希求、或いは巡る災厄。
◇
何時ぞやの話だったか、などと勿体ぶって『昔々』の文言を使うまでも無い程度の以前。要は、ノウスルーツに居た頃の話である。
『魔術魔力を使う相手を人の身一つで打倒する事は叶うか』。手慰み、否口慰みの、勇者らの集う酒の席でツマミが来るまでの暇を解消せんと肴として唐突に挙げられた議題である。
無論、魔力の有無が彼我の間に生じさせる実力差は諸人が思う以上に大きい。それはただ魔力が魔術を運用出来るから、身体能力を強化出来るから、というだけで語れる物ではない、と『紡』の勇者は言う。
世に満ちる魔力素因——マナと、人に宿る魔力素因——オドを効率良く使う事は魔術使いには必須のスキル。しかしそれは、ただ魔力の枯渇を防ぐだけが目的ではない。
新たな『眼』の獲得。肉眼では見えず、肉体では捉えられない世界要素を視る視点。魔力の視覚化、限定的な物質化を可能とする『魔眼』の覚醒。
己の裡にそれを宿す事の出来た者は、例外なく優秀な戦闘者として大成する。術として扱うのみならず、法理として世を支配するものとしても扱える。新たな領域に至る為の切符、それこそが魔力である。
更に言えば、解釈の分かれる魔力形態論争に於いて、火水風土の四大元素と火木水土金の五行思想等があるが、しかしその中でそも属性が『無い』——魔力を持たない事について、論者らが触れる事は極端に少ない。
それは言外に語られる、魔力を持つ者が持たざる者に打倒される事など有り得ない、というこの国に根深く存在する魔法信仰の発露。同じ壇上に立つからこそ属性の有利不利が語れるのであって、どれも持たぬなら等しく蹂躙されるのみである、という前提。
この二つを理由として、『それは有り得ない、あっても可能性は著しく低い』と『紡』の勇者は一度言葉を切り、じとりという視線を己に向けた。
何を隠そう、この身は魔力を溜める事はおろか纏う事さえ出来ぬ体質ながら風界の眷属たる緑龍を単身屠った経験がある。この国の魔術師にとってはこれまで不文律であった共通認識に唾を吐き捨てた上粗相を働いたレベルの所業であろう。
『何故そんな事が出来たのか』と問われるも、『己が全能を行使した』と言う他ない。許された全ての手札、それを一切の油断なく晒した上で立ち向かった。そこからは、単純に総合的な実力と時の運でしか語れぬだろう。そう嘯くと居合わせた者ら全てが何とも言えぬ渋面を作り込んだので呵々と笑った。
——少々、欺瞞の糸を編み込んだ。
彼等の前で解く機会は、もう二度と巡りはしないだろうが。
◆
ルシアと共に森の奥へ十五分程度歩を進めると、件の村に辿り着いた。
リシュー村は、木々の乱立する森の中でぽっかりと林冠に穴の空いた場所に作られた村である。丸太で壁や門を作り、それが居住地を囲む。縦長の四角形に作られ、四隅と各辺の中央に櫓が設けられており、建築素材を石から木に変えた小規模な砦と言う様な外観である。
門番からルシアを助けた事を感謝されながら中に入ると、村を貫く一本道に沿って腰掛ける怪我人が何人か見えた。
「魔物の襲撃頻度が増えて来た?」
「はい、これまでよりも明らかに様子がおかしい魔物達が村を襲う様になったんです」
「様子がおかしいってのは、具体的には?」
「……何かを恐れている様な、何かから逃げている様な、という風に見えました」
サカキは取り敢えずルシアの話を聞く事から始める。事に当たる前に内容の仔細は確認しておきたかった。『敵を知り己を知れば百戦危うからず』という事である、のだが。
「魔獣化した狼や熊、偶にゴブリンなんかが来て……この有様に」
