車軸、或いは黒雲の先触れ。
◇
だって、不思議に思うだろう。一体誰がそう決めたのだ?
血に濡れた両手を、その血を流してくれた他者を、血を啜って来たこの
どうしてそうも忌憚し、迫害するのだ。
斯くあるべきと定めたモノは『何』だ。正常や最高位を規定したモノは『何』だ。人が無意識に求め欲する正しさとは、『何』だ。
ある者は言った。即ち『神』であると。
その言を文字通り斬って捨てた。まことしやかに囁かれる神が遍く全て正しさを司るというのなら、それは己の様な外道を作る事を前提としている。対極の悪無くして、正しさが認められる事は無い。随分と粗末な仕事ぶりではないか。
もし神とやらが言われる様に高尚な存在であるなら、きっとその様な不完全なものより完璧で無欠な正しさを作ってくれた事だろう。
生憎そんな物にお目に掛かった事は無い、ならきっとこの世にそんな物は無いのだ。血狂いたる己が瞬く間に平伏するべき筈のものがその正しさなのだから。
故に神など居ない。
なら、と最初の問いに立ち返る。
この行為の是非を問うた愚か者は、誰だ?
◆
帰還してからは村を挙げての大宴会と相なった。アルバロがいつの間にやら狩っていた猪を肴に飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎである。
そんな喧騒も月下の影が湛える静謐が拭い去る、そんな夜半も暮れの頃。焚火の前。
杯になみなみと注がれた酒に望月を移し、ニヤリと口の端を歪めた。
「『月見酒の妙たるは、コイツを独り占め出来る気がするから』……ってのは誰の言葉だっけかねぇ」
「『無銘旅行記』の一節だな。お前みたいな情趣もへったくれも無さそうな人間が知っているとは」
「おいおい、これでも文字は読めるんだぜ?」
「そこをスタートにしてる時点で論外だ」
手厳しいねぇ、とボヤきながら杯を呷る。辛口の酒精が咽喉を通り、腹に届いてから熱を持った。するとアルバロが横合いから瓶を傾けて来たのでそれに杯を差し出す。こうして溢さぬ所を見ると、本当に目が見えてないとは思えない。
「……まぁ兎も角だ。今回の件、感謝する。これで魔獣も落ち着くだろう」
「なぁに、俺も楽しんでたからな。互いに得があったって事さ」
「そうか」
かちり、と陶器を合わせて同時に中身を流し込む。二人して酒臭い息を吐いた。
酔いの回りを自覚しつつ、気になっていた事を口にする。鎧との戦いの前、聞きそびれた事だ。
「あぁ、そうだ。結局ルシアの話が途中だったな、続きを話せるか?」
「ん? ……あぁ、そうだった」
丸太を削り込んだ長椅子に杯を置いて、アルバロが眼を細めた。盲目である彼にとってその行為に今や実質的な意味は無いが、何かを——彼の場合魔力を——注視する時には、無意識にしてしまうらしい。
「『魔女の落とし子』……儂も最初はそう思ったとも。条件は全て揃っている」
「あぁ。聞く限りだとそれが当たりだと思うが、妙な所があるって?」
『魔女の落とし子』。
前触れもなく集落の近くに捨てられる子供がいる。何処から来たのか、誰の手より零れ落ちたのか。年恰好も異なる彼等彼女等は、兎も角そういう形で現れる。
共通する点は一点、魔術に対する適性——天凛と言って差し支えないモノをその身に宿しているという事のみ。
中には人の身一つで天変地異に近しい現象を起こすというのだから、落とし子らを味方に付けるのは集落にとっては立派な生存戦略と成り得るのだ。リシュー村も、その例に漏れず。
「あぁ……お前、魔力の適性についての知識は?」
「人によって属性ごとに起こしやすい術式があるって話だろ? それくらいは知ってるさ」
「彼女には、ソレが無い」
「……つまり?」
「魔力は潤沢にある、しかしそれを属性として運用する事が出来ない。例え火を不得手とする者でも火の粉程度は出せる筈なのにだ」
パチリ、と弾ける薪の音を耳にしながら杯を傾ける。暫時焚火に視線を遣りながら思案した。
思い出されるのは、小鬼共との悶着。
