第25話

 翌日。

 昼食を終えたぼくは、中国語の授業を受けるため、1人食堂を出た。


 エレベーターホールの行列に紛れていると、


「リオくん」


 と声を掛けられた。ぼくをくん付で呼ぶ男は1人しかいない。

 顔を向けると、やはりミナガワ先輩がそこにいた。相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべている。


「先輩。なんか久しぶりですね」

「そうだね。この後は授業かな?」

「はい。中国語」

「そっか。それじゃあ大丈夫だ。ちょっと来て」


 ミナガワ先輩は手招きすると、有無を言わさず踵を返した。

 せっかく並んでいる行列の中の順番が、ぼくの足をセメントのように固めているが、先輩の引力かはたまた良心の呵責か、結局ミナガワ先輩に付いて行くことにした。


「大胆なイメチェンだね」


 歩きながら、先輩が言った。


「はい、まあ」


 たしかに、大胆だ。

 サングラス、チェーン、バンクルはもちろんのこと。ブランド物のシャツに革ジャンでダメージジーンズである。おまけに、髪の色はアッシュブラウン。

 夏のぼくとは、見違えたはずだ。


「リオくんも大学生なんだなあ」

「そりゃあ、ここキャンパスですし」


 ていうか、先輩だって大学生でしょう。とは言わない。おそらく、そういうことが言いたいのではない、と思う。


「ちょっと話があってさ」


 先輩はぼくを食堂へ連れ込んだ。

 そこには、さっきまで一緒に昼食を食べていた、ケンジとカナトがいる。


「おかえり」


 カナトが言った。


「あれ、先輩じゃないっすか」


 ケンジが続いた。


「ちょうどいいとこに」


 ミナガワ先輩は、2人に微笑みながら、ぼくに椅子を促した。


「あの、ぼく中国語が……」

「大丈夫だよ。あれは厳し過ぎてまず単位なんか取れない。第二外国語は来年取り直すんだ」


 それより、とミナガワ先輩は腕を組んで言い直す。


 何が「取り直すんだ」だ。せこせこと真面目に取り組み続けたぼくが馬鹿みたいじゃないか。たしかに春の期末テストは25点だったが、秋からは挽回しようと思っていたところなのに。

 という気持ちと同格以上に、「じゃあいっかー」という気持ちもある。だから仕方ない、ひとまず今日は諦めよう。


「ちょっと聞きたいことがあってね

「なんすか?」

「サキノちゃん、最近そっちに多く行ってるでしょ?」


 ぼくら3人顔を見合わせて、


「いいえ」とカナトが言った。

「はい」とぼくとケンジで言った。


「いや来てないだろ」

「そっか。あ、リオとごっちゃになってた」


 訝し気なカナトに、ぼくは慌てて誤魔化す。ケンジもヘラヘラしながら「来てないかー」と言って、ひとまずお茶を濁す。

 ミナガワ先輩は、しばらくぼくらを眺めていた。嘘を見透かすような眼差しをしていて、背中に冷や汗が伝うのを感じた。


「サキノちゃん、新聞にもあんまりでさあ」


 やがて口を開いたミナガワ先輩は、伸びやか口調だ。大らかな話し方に、ゾッとするような響きがあった。


「へえー。何してるんですかね」

「君らの方に行ってるのかと思ってたんだけど、違うんだね」

「まあ、そうっすね」

「『動画の方が忙しいんで』って言ってたから、てっきりそっちなのかと」


 じゃあ絶対こっちに来てるじゃんか、バレバレじゃんか。

 万事休すだ、とケンジを見やる。


「いやー分かんないっすね。てか先輩、新聞の方は順調なんすか」


 押し通しやがった。こういうとき、彼の無謀さは頼りになる。頼りになるが、ミナガワ先輩を誤魔化せるとは、どうしても思えない。


 先輩は、少し黙ってケンジを見ていた。それから、ぼくに目を移した。

 穏やかな笑みだが、目は笑っていないようにも見えた。


「順調だよ。ラックに置いある分は、毎週捌けてる」

「おおー凄いっすね! もう金獲れるんじゃないですか?」

「いやいや、無料だから読まれてるって側面はあるよ。これでお金稼ぐつもりは、さらさらないし」


 話は逸れて、新聞の話題に移った。移った、というより、先輩が応じたような感じだった。


 ふと、カナトに視線を向けた。半笑いで会話を聞いているが、心ここにあらずな印象も、どこかにあった。

 良心がチクリと痛むが、ケンジの意向にも一理ある。結局ぼくにできるのは、何もせず話を進めることなのだ。


「また動画にしたいニュースとかあったら、君らにお願いするよ」

「任せちゃってくださいよ!」

「それにしても、動画のクオリティ上がったよね。編集、上手くなった?」

「あ、それは野間が頑張ってるんすよ」


 いきなり話題に上げられて、カナトが「え?」と素っ頓狂な声を出す。


「へえ、カナトくんが」

「こいつ頑張ってるんすよ」

「い、いやぁ……」


 カナトはボソボソと話していたが、やがてクッと顔を上げて、


「ていうか、お前も頑張れよ!」

「そうだよ、ケンジくんも頑張らないと」


 声を張り上げたカナトに、ミナガワ先輩も同調した。ケンジは頭を掻きながら、声を上げて笑っている。

 談笑の中にぼくも入り込んで、「がんばれよー」と声を掛けた。


 ひとしきり盛り上がって、笑い合ってから、ミナガワ先輩が「そういえばさ」と切り出した。空気が変わる、というより、戻る気配がした。

 先輩の眼差しを窺う。目の奥に、微かなぎらつきがある。


「宮本アスカの話、サキノちゃんから聞いた?」

「いいえ」


 ぼくが息を呑むと同時に、ケンジが首を横に振った。

 慌ててケンジのやった通りに、「いいえ」と首を振る。カナトに目を向けると、彼は慎重な様子で口を開いた。


「『乱視ゼロコンマ』のPVのこと、ですか?」

「いや、それとは別だよ。まあ聞いてないならいいや」


 引っ込んだミナガワ先輩は、再び温厚な瞳に戻っている。

 心のどこかに、ホッとする自分がいた。


「サキノちゃん、お父さんがジャーナリストだから。結構無茶な話題引っ張ってくるんだよね」

「ああ、はい。聞いたことあります」

「あんまり危ない橋は渡らないようにね。間違えちゃいけないことも、あるから」


 間違えちゃいけないこと、と思った。

 中国語の講義をサボるよりも、間違えちゃいけないこととは何だろう。間違えが身を亡ぼすことも、あるのだろうか。


 それからひとしきり話し込んだ後(楽単と春学期の成績と猥談が主な話題だった)、ミナガワ先輩は「じゃあね」と去って行った。


「中国語、やっぱり取り損ねるのかな」


 ため息まじりに言うと、ケンジが「来年だよ来年。フランス語でも取ろうぜ」と肩を叩いて来た。


 何はともあれ、時間が空いた。

 水曜日は3限で終わりだったので、中国語をサボった時点で終わりである。

 

「どうしようかなー」

「あのさ」


 間延びした声でぼやくと、不意にカナトが怪訝そうな声を出した。


「ん?」

「富山さ、別に俺らのとこ来てないなよな?」

「うん」


 即座に頷いた。


「来てない」


 ふぅーん、とカナトは感情の読めない声を出す。


 気にしすぎだって、とか、先輩の深読みだよ、とか、何かフォローを入れようとした。しかし、カナトがスマホに没頭し始めたので、何も言わないでおくことにした。

 視線を上げると、ケンジが片眉を上げて肩をすくめた。

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