「それでお前さんは治療に必要な薬草を集めていて、小鬼共に襲われていたと」
「……そうです」
相棒を喪うという授業料は余程に堪えた様で。改めて眺めると存外に目鼻立ちの整っているその面貌は、未だ翳ったままである。
さておき、話を整理する。魔獣化——マナを取り込む機能を得た獣らが何かに怯える様にしてこの村に衝突した、させられたと言うべきか。
「おつむの弱い魔獣が尻尾を巻くってのが、ちと分からんな。普通アイツらにそんな知能は無いんだが」
引っ掛かるのは、『魔獣が逃げて来た』という点。魔獣化した獣には、本来持ち合わせていた筈の本能——取り分け死に対する過敏なまでの危機意識が鈍くなるという特徴がある。魔力という武器を得た事による優越感、全能感を獣が味わうというのは、野生で培われた感性に取り返しのつかない傷を付けるのと同義なのだ。
人と同じである。富や栄誉、名声の上に家を作った者が暖炉の火の前で安楽椅子を揺らせながら眠りこけていると、本来持っていた筈の鋭さが鈍っていく。かつての鋭利は見る影もなく丸みを帯び、嘗てと同じ栄光は二度と掴めない。
そんな状態にある筈の魔獣が、あろう事か恐怖に怯えて逃げて来たというのだ。それまでの、愚鈍と惰弱を助ける為の原初的な本能を否応なく呼び起こされる程の脅威に追い立てられて。
「魔獣どもが来た方に誰か行ったか?」
「村長が、一度」
「全く老体だろうに……それで、何か言ってたか?」
「『
聞いて、眉根を上げる。
鎧、鎧と来たか。
「……まぁ、やる事は変わらんな。此処まで付き合わせて悪かったな、もう行っていいぞ」
「いいえ……えと、あの、その……お気を付けて」
遠慮がちに掛けられた言葉に片手を挙げて応える。
恐らくはその心配を己は真っ向無碍にするであろうな、と思いながらも。
◆
この村の長は魔眼覚醒者である。雷槌の煌めきを浴びた折に魔を視る眼に開眼し、同時に視力を喪った。それ故か彼の魔眼には固有の能が備わる事になる。
『色彩の深眼』。属性を色として認識し、対象の魔力の流れから形を視覚化し、本来一目では見通す事の難しい術式構成さえも抽象的なイメージに落とし込んで把握する。
魔術師が相手取るのにこれ程厄介な相手もいない。魔術で先手を取る利がこの眼の前では殆ど消え去るのだ。特に中身が割れると効力を返される危険のある呪詛を利するものなら尚更。
対魔術の練達、それが彼である。
故にそも魔力を持たぬ己が警戒されたのは、当然の事であると言えよう。
「よぉう、爺さん。久方振りだな」
「……その声に足音、サカキか」
「なんだぁ耄碌して忘れられたかと思ってたぜ」
「バカ言え、お前の気配をそう簡単に忘れられるか」
件の人物は、窓辺から差し込む月明かりに照らされ浮き出る様にして其処に居た。
他の村人と比べれば幾分か状態の良い鹿の毛皮の上下に、弓を肩に掛けるが矢筒は背負わない。眉間に深く刻まれた皺、銀灰色の短髪、此方に向けられる瞳は白一色。黒目に当たる箇所は微かに縁取られるが、これからの僅かな生涯の内には、もうその内に何物も写す事はない。
リシュー村の長、アルバロ。
己がまだ勇者であった頃に背中を預けて戦った事もある、老獪な弓使いである。
「……ハッ、そういう事か」
「何一人合点してんだ?」
「巣を追い出された、取り敢えずの宿に此処を頼った。違うか?」
「……違わねぇよ。ったく、アンタみたいな歳の食い方をしてみたいモンだな」
「色が濃くなっていれば、大方の予想はつくさ」
アルバロは鼻を鳴らしながらその虚な双眸をサカキに向けた。光の無い瞳に己の姿が映る筈もないが、それでも威を飛ばすのにそれ以上の行動はない。