あの時ルシアは魔力を行使しようという姿勢を見せる事は無かった。魔術式を立ち上げ魔力に指向性を持たせる訳でもなければ、属性に転換させて対抗しようという風にも見えなかった。
そう、違和感を覚えたのもその時だ。リシュー村の魔獣襲撃頻度は知っている、何の対抗手段も持たぬまま外に出る事を許す程、この村長は人の命を数で見ていない。そうしなくてはならない程状況が逼迫していたからこそ、あの少女の状況に何ら打開策を持たせる事の出来ぬまま薬草採取に駆り出したのだ。
その少女が世に言う落とし子であるとは、成る程確かに思えはしない。
既にこの翁の中で、ルシアは庇護すべき対象であると同時に、抵抗の術を教え込まなくてはならない力無き者なのだ。
「いざと言う時に助けを求められる様に『遠鳴り』の術も教えたが、遂にものには出来なかった。出来たのは簡単な、属性の絡まない補助術式くらいなものだ」
「……ふむ」
「そこで、だ。もう一つばかり頼んでいいか」
魔眼ありきに培われた技術故に、彼の弓術は誰もが気軽に習得出来る物ではない。そも武術という物は一朝一夕で会得出来る物では到底無い。
如何な才覚を持つとも、時間は掛かる。先の短い老い耄れにはちと荷が重い。そんなところか。
「俺の得意分野でも構わねぇなら、な」
「構わん——彼女を一端の剣者にしてくれ」
◆
寝床である荒屋に着く頃には酒精は散っていた。どうもこの体は酔いという物を感じ難いどころか抜けるのも早いらしい。一度前後不覚になるまで飲んでみたい気もするが、見えている罠を踏みに行く気には中々なれない物である、などと考えながら扉の前に立つ。
剣術を教える、と一口に言っても中々想像はつかない。何せ己もご丁寧に教授された訳ではないのだ。『やってみせ、真似出来ぬなら、仕方無し』と矢鱈口触りの良い文言は、あの老爺がまともに技術を教える気が無かった事の証明である。見て盗むだけでよく形になったものだ、と自分を褒めてやりたい所だ。
はてさて、どうすべきかと益体のない思考を回しながらノックを三回、前回の様な失態は犯さぬ様に。
「……返答無し、か」
ならばもう寝てしまったのだろう。既に夜更けも良いところだ、自身も鉛の様な眠気が身体を支配している。何だかんだ疲労は蓄積されているらしい。
欠伸一つ上げて、引き戸を開ける。
「————」
灯りの消えた室内、闇に溶ける空間——その中から滲み出る針の様に細い殺意。
それが錯覚でない事は、半歩を退いて避けた黒塗りのナイフの鋒が証明した。
「ッ」
「シッ」
即座、抜打。
暗闇と殆ど同化した人の形を逆袈裟に胴から肩までを斬り割った。
静刀。斬撃に要する最小限の力、その上で最大限の斬撃破壊力を実現する。呼気さえも溶け消えるかの如き静謐の響き。
故に、屍が床に崩れ落ちるまでの瞬。荒屋の中に認められる気配が少女一人分の物でない事を理解する。
薄い。人という形に『寂寞』という言葉を詰めたかの如く、その気配は虚であった。空間に穴が空いたかの様に感覚出来た為、察知は寧ろ容易ではあるが。
この類の隠形には覚えがある。周囲の環境に己の気配を合わせるのでなく、漂う魔素を自分に合わせ気配を隠す。
それは魔術師の手法であった。魔に疎い己だからこそ、その違和は際立って見えた。
虚の一つが抱え込む存在——それこそは、正しく彼女の魔力である。
「ルシアッ!」
反射的に叫ぶが、返答に少女の声は上がらない。代わりと言わんばかりに飛来するのは先と同じ墨色の武器。
三方から。脳天、咽喉、心臓をそれぞれ射抜く軌道。
障害にはならない。斬り上げる形で放った抜打、上段に移行するのは容易い。
瞬発。振り下ろす刀刃の威により、小刀の勢は削がれ、或いは叩き落とされる。
敵の総数も理解した。
建物内は月明かりさえ射し込まぬ闇の世界、即ち奴等の狩場。無策で入れば碌なことにならないのは確かだ。勝手知ったる荒屋が、今や城塞の如き堅固を誇っていた。
