第10話
「本当にこの大学に?」
キョロキョロと辺りを見回しながら、声を潜めて訊ねる。
4号棟の屋外エントランスにて、サキノと並んでベンチに腰掛けていた。
4号館を訪れるのは初めてだった。講義でも使わないし、用のある施設もない。そのせいか、学生や教授が通っても初めて見る顔ばかりだ。
「たぶんね」
サキノは鼻歌まじりに答えた。
「たぶん、ねえ」
「それを確かめるための取材だからさ」
取材、と口の中で呟きながら思わず背後を確認する。茂みとその奥に2メートル程度の柵があって、誰かがいるような気配はない。茂みに隠れている様子もない。
安堵の息をつくが、不安が去るわけではない。
「いつまで張り込む?」
「うーん、見つかるまで」
「本当に?」
「ウソウソ。17時半になったら一旦撤収するよ」
サキノはにっかりと笑うが、その笑顔こそがぼくの不安の源だ。
スマホを開くと、16時40分。まだ1時間近くあるのか。
「有名ボカロPねえ」
「ボカロとか分かる人?」
「いや、有名どころしか知らない」
「そっかー。私もちょっと聞くってくらいだけどさ」
「でも、そいつは大物なんだろ?」
「らしいよ。結構有名な人」
「そんな有名人が、うちの大学にいるの?」
それを確かめるための……と、サキノはさっきと同じ文章を繰り返した。
うちの大学に有名なボカロPがいるらしい。
サキノが持ってきた特ダネとやらはそんな内容だった。
ネット上では『乱視ゼロコンマ』という名前で、楽曲は百万再生を超えているという。
百万回再生された楽曲があるのか、全部の楽曲の再生回数を合わせると百万回を超えるのか、そこまでは分からない。とにかく百万再生を超えているのだ。
ぼくにはピンとこない話だが、隠れた有名人の仮面を剥げればたしかに特ダネになりそうではある。
それはそれとして、サキノと2人で張り込み取材なんかごめんだった。
彼女のことが苦手なのもそうだが、万が一リオに見られたらと思うと恐ろしくてたまらない。
ケンジかカナトかに押し付けようと思っていたのだが、講義だの、バイトだの、と言って、来られなかったのだ。
適当に嘘をついてでも断ればよかったが、もはや後の祭りだ。
そもそもなぜ張り込みに同行しなければならないのか。新聞部の仕事であって、ぼくらの出る幕じゃないはずだ。
張り込み取材が決まったとき、そんな不満を、つらつらと抱いた。
ぼくの心情を汲み取ったのだろう。ミナガワ先輩は「もしものとき、君らがいてくれたらパッと動画撮れるだろ?」と言っていた。
それから追い打ちみたいに「張り込みって面白そうっすね」とケンジが言って、「たしかにカメラマンがいないとな」とカナトが言った。
というわけで、ぼくはカメラマンである。6万のカメラもしっかり持っている。
顔の分からないボカロPを、果たして動画に撮れるのだろうか。仮に撮れたとして、ボカロPの顔ってそんなに見たいものなのだろうか。有名ボカロPを追いかけるのも楽じゃない。
「そもそもさ、どこでそんな情報持ってくるわけ?」
「なにが?」
「うちの大学にボカロPがいるって」
「ああそれね。配信で言ってたこととか、そういうのをまとめたらさ。もしかしたらなーって」
「へー」
どうやら重度のオタクらしい。
というか、「配信で言ってたこと」とやらで、大学を突き止めているのが怖い。
「あ、ネットに載ってる情報とかでね。私が自分で直接調べたわけじゃないよ」
ぼくの「へー」が鋭利だったらしくて、サキノは慌てて釈明した。
そこまで刺々しかっただろうか。なんだか申し訳ない気持ちになった。
「ちゃんとそういう下調べとかしてるんだ」
「うーん、下調べってほどじゃないけどね」
「でもネットで調べたりしてるんだね」
「まあ本当にちょっとね」
「ちょっとでもやってるのはえらいよ」
「そうかな。ありがと」
当たり障りのない会話を続けながら、エントランスを張り込み続けた。
4号棟は、主には体育館やプールのある体育会系の施設だが、同時に大きい団体の部室や防音室も備えられている。だから軽音部はここで活動しているらしい。
「ボカロPならとりあえず軽音部が怪しいよね」というのはミナガワ先輩の提言だ。
「ひとまず軽音部を張って見て、なんかそれっぽい人を探してみよう」
それが先輩の言い分だった。
それっぽい人が具体的にどういう人なのかは分からないが、曰く「軽音部と繋がれたらそれでいいよ」とのこと。
逆に言うと、ぼくらは軽音部っぽい人がいたらひとまず話しかけなければならない。
「新聞部にいないの? 軽音部に友達いる人」
「いないんだって。一応友達の友達にいないか探してるらしいけどね」
「友達の友達、ねえ」
「友達の友達だよ」
そこで会話はストップした。
学生の一団が目の前を横切った。髪色を明るくしていたり、派手なピアスを付けていたり、原色の柄モノシャツを着ていたりした。楽器の類は持ってなくて、代わりにノースフェイスのエナメルバッグを提げていた。色やデザインは異なるが、全員ブランドは同じだった。
彼らのうちの数人が、ぼくらをチラリと見た。しかし一切の関心を示さずに、仲間たちとの談笑に戻った。
「軽音部かな」
「どうだろ。でも楽器持ってなさそうだったし。違うと思う」
「そっか」
ノースフェイスの一団が通り過ぎると、辺りは再び静かになった。
スマホを開くと、時刻は17時。まだまだ長い。
しばらくすると、ズシンズシンと重々しい音が断続的に鳴り響いた。
体育館で、何かスポーツをやっているのだろう。やはり彼らは軽音部じゃなかったのだ。
不意にスマホが鳴った。デフォルトの着信音だった。
握ったままだったので、手首を捻るだけで画面が見えた。何も映っていない。
「ぼくじゃない」
「じゃあ私か」
サキノがカバンからスマホを取り出して、「あ、私だ」と言ってから応答した。
「もしもしー?」
電話する音を聞き流して、ベンチからの景色を眺めた。
土の上に敷かれたコンクリートの道。傍らには4号棟があって、中背くらいのそれが日差しを隠している。背後には茂み。
地味な空間だ。やはり用もないのに訪れる場所ではない。
キャンパスは、1号棟から3号棟が中庭を囲む形になっていて、講義では使うのは1号棟と2号棟である。
3号棟には図書館があるので、課題が出たときにしか行かない。
ましてや、コの字からも中庭からも外れた、キャンパス陰キャの4号棟など。
とはいえ体育会系だったり軽音部だったり、4号棟の利用者に陰キャはいないみたいだが。
「いったん戻ろ」
通話を終えたサキノが言った。
「戻るの?」
「先輩の友達の友達に軽音部の人がいたって。そっから色々聞けるから、ひとまず張り込みはおしまい」
サキノはさっさとカバンを持って立ち上がっている。
肩透かしを食らったが、粘るつもりは毛頭ない。カメラをケースにしまってぼくも立ち上がる。
スマホがわずかに震えた。
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