「話は聞いてるぜ。鎧武者が大暴れしてるって?」
「そうだ。丁度火力が足りるか不安だった、明日の朝に男衆を呼んで作戦を——」
「俺一人にやらせてくれ」
「……言うと思ったわ、この狂いめ」
呆れを多分に含んだ吐息を洩らす。予測通りに事が進むのは基本的に良い事である。面倒を運ぶという予測で無ければ、という前提が付くが。
己の様などうしようもない血狂いが相手なら、予測は容易かろう。ただ確実に一筋縄ではいかない面倒事がセットである。
「……五分やる。それでも仕留め切れないなら、お前の剣が鈍ったと笑ってやろう」
「上等上等。俺の部屋はあるか?」
「残してある。そらもう行け、どうせ明日には決行するんだろう」
「応とも」
流れ作業の如き会話、旧交を温めようという意を欠片も感じないやり取りは、しかし浅からぬ縁と薄からぬ信頼あっての事。
彼は大義名分を与え、己はその一にのみ専心する。
そういう契約履行の構図が、存外にこの血狂いを活かす数少ない方途であり、この男はそれを心得ていた。
◆
村外れの、門に程近い寂れた菴。其処がサカキがこの村を拠点とする時に寝床とする場所であった。
見るに古びた佇まいなれど、住めば都の字の如く。これくらいの物が己には丁度良い。勇者であった頃にそれなりに絢爛な住まいを充てがわれていたが、どうも落ち着かずに付近の格安宿屋を取るなどしていたな、という非効率極まりない行いを思い起こすなどしながら引き戸を開ける。
全裸の少女がいた。
「——」
「……ふぇっ?」
思考が飛ぶのも束の間、少女が上げた素っ頓狂な悲鳴——悲鳴? まぁなんでも良い。それによって少々早く脳の働きが再開した。
顔を見遣れば、その少女というのは先に世話になったルシアであった。成る程、そういえば最後に此処に来た時には彼女の顔は見た事がなかった。己と同じく外から来たか、もしくは拾われたのか。そしてこれまた己の様に逸れ者の気質甚だしく、外れのこの菴を寝床にしたと。
しかしこうして見ると、随分と肌の白い女子だと感心する。初雪の如くシミ一つない全身に、墨染めの如き黒髪は——微かに水分を含んでいる今なら殊更に——相性が良い。ノウスルーツにも役職関わらず美人は居たが、これ程までに各パーツの造形や色調に均整の取れた美姫は、ぱ、と思い出せる中でも二、三居るかどうかという所である。
少女らしいあどけなさに薄幸の美人が纏う儚さ、十代と三十代の女が持つ良い所を一人に纏め上げるとこんな姿形を取るだろうか。膨らみ掛けの乳房は見る者に少女の健やかなる成長を想わせ、その大人びた顔貌が人妻めいた艶やかなる色香を鼻腔に錯覚させる。
成る程、この様な少女が平穏無事に育つと、後に『傾国』と呼ばれる女に成るのだろう。
さて。現実逃避はこれくらいに。
マントを脱ぎ払い、大小の刀を腰から抜き取り、上の合わせを裸させ、神妙な顔で正座を組む。
手に取るは脇差。鞘から抜き、刀身の中腹を把持し鋒を腹へ。正中線より僅かに左。
「女性の生まれしままの姿を、将来を契った者ですらないこの瞳に映した罪、我が腹を斬る事で咎と為さん」
「え、あっ、ちょっとま——」
「足らぬと申すなら是非もなく、腹を割った後に腑を抉り掻こう。勿論その上で己が骸を弄ばんとするのも良し、そも自らの手で死を呉れてやらんというのならそれも良し。この身を如何様にも——」
「はっ、話を聞いてください!?」
無論、冗談であるのだが。