戸口より退避、攻めあぐねる。出来る事なら目的を吐かせる為に一人くらい生捕りにしたい所だが、果たしてそれを許してくれるだろうか——という思考の刹那。
「ほう、其方から来るってのかい」
家より現れ出でるは黒装束の人影が三つ。
蒸気の様に立ち昇る魔力の波動。隠形は解かれ、三人の気配が如実に感じ取れる様になった。
ルシアが捕縛対象というのは理解出来る。今さっき彼女の特異体質に関しては聞き及んだ、それを利用しようと考える者は心当たりがある。
しかし奴さんらは此方にも用があるらしい、考えられる理由はそう多くないが。
何せ己が持つ常ならぬ物は、この怪態な脇差のみである故に。
「その小刀を渡して貰おうか。さもなくば女の命はない」
「ほほう……なら、何故ルシアの気配が今唐突に消えた? 連れ去るくらいなら俺の眼の前に突き出して頸掻っ切るポーズでもして、交渉材料にでもすれば良かったろうに」
サカキの感覚は、ルシアとそれを抱える虚の気配が既に消え失せている事を見逃さなかった。
何時ぞやにイクスから聞かされた事がある。座標間零距離移動術式——ノウスルーツで研究されていたソレは、遠く離れた場所への瞬時の転移を可能とする術式だ。
それこそ、国の魔術開発部門が着手しているとか言う代物だった筈。それを利用しているとなれば、此奴らの素性に察しは付く。
「……最後通告だ。その小刀を寄越せ」
魔力励起。三人は各々術式を立ち上げる。
目的はハッキリした。そして彼等は既に大目標を達成している。己のコレはついでだろう。
あの少女に如何なる利用価値を見出しているかは分からないが、更なる戦果を呉れてやる事もあるまい。
「なんだ、こいつが欲しいのか」
「そうだ、渡さぬというのなら——」
「そらよ」
逆手に引き抜いた脇差をそのまま放って投げる。無作為に、唐突に。
黒尽くめの一人が、不意を突かれたのもあってそれを慌てて掴んだ。素直に渡してくるなどとは夢にも思っていなかったのだろう。
無論、素直に渡している訳ではない。
——足らぬ。
この刀には、元々封が為されていた。備えていた能を恐れてか、暴発を防いでいたのか。幾何学模様の赤布、それが封印として茎に巻かれていた。
——満ちぬ。
この布に気付き、封を解いた時はひどい目にあった。自身という存在が漂白され、何者かの意識に制圧される様なあの感覚は、何度も経験したい事ではない。
——在らぬ。
しかしある時、その現象を抑え込む事が可能となった。精神の超越が成したのか、それとも如何な要因があったか定かではないが、今では使う時に鬱陶しいくらいで済んでいる。
————寄越せ。
ただ、対策なしでアレに触れるなら、覚悟した方が良いだろうと、心中で黒尽くめに声援を送った。
◇
「何が起きている……この魔力は……?」
家の扉を開けて寝床につこうという時に唐突に現れた違和に、アルバロは眉を顰めながら再び通りに出た。
サカキとルシアが枕を置く荒屋から急に現れた魔力反応。それも洗練された術式に、恐ろしい程に
此処まで技術のある術士が何故この村に、いやそれ以前に術士の所属は——。
「……サカキ?」
通りの、荒屋側。そこから一つの気配が此方に向かって来ている。
その気配はサカキのものだ、しかし決定的に違う所が一点。
「おう、爺さん」
——血。
紅だった。それはまさに、赤い人間だった。いや、アルバロにはそれが果たして人間なのかどうかさえも判別しかねた。
匂いは鉄錆、吐き気を催す程に。
空気は死滅、本能が汗を垂らす。
「ちと用事が出来た。すまんが向こうに死体がある、処理を頼めるか?」
「……何を、するつもりだ」
ソレは口許で三日月を作った。
少なくともアルバロには、そういう風に視えた。
「古巣からの御招待だ——俺の帰還祝いに、色んな奴の斬り心地を用意してくれる」
声音は歓喜、童の様に。
両の手に携えた双刀は、唯只管に死を纏っていた。
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