第2話 思い出に埃
私がまだ十のころ。
まだ今のような醜いしわが体に少なかった頃の話だ。私は当時、祖母の家に住んでいた。親元から離れ、田舎町に祖母と住んでいた私は今思い出しても可愛らしい子供ではなかった。
人の輪の中に入らず、淡々と石と対話しているような子供で、年の近い子供からは気味悪がられていた。それに加え、私が少しばかり部外者のような立場にいたのもあるのだろう。十の頃からいたから今のわたしにとってはあの土地は故郷のような存在で、両親と暮らしていた土地がどんなものだったかは一切覚えていないが、十歳の私にとっては新しい、慣れない土地であり心細かった。
そして人付き合いがあまり好きではない私は、居心地の悪いまま祖母との暮らしを始めたのだ。
「オルベーテってどこに住んでるんだ?」
同級生が初めて私に話しかけてきたとき、私はひどく緊張していたのを覚えている。緊張というより怯えと表した方が良いかもしれない。
「丘の上の……緑の壁の家」
「え、あそこ?」
同級生は驚いた声を上げると、隣にいたほかの生徒と静かに目配せをした。
私が住む家、すなわち祖母の家は「お化け屋敷」と呼ばれている事を知ったのは、もう少し後の出来事だ。もう顔も声も覚えていない同級生との会話は、このこと以外まともに記憶に残っていない。
お化け屋敷と呼ばれるほど、祖母の家が不気味なわけではなかった。外観は明るいとは言えないが、若くして亡くなった祖母の伴侶、すなわち私の祖父が愛でていた庭が美しいまま残っていたりしている。美しいと言っても、花が咲き乱れているわけではないが、瑞々しい緑が繰り返し命を巡らせていた。
祖母とのしばらくの暮らしを経て、お化け屋敷の由来は、祖母なのではないかと十歳の私は結論を出した。
祖母は近所づきあいなどをせずに一人で淡々と暮らしていた。あまり笑わず、無口な祖母は傍から見ると不気味な人だったのかもしれない。けれど祖母に似たのか分からないが、同じように無口に近かった私にとっては、祖母といるのは気が楽だった。会話を続けようと気を張っている必要もなく、顔色をうかがうことも少なかった。
「遠慮せずに言いなよ。ばあちゃんはあんたの言いたいことは察せないからさ」
祖母の口癖。だが祖母は私の意図をくみ取ることについては、実の親よりもうまかった。
静寂に包まれることが多かった祖母の家に、騒がしさが訪れたのは、私が祖母の元に来てから二か月が経過した時だ。
少しずつ冬が近づいてきていた日のことだった。
「お化け屋敷に住んでるってホントかい?」
「えっ」
青い瞳と遠慮のない口調に、私は思わず顔を上げた。休み時間、孤独に読書にいそしむ私に声をかけてくるのはその日まで誰もいなかった。
「あ、ごめん。驚かせるつもりはなかった。僕はベンジャミンだ。隣のクラスのしがない生徒」
彼は驚く私を放ってしゃべりだした。自由奔放な所はこのころから変わっていなかった。空気が読めているのかいないのか、周りを自分のペースに巻き込むのが妙にうまい少年だった。ベンジャミンとはこの時出会った。私はその頃、ベンジャミンのことを全く知らなかった。だが、ベンジャミンは私についての情報をいくつか持っていて、人伝いに聞いた事を交えながら私に質問を浴びせた。
彼は臆さずに喋る。行動する。それが彼の長所であると私は思っていたが、その部分を嫌う人間がいたことも言っておこう。
私は自由な彼が好ましくもあり、恐ろしくもあった。なぜベンジャミンは私に絡んでくるのだろうか。周りの目を気にしないのだろうか。みんなあんなにも射るような目つきをしているというのに。
良くも悪くも子供だった私たちは、混乱から生まれた絆を紡ぐこととなった。
祖母は私の初めての友人に戸惑いながらも、ベンジャミンの事を喜んでいた。一番戸惑っていたのは当人の私だったのだが。
「ねえ、ベンジャミン」
「なんだい?」
「一緒にいて楽しい?君みたいに面白い事も、面白い話も何もできないよ?」
「別にそんなもの求めてない。僕はオルベーテと話したかっただけ。それだけさ。特に理由はないんだ」
あっけらかんと答える彼に私は迷いながらも嬉しかったことを覚えている。
私が住んでいた家――――言い方を変えれば祖母の家―――に招待した時も彼は自分のペースを崩さずにしていた。色々な物に興味を示し、その都度私に質問を浴びせてきた。
私は彼の言動に振り回され困ったりもした。けれど楽しかった。ベンジャミンの持つ光にのまれそうになりながらも、私を嫌厭する同級生に対し冷静な目を向けられる年齢になれるほどの年月を彼と過ごした。
十二歳の冬。当時の故郷に珍しく大雪が降った。身の底を凍らせるほどの寒さに、震えていた私と違いベンジャミンは雪の来訪をとても喜んでいた。
「やっぱり冬はこうでなくてはな!」と喜び勇んで外を駆け回る。同い年なのに、なぜこうにも行動に差が出るのか、個性というのをまだうまく捉えていなかった当時の私は不思議でならなかった。
学校帰りの冷えた道を雑談しながら歩いていると、彼がある提案をした。
