトは目を丸くして見ていたが、


「まあ、いいや。じゃあ、終わったらここに戻って来るから」


 あっさりと行ってしまった。


 きっと卒業するとき、彼が一番いい成績を修めるのだろう。ぼくらの学問的進退は、もはやカナトに懸かってるいるのだ。頼んだぞカナト、留年はしたくない。


「丸く収まってよかった」


 まるで他人事のように、サキノが言った。もしも留年したら、ミナガワ先輩とサキノを呪おうと決めた。ついでに新聞部を巻き込んで、さらについでに動画サークルの面々も巻き込もう。リオは巻き込みたくないから、やはりサークルに入るべきではない。


「で、何だよ。話って」


 仕切り直すようにして、ケンジが問い掛けた。

 

「まあ、本当は大した話じゃないんだけど」

「何だよ。大事な話っていうから、期待してたのに」

「ああ、うん。ごめんね」


 単調に話すサキノに、どこか違和感を覚えた。普段はもっと明るいトーンで、爛々と悪だくみする子どもか、必要以上に自分を陽気に飾っているのだが、今日は嫌に大人しい。

 静かなサキノも、それはそれで物足りなく感じる。


「宮本アスカの深夜ドラマ主演。明日情報解禁だって」


 サキノが言った。


「明日情報解禁ってことは、要するに明日正式発表があるってことか?」


 確認するように、ケンジが問い直す。問いというより、ほとんどそのままの復唱だった。


「そういうこと」

「じゃあ深夜ドラマの主演っていうのは、ゴシップでもスクープでもなくなる?」


 今度はぼくが訊ねた。


「そういうこと」

「じゃあもう、動画にする意味はない」

「まあ、旬な女優の特集って意味では、大きいネタになるけど」

「たしかに。勢いに乗れる、チャンスっちゃあチャンスか」


 ケンジが腕組みをして唸る。


「まあいいんだけどさ。なんか、スクープ掴んだ後だと、拍子抜けしちゃうよな」

「だよねー。ちょっとスリルある取材にワクワクしてたから、ガッカリしちゃった」


 サキノも唇を尖らせた。

 ぼくは正直どっちでもよかった。彼らの言い分も分かるし、結果オーライに満足もできる。

 つまり、成り行きに身を任せるつもりなので、豊洲で宮本アスカを見掛けたことは、黙っておくことにした。


「ちくしょー。ここでバズりたかったんだけどなあ」

「Twitterとかで、陰キャ、陰キャ、って言われてたもんね?」

「は? 軽音部か!?」


 反射的に、立ち上がっていた。


「どうしたんだよ、急に」

「Twitterで、陰キャとか、なんとかって」

「ああ。『乱視ゼロコンマ』でバズったやつな。うちの大学の奴らだと思うんだけど、俺らのこと陰キャとか言って、ディスってくるんだよな」

「誰だよ、それ」

「分かんねえよ、そこまでは。とにかくさ、スクープ掴んで動画で流せば、そういう奴らを黙らせられると思ったんだよ」

「……あるよ、スクープなら」


 気が付けば、口を開いていた。


「スクープって?」

「宮本アスカ。この前見ちゃったんだよ」

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