第7話

「これから、これから」


 こぢんまりとした店内の、こぢんまりとしたカウンター席で、ぼんやりと呟いた。

 厨房の奥の、壁に貼ってあるお品書きを眺めていた。本日のオススメは、アジの刺し身だ。


「これから?」


 隣からリオが、訊ねてきた。


「ケンジの口癖」


  答えると、彼女は仄かに笑った。


「ケンジって……ああ、部長やってる人だっけ」

「そうそう。思い付きでいろいろ言う奴でさ」

「そうなの?」

「動画サークル作るって言い出したのもアイツなんだけどさ。あいつもぼくらも動画撮った経験なんかなくて」

「えーすっごい大変だね」

「ホント大変だよ。ケンジはこれから頑張るとか言ってるけどさー」


 そんな風にダラダラ喋りながら、ぼくらは過ごした。

 もっと気の利いた話ができればいいのだが、必死に喋ろうとするよりも、自然な会話の方がいいと思った。

 というより、リオと喋っていると、ほだされるように、自然体になっていく。


 ケンジとカナトを引き連れて、下見に行った居酒屋である。

 前はテーブル席だったが、今回は2人なので、カウンター席を選んでいる。


 料理は既にそろっていて、サラダとか、枝豆とか、焼鳥とか、無難なものばかり。

 飲み物は、シャンディガフとグレープサワーだ。


「シャンディガフって?」

「ビールをジンジャーエールで割ったやつ」

「美味しい?」

「飲んでみる?」

「じゃあちょっとちょうだい」


 目論見通りの流れだ。


「ん、美味しいね」

「でしょ?」

「ビール苦手だけどこれなら飲める」

「飲みやすいよね。てかビール苦手なの?」

「うん飲めない。苦くない?」

「たしかに苦いけどね。ベロで味わっちゃダメなんだよ」

「そうなの?」

「らしいよ」

「じゃあリオくんはビール飲めるんだ」

「飲めるよ」

「すごいね」

「すごくはないよ」


 大学1年生で飲める人は、少ないのかもしれない。だったら、すごいかもしれない。


 ぼくらは他愛もない話をして、気付けば23時。驚くほど速かった。


「終電大丈夫?」

「あーそろそろかも」

「じゃあ出よっか」


 ほんのり回転する視界を押さえ付けながら、精一杯、力強く、立ち上がる。拳の中でレシートが、ぐしゃりと握り潰されている。


「いくら?」

「いいよ」

「え?」

「いいよ。せっかく来てくれたし」


 食い下がるリオを止めながら、きっかり6000円弱支払う。


「ごめんねーありがとう」

「別にいいよ」

「本当に大丈夫? けっこう高かったでしょ?」

「いやーダイジョブダイジョブ」

「ホントに?」

「じゃあその分次も付き合ってよ」

「いいよー」


 これも目論見通りの流れだ。


 ぼくらは駅までの道を並んで歩いた。

 夏前の、日が沈んだ街は、ねっとりとした空気に満ちている。もしも1人で歩いていたら、得体の知れない不快感に襲われていたかもしれない。


「明日何限から?」


 ぼくが訊ねた。


「3限から」

「午後からなんだ」

「そうだよー」

「いいなあ」

「何限から?」

「ぼくは2限」

「あー、でも1限じゃないだけいいじゃん」

「まあね」


 薄汚れた白いタイル道は、普段は憎らしいほど長いのに、いまは恐ろしく短かった。地下鉄の案内板が近付くにしたがって、惜しむような安堵が、じわじわと湧いてくる。

 横断歩道で、赤信号に救われた。ぼくらは立ち止まる。


「明日は授業被ってるかな?」


 訊ねたぼくの声は、車の往来にかき消されて、リオは、首を傾げるばかりだった。口の形が、「え?」と言っていた。

 聞こえるように、近くに寄って、


「明日授業被ってる?」


 もう一度、訊ねた。微かに甘い香りがした。レースカーディガンの袖口が、手の甲にサラサラと当たった。


「どうだろ」


 言いながら、リオはスマホを取り出す。トートバックを開こうと、身体を捻って、長い髪がサリサリと揺れる。インナーカラーが見え隠れした。ゴールドだった。茶色っぽい地毛と、ゴールドのコントラストが、ねっとりとした夜の街に映えた。


 スマホの画面を見せてきた。時間割が表示されていた。明日は3限から。

 ぼくと被っている講義はない。そこまで都合よくはいかない。


「被ってないかー」

「ああそうなんだ。リオくんはどんな感じ?」

「ちょっと待ってね」


 今度はぼくがスマホを取り出す番だった。

 尻ポケットに入れているので、身体を捻る必要はない。髪が揺れるようなこともない。この動作中にリオを魅了できるものがなくて、歯痒かった。


 時間割を表示して、リオに見せる。

 小さなスマホの画面を、2人で覗き込むので、自然と距離が近くなる。鼻で大きく息を吸う。


「ほんとだー被ってないね」

「でしょ」

「でも金曜日の二限と四限は一緒じゃん」

「お、マジ?」


 一緒に受けよっか―、と言うより先に、信号が切り替わった。車の往来は落ち着いていたが、ぼくらは距離をそのままにした。肩と肩がたびたびぶつかった。カーディガンの布越しにリオの体温を感じた。

 ぼくの体温もシャツ越しに、伝わっているだろうか。


「リオってさ」

「うん」

「彼氏とかいんの?」

「いないよー」

「そっか」


 よかった、と口の中で言った。


 地下鉄の案内板が目の前に来た。

 階段を下りて構内に入った。階段の後にエスカレーターがあった。改札までが、呆れるくらい遠い。


 エスカレーターで下りながら、


「いきなりなこと言っていい?」

「なに?」

「付き合ってみない?」

「私たち?」

「ダメかな?」

「いいんじゃない?」


 ぼくの今年はこれが全部だ。多分。

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