幼鳥

日永田 朝

第1話嘴 くちばし。

 ひどい寒空がこちらを見下ろしていた。

 町に降り立った寒波は、あっという間に寒さを持ってきて、街並みを冬に染め上げてしまった。私の老体を冷えがむしばみ骨をも寒くさせる。

 その寒さから逃避するように、ぬくもった家の中で、私はかつて存在していた少年だったころの自分を集めていた。黄ばんだ写真が手の中に納まっており寂しげにいた。家の中で行える暇つぶしを探していたところ、始めたのは写真の整理だった。

 独り立ちする前に住んでいた祖母の家からは自分のものはできるだけ持ってきていたが、ここまで古い物が残っていたのかと、過去の自分へ驚きを隠せない。写真の中の少年のころの私は、そんなまめな性格だっただろうか。ああ、よく覚えていない。

 冷えた風が古びた窓を叩いて、騒がしさを与えてくる。外を見ると、冬特有の寂しげで洗われた風景が広がっていた。

 幾年前の故郷と変わらぬ空がそこにある。写真の中の少年を見ると、時間の無常さが嫌というほどわかるが、自然は変わらず循環している。年を取って艶の消えた頬。骨ばった手。鏡を最後に覗いたのはいつだっただろか。自分の歳もあやふやになってきた今日この頃。私は写真にいるあどけない自分がどこか遠い存在に思えてきた。

 四十年ほど前のやわらかな自分。写真の黄ばみなんかよりも、ずっと分かりづらい状態の幼き日の記憶は、まだ危なげに脳内に残っていた。

 私は温まった書斎から、一歩抜け出すと冷えてしまったコーヒーを淹れなおしにキッチンへ向かった。廊下に敷かれた絨毯の感触をぶ厚い靴下越しに楽しんでいると、一本の電話が鳴り響く。

「誰だ?電話をかけてくる人など………いただろうか」

 首をかしげながら廊下の端に置かれる電話を手に取り、耳に当てる。

「オルベーテ・サレダンです。誰かな?」

「オルベーテ?………本当に?」

「ええ、まあ」

「僕だよ!覚えていない?いや、覚えていなくても大丈夫さ。十数年くらい会ってなかったんだ。覚えてなくても僕は責めないさ」

 軽快な言葉が受話器から流れ出てくる。誰だろうか、と記憶を張り巡らせていると答え合わせがあちらから告げられる。

「ベンジャミンだ。文通が途絶えてからだから………何年ぶりだ?連絡を取るのは」

 受話器から出てきた名前に、私は思わず声を漏らした。

 音を立てて錆びついた記憶の歯車が回りだす。

 幼き頃、毎日遊び、別れた後も数年にわたり文字のみでつながっていた。もう過去の出来事となっていた彼のことが、頭にたまっていた記憶の棚から引き出される。動かないと思っていた引き出しが重く動き出してしまった。

 後ろ向きな考えしかせず、地団駄を踏んでいた私の手を引いていたのは、紛れもない彼であった。まさか、ベンジャミンが私を覚えていただなんて。いや、私は今の今まで彼のことを忘れていたじゃないか。人の記憶なんてそんなものだよ。分かっていただろう、私よ。

「久しいね、ベンジャミン。まさか、その、君が連絡をくれるなんて、面食らったよ。ほんとうに」

「だろう?僕も意外さ。お互い死んでいてもおかしくない年だし、もしかしたらお前は土に還っているんじゃないかって思っていたんだ。けれど安心した。こうして会話ができてるじゃあないか。運命に感謝だな」

「そうだね。感謝しなければ」

 私はここで一度言葉を切った。脳内にはベンジャミンが昔、披露してくれたピアノの音色が響いていた。即興のでたらめなメロディーに私が歌詞をつけて勝手に歌う。二人だけの懐かしい遊びだった。感動とはいいがたい感情で息が詰まる。

 私とベンジャミンはいわゆる地元の友人だ。独り立ちして、お互いが生まれ育った土地から離れるまで一緒に日常を繰り返していた。その友情のきっかけはある事件であった。

「ベンジャミン」

「なんだ?」

「あの約束はまだ破っていない?」

「………もちろんだとも。オルベーテとの約束さ。破る意味だなんて存在していない」

彼は変わらずに約束を守ってくれていた。

 お互いの見た目の記憶は別かれた時で止まっていると思う。私の方も引き出して出てきたベンジャミンの記憶は別れた日の十八歳の彼の姿が一番真新しい。けれどこの記憶も、幼い私が残るあの写真のように黄ばんでるのかと思うと、切なさがかさを増した。

「案外記憶って強いものだな。僕は昨日の夕飯をまともに覚えていないというのに、オルベーテとの日々は色あせていない。面白いね」

「それは、嬉しいね。私も記憶がよみがえっているよ。今まで眠っていたのが信じられないくらい鮮やかなままだよ」

 私は受話器を握る手に力をこめた。

「ベンジャミン」

「ん?」

「君から見える空は、どんな風になっている?」

「ああ………」

 しばらくの空白の後

「曇天だ。寒さに拍車がかかる」

 そんな返事が返ってきた。私は瞳を細くすると「そうか」と返事をした。

「僕にとってもこの空は……何とも言えん」

「故郷は晴れが少なかったからね」

 楽しかっただけで済まなかった過去がある。

 幼い私があの曇天のように、今にも泣きだしそうになっていたのを思い出す。

「………………お茶でもしようか」

「電話越しにか?」

「ああ、私も過去に戻りたくなる時がある」

「ふふ。いいな。その案乗ろうか」

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