第8話

 キャンパスは駅の南側にあって、直線に舗装された太いタイル道を、ぼくたち学生は毎日歩く。南口には他になにも無いので、その道は大学生しか使わない。

 キャンパスのためだけに作られた一本道は、ときどき「ワールドバザール」なんて茶化される。


 では、駅の北側には何があるかというと、卵が先か鶏が先か、書店やら喫茶店やら飲み屋が多い学生街になっている。

 線路を挟むのが少し面倒だが、バラエティーに富んだ街並みは、学生に愛されていた。教科書を買うのも、暇を潰すのも、バカなことやるのも、たいていは北口だ。


 ロータリー前の大きな十字路の一画に、オープンしたばかりの喫茶店がある。

 ぼくはパラソルの下のテラス席で、ベロが痺れるくらい苦いコーヒーを飲んでいた。道路に面したテラスには大きなのぼりが掲げられていて「こだわりドリップ抽出」とある。この苦みはこだわりらしい。

 そして、ホットコーヒーではなくドリップと呼びたがる。


 ぼくはブラックコーヒーが飲めない。しかし、こだわりのドリップを抽出しているのなら、ぜひ堪能してみたいと思う。

 ミルクと角砂糖も用意されているが、そんな幼いものは使わない。


 5分以上も湯気を吐き出し続けるドリップを睨んでいると、背後から「お待たせ」と声を掛けられた。

 振り向くよりも早く、両肩に手が置かれた。頭上を見ると、リオの笑顔が、こちらを覗き込んでいる。半袖のフード付きシャツに、耳にはシルバーのピアス。長い髪のインナーカラーに、ゴールドが入っている。


「お、来たね」


 肩の両手を握りながら、答える。

 リオは向かいに腰掛けて、ぼくのドリップをジッと見つめた。


「ブラック嫌いって言ってなかった?」

「飲まないよ」

「じゃあこれは?」

「こだわりって聞いたから」

「こんな暑いのに?」

「そうだよ」

「美味しい?」


 答える代わりに、ドリップを差し出す。

 リオは、怪訝そうに一口すすって、顔色ひとつ変えずに返した。


「どう?」

「私はカフェラテにしとく」


 ぼくは角砂糖とミルクを、たくさん投入した。


 リオのカフェラテが運ばれてきて、温かいマグカップを片手に他愛もない話をしていると、目の前の歩道を知った顔が通った。

 一瞬、誰だったか分からなかった。考え込む内に、ハッと浮かんだのは、新聞部のミナガワ先輩だ。


「リオくん、だっけ」


 目が合ったので、軽く会釈すると、ミナガワ先輩は笑いかけながら口を開いた。


「はい」


 釣られて、笑顔を浮かべる。傍らには、見知らぬ女の子を連れていた。彼女だろうか。


「その子は彼女?」


 今度は傍らのリオに、関心がいく。もう一度「はい」と答える。


「デート中かあ。邪魔しちゃいけないんだろうけど、ちょっと用があってさ」

「なんですか?」


 邪魔されたくないので、どっかに行ってほしい。しかし、何故かミナガワ先輩の朗らかな笑みには敵わない。リオがカフェラテを啜る音がする。

 ミナガワ先輩は、言葉を発する代わりに、連れている女の子を促す。


「えっと、社会学部のサキノです」


 どこか歯切れの悪い自己紹介をする彼女には、見覚えがあった。

 誰だったろうかと記憶を遡って、そうだ、新聞部の1年生の子だ、と思い出す。印象的なショートカットは健在だ。リオがマグカップを置く音がする。


「ああ、たしか前に会ったよね」

「うん、そうかも。そのー、リオくん、だよね?」


 一見フランクなサキノの言葉に、妙な引っ掛かりを覚えた。なぜそう感じるのだろうと考えて、不慣れな喋り方をしているのだ、と思い至る。

 やれやれ、大学デビューか。リオが角砂糖をつまみあげる気配がする。


「よかった。リオくんて動画サークル入ってるんでしょ?」


 精一杯に口角を上げたサキノが、唇を閉じずに訊ねる。

 無理をしていそうな喋り方に、イラ立ちすら募ってくる。


「そうだけど?」


 ぶっきらぼうに答えながら、ふと視線を落とす。

 サキノの片手が、もう片方の肘を掴んでいて、その手がワナワナと震えていた。何だか、同情が湧き上がってくる。


「もしかして入部希望とか?」

「そう! よくわかったねー」


 小首を傾げながら、サキノが言った。

 見え透いたあざとさが、鼻についた。さっきの同情が瞬く間に乾いていった。視界の隅でリオが角砂糖を舐めている。


「まあね」

「どうすればいいかな?」

「ひとまずLINE教えてよ。詳しい連絡はまた後でするからさ」


 出来るだけ簡潔に告げて、テキパキとアカウントを交換した。『富山咲乃』というのは、おそらく本名だろう。


「うん、ありがとう!」

「また後で連絡する。部長が滝田健司って奴なんだけど、そいつにLINE教えても平気?」

「あ、うん。大丈夫だよー」

「じゃあそいつからLINE来ると思う」


 そんな風に、事務的なやり取りに徹して、ようやく二人が去る……と思ったら、ミナガワ先輩が「もう一個だけ」と言いかけた。


 しかしすぐに、


「でもこれ以上デートの邪魔しちゃ悪いね。明日、新聞部来れる?」

「新聞部に?」

「そ。1号棟の13階でやってるんだけど、平気?」


 決して平気ではないが、とにかく会話を切り抜けたくて、首を縦に振った。


「いい話があるからさ。待ってるよ」


 もう一度、首を縦に振る。

 

 ようやく彼らが去って行き、大きく息を吐き出す。視線を戻すと、頬杖を突いたリオが、薄ら笑いを浮かべていた。


「あんな風にLINEゲットするんだ?」

「さっさとケンジに流すよ」

「私もバッサリ切ろっかなー」

「髪?」

「ねえ、ショートとロングどっちが好き?」

「ロング」


 正しい答えを言ったつもりだったが、リオは、残念そうに目を伏せた。


「そういうときはね」


 いったん言葉を区切って、口の中に指を突っ込む。溶けて小さくなった角砂糖が、出てくる。


「どっちも好きって言ってほしいの」


 リオは、唾液に濡れた角砂糖を、ぼくのコーヒーに入れた。しなやかな指が、淡いブラウンの液体に浸された。

 ぽたりぽたりとコーヒーを滴らせながら、彼女の指は、しばらく宙を彷徨っていた。やがてテーブルの上に、濁った丸を描いた。


「なるほどね」


 スプーンでたっぷりとかき混ぜてから、コーヒーを一口飲んだ。さっきよりも、ずっと、甘かった。

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