「君の家の近くに湖があるだろう?凍った姿を見に行かないか?」
「えー。寒いから遠慮したいんだけれど」
「そう言ってくれるなよ。僕の好奇心に付き合ってくれ」
ベンジャミンはぐずる私をうまく言い包めて、結局冬の湖を見に行くこととなってしまった。わざわざ外に赴き凍る湖を見て何か楽しいのだろうか、と思ってしまったがあえて口に出さないでおいた。はしゃぐベンジャミンの心を、私は手折るつもりはなかったからだ。
試しに道中で会ったクラスメイトを誘ってみたが、丁重に断られた。
一面の雪景色に染まった街並みを私たちは歩いた。雪特有の詰まった足音が耳に響き、聞いてるだけで寒くなってくる。垂れてくる鼻水を軽くすすりながら私はベンジャミンの背中を追った。
「オルベーテ、大丈夫かい?君がそんなに寒さに弱かっただなんて知らなかったよ」
「大丈夫………冷えが苦手なだけだから」
寒さに耐えながらも着いた湖は人気がなく、いつもよりひっそりとしていた。私の住む家は確かに近くにあるが徒歩で行くのには骨が折れるほどの距離がある。少々の住宅が建つ丘のふもとにあるこの湖は生活用水に使われるなどもなく、ただそこにあるだけだった。しかし、完全に放って置かれているわけでもなく地元の住民なんかが時折掃除をしているようだった。ゴミなんかが見当たらない、綺麗な湖だった。
底が見えるほどに透き通った湖は氷が張り、見ているだけで寒い。
「おお、やっぱり綺麗だな。この湖の氷は。思った通りだ!」
ベンジャミンは嬉しそうだった。周りを歩き、凍った水面を眺めている。
私は凍える己の体を抱きしめながらベンジャミンに声をかけた。
「見たならもう帰ろうよ。おばあちゃんが今日はクッキーを作ると言ってたよ」
「帰りたいならオルベーテだけ帰ってくれ。僕はもうしばらくここにいる」
短くそう言うとまたうっとりした表情で湖を眺める。
私は小さくため息をこぼすと踵を返し家に帰ることにした。ベンジャミンのことだ。しばらく経てば飽きて戻ってくるだろう。
もと来た道を戻っていると、背後で音が聞こえた。
ベンジャミンが来たのかと思って背後を振り返ると、誰もいなかった。自分が先ほど通った小道から湖の方を覗く。木々の隙間から見える岸辺には本当に誰もいなかったのだ。
「ベンジャミン………?」
寒気が、気候とは別の寒気が背中を駆け上がっていく。駆け上がる、のを、待たずに私は走り出した。足をとられもつれそうになりながらも私は湖に近づく。
「ベンジャミン!おい!どこだよ!?」
金切り声で叫ぶと水面に少年の姿が見えた。
「オル、………ごぼっ、がはっ」浮き沈み、冷えた湖に流されて。
………助けなきゃ。ベンジャミンをこのままにして置いてはいけない。
このままでは
死。
「くそっ」
私は毒づくとゆっくりと自分の腕を体に巻き付け、自分を抱きしめるような構図になった。そして背中に力を込めて、湧き上がる焦りを抑え込む。
落ち着け。冷静になれ。
大丈夫、大丈夫、ほんとうに大丈夫だから。
背中が盛り上がるのを感じる。服があるため圧迫感を感じるが、それすらもすぐにビリっと音を立てて消える。
冷たい湖が広がる眼前に黒い羽が落ちた。カラスにも負けない黒い羽根。
私は岸辺に足をかけると地面を蹴り、体を宙に投げ出した。
死ぬな。やめてくれ。
「ベンジャミン!」
頬に当たる冷風に耐えながら、湖面に触れられる位の高さを飛ぶ。ベンジャミンの姿をみとめると私は体の半分を水に沈めて彼の身体を腕で包んだ。
冷たい………みえにくい。けれど離したら。おわる。
「ぶはっ」重たいベンジャミンの体を抱えて、私は飛び上がった。腕の力だけでベンジャミンを引き込むと空中で体制を整えた。
「速く、飛べ」口の中が一瞬で冷える。水分が消える。
鉛色に染まった空を、人気がない街の上空を飛ぶ。ベンジャミンの体は氷なんかよりも冷たく恐ろしかった。
二、三回羽ばたきスピードを上げる。冷風が耳元で恐ろしいうなり声をあげて通り過ぎていく。ジャケットが風をはらみ暴れだす。私はベンジャミンを抱く腕に力を込めると丘の上にそびえる自分の家に突っ込んだ。
目の前に窓ガラスが迫ったかと思うと体に衝撃が走り、上下が逆転し風のみしか聞こえなかった耳に、いたいガラスの音が聞こえた。
「う、ぐっ」
自分の声とは思えない声が漏れ出る。猛獣のような唸り声。
舞い上がる粉塵の中にベンジャミンの背中が見えた。衝撃で彼の体を放してしまったらしい。私は痛みと冷えで震える腕を伸ばして彼の服を掴む。
「ベンジャミン………大丈夫………?」
グルグルと歯の隙間から鳴き声が漏れ出る。もはや自分の声が出しにくくなっている。のどの構造がどうなっているかは当時も今もよくわかっていない。
冷える体に鞭打って起き上がろうとすると、足音が聞こえてきた。バタバタとあわただしく登ってくるのは恐らく音を聞きつけてやってきた祖母だろう。ぼんやりとそう思ってから意識がおぼろげになった。
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