生憎己は事故で女の全裸を見た事を理由に自死を選択する程潔癖ではない。第一、そんな人間であるなら脳内で大真面目な顔をして女体に対する評を下す事はないだろう。逃避の意が幾分か混じっている事は間違いないが。
互いに着衣を整え、広くもない菴の中で向かい合う。ほんのりとルシアの頬が赤くなっている事には、努めて気付かないフリで通す事にする。
「サカキさんが此処を使ってたんですか?」
「まぁな。詫び住まいとは言え、モノを揃えていけばなんとでもなる」
「妙に物が多かったのはそういう事でしたか……」
布団一式に茶器やら猪口やらの生活品から用途不明の丸筒や刃折れの剣と言う様な一見ゴミにしか見えないものまで。手癖の悪さが災いして必要不要の区別無く此処に溜めてしまっている。どうせ己しか使わぬのだからと横着してこのザマであった。
今は娘の手によってか整理整頓が為されており、ゴミの類は隅っこに肩身狭そうに押し込まれている。『お父さんあっち行って』攻撃を喰らった時のイクスを空目して少し口の端を歪めた。
「……そう言えば、村長とは付き合いが長いと」
「あぁ、五、六年前くらいにな。それが如何した?」
「その、件の魔眼で見たモノの説明が少し……」
あぁ、と顎を撫でる。
肉眼でない眼で視る魔眼の視界は特に説明が直感的になり易い、盲目の彼なら尚更その傾向は強いだろう。新参であろう彼女にはちと理解が難しいか。
「色、形、匂い。この三種があの魔眼が感じ取る感覚だ。色は属性、形は文字通り、匂いは術式」
「匂いが術式、ですか」
「俺は魔術に関しちゃ門外漢だからな。其処ら辺はよく分からん。魔術師には理解出来るのかもしれんが」
「ノウスルーツ王国に居たのに、ですか?」
「向き不向きは枕を置く所でそう変わらないってこった」
魔薬を服用した——というよりさせられた事もあったが、対して意味も無かった。いよいよ根本的な所を解決しないと己が魔力を使えないという事実が浮き彫りになったが、まぁ特に苦労もしていないので良しとしている。
「この匂いってのは、要は術式構成やそれが意図している所の直感……まぁイメージだな。寄生型の魔物を視た時には『カビ』だったぜ」
「では今回の『根』というのは……」
「術式がその鎧とやらにびっしり張り巡らせてあるのか——鎧が中身から魔力を吸い上げているのか」
恐らくは両方だろう。中身が傀儡かどうかはまだ判断付かない故、大事を取って此方の能を開陳せねばなるまい。
ちら、と傍らに置く脇差に目を向けて。
「これから、明日の為に仕込みをする。俺に構わず先に寝てな」
手札を切ろう。そういう事になった。
◇
目釘を抜き、柄を外し、鍔と鎺を取り去り予め敷いておいた紙の上に置く。裸となった脇差の刀身は、窓辺より漂う月光に金属光沢を返す。
注視するはそれより下。茎に巻かれた、幾何学模様の描かれた赤布。
「……」
軽く指で撫でれば、それだけではらりと解け落ちる。露わになる鉄の肌は、ただの刀のそれと何も変わらぬ。
否。
生じる。発する。吼える。
意気軒昂たる、思念が。
頭蓋の裏を叩く。
——足りぬ。
響くは希求、不足を充す意の発露。
——満ちぬ。
持たざる者の、切なる願い。
——在らぬ。
含意は一つ。
——寄越せ。
「阿呆が。
その意を、真っ向より棄却する。垂れ流される思念を確と捉え、離さず逃さず、刃金に叩き返す。発散される簒奪の念を余さず掴み、捏ねて抑えて整える。
この身がある存在位階へ。卑きこの身が手繰る短刀の形へ。
収斂し、鍛える。
血脂に狂いし己が腕で以て。
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