第19話
久しぶりに訪れるキャンパスは、呆れるくらい代わり映えしない。
やんちゃな連中が、だだっ広い中庭にビニールシートを敷いて、わいわいがやがやしている。あれの正体は、お花見であったり、ピクニックであったり、日光浴であったりする。今日はなんだろう。
1号棟に入り、エレベーターの列に並ぶ。ビル型のキャンパスなので、上下移動がとにかく多い。必然的に、エレベーターの仕事量が多くなる。
目的階でエレベーターから押し出されて、新鮮な空気を取り込んでいると、バシンと背中を叩かれた。正確に言えば、背中に背負うリュックを。
「よう」
顔を上げると、ケンジがギラギラした金髪の下で、にんまりと笑みを浮かべている。
「今日の午後、空いてるだろ?」
彼は、ぼくが「やあ」とか「おはよう」とか言うより先に、用件を口にした。いつも通りと言えば、いつも通りだ。
「午後って、5限とか?」
「まさしく5限だな」
「まあ、空いてるけど」
よかったよかった、とケンジは満足げに繰り返した。
ここで困るのは、この手のくだりになったとき、面白いことになる確率とつまらないことになる確率が、ちょうど五分五分くらいなことだ。
今日の五分は前者だった。
つまり、面白そうなことになった。
「久しぶり」
ケンジとカナトと一緒に訪れた『マトリョシカ』で、ぼくらを待っていたのは『乱視ゼロコンマ』だった。
「久しぶりっすね!」
親し気に言いながら、ケンジは『乱視ゼロコンマ』の隣に座った。ぼくとカナトで、向かいの席に着く。
「ごめんねー呼び出して」
「全然いいっすよ」
ぼくは、いいだなんて言ってない。リオと夕飯の約束があるので、手短にお願いしたい。
「あ、何か飲みたいよね」
「そうっすね、俺カフェラテがいいっす。すいませーん」
例の風格たっぷりの店主に、カフェラテが2つとクランベリージュースを1つ、注文した。
「で、早速本題なんだけど」
「あれっすよね、次の曲のPVを俺らが撮るっていう」
「聞いてないぞ!」
さすがに、大きな声が出た。
「言ってないからな」
「言えよ」
「サプライズだよサプライズ。ビックリしただろ?」
言い負かされた、と思ってぼくは黙り込んだ。
『乱視ゼロコンマ』は、ひとしきり笑ってから、
「そ。そろそろ新曲を出したいから、PVを作りたいんだよね。良かったら撮ってくれないかな?」
改めて言われて、背筋が張り詰めた。隣でカナトが姿勢を正す気配がした。
知らなかったボカロPとはいえ、世の中に曲を出してそれなりに聴かれている人である。
それの、PVだって?
「やろうぜ」
ケンジが言った。顔中に自信に満ち溢れた笑みを浮かべていて、今日やたら笑顔だった理由はこれか、と腑に落ちる。
光栄な話だ、と思った。無理だ、とも思った。
PVなんて、撮ったことがないのはもちろん、どういう風に構成すればいいのかも分からない。新歓用の部員紹介だとか、単調なインタビューの撮影とか、PCゲームの録画だとか、そういうのとはわけが違う。
「そんな簡単にできるかよ」
慎重に言ったのはカナトだ。やっぱり、彼は躊躇いがちなスタンスだった。
「PVなんて撮ったことないのに」
「あれだろ、歌ってるところに、なんとなくいい感じの映像流すんだろ?」
頭の中に、カラオケで流れるような映像が浮かんできた。
あんな感じでいいのだろうか?
「滝田それは適当に考えすぎ」
「カラオケの映像みたいなので、いいんだろ?」
「いいわけねえだろ」
いいわけなかった。
「まあまあ。そんな難しく考えないでよ」
『乱視ゼロコンマ』が穏やかに言った。
そもそも、この人はこれでいいんだろうか? ぼくたちは、言ってしまえばずぶの素人である。そんな連中にPVを任せるだなんて、無謀としか思えない。
「『乱視ゼロコンマ』さんは良いんですか?」
カナトが訊ねた。
「良いっていうか、僕からお願いしたんだしね」
「でも、これまでのPVはずっとイラストアニメでしたよね?」
「そうだよ、よく知ってるね」
「まあオタクなんで」
自虐的にも誇らしげにも聞こえる響きで、カナトが言う。
「今回は実写にしたくてさ。VOCALOIDは使わないで、実際の声を入れるんだ」
「へえー。誰が歌んですか?」
「僕と、別にボーカルの子がいる」
へえー、とカナトが感心したように言った。
そういえばカナトは、熱心な初音ミクのオタクだった。性格には初音ミクではなくグミだ、と言っていたが、とにかくその辺が好きなのだという。
ボカロPの新曲の話は、大好物に違いない。
「ちゃんとキャストは用意しているし、構成も考えてある。カメラマンと編集は別で探してもいいんだけど、せっかくなら君らにお願いしようと思って」
何がせっかくなのだ。こんなの、要らぬプレッシャーだ。
「せっかくなんだぜ」
ケンジが続いた。お前はプレッシャーを感じろ。
「いったん考えさせてください」
「もう考えた」
「3人で考えさせてください」
いいよ、と『乱視ゼロコンマ』が言った。でもできるだけ早く決めてね、とも言った。
それから、ぼくらは静かに飲み物を啜った。カナトはストローでクランベリージュースを吸った。
穏やかな時間だった。リオとの約束までは、まだ30分くらいある。それまで暇だ。
PV問題について話し合うべきだが、とても頭が働かない。まさに寝耳に水の話だ。耳に水が入ったら、頭がやられるのは当然である。
「そういえば」
ケンジが口を開いた。
「先輩って歌上手いんすか?」
「まあ、そうだと思って曲を出すけどね」
ざっくばらんなケンジの質問に、『乱視ゼロコンマ』は苦笑しながら答える。
愚門だろうと思ったが、たしかに気になるところではあった。
「へえ。あれ、そういえばもう1人ボーカルいるって言いましたっけ」
「そうそう」
「誰なんすか?」
「YouTubeで歌ってみたとか出してる人」
「うちの大学っすか?」
何か思うより早く、心臓がドキリとした。
軽音部の連中だったらどうしよう。
「違うよ。全然関係ない人」
「なあんだ」
ぼくはホッと胸をなで下ろす。
「あ、じゃあキャストって言うのは?」
「それもうちの大学じゃないよ。芸能事務所に連絡して……」
芸能事務所!?
3人揃って大声を出して、それと同時に、扉が開いてリオがやって来た。
おそらく、初めてリオに文句を言いたくなった。
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