放浪、或いは舞い込む転機。
◇
サカキは、生まれてこの方政治という物に深く関わった事はない。棒振りのみが取り柄の愚劣漢にそんな小難しい事を要求するなと言いたい所だが、怠った結果が今の無様である。ものの見事に不勉強が祟ったという訳だ。
されど元より根無草。この数年の内に幾つか縁は結べたが、元より当てのない旅は慣れている。
彼方此方へと行脚とも言えぬ、酔っ払いの千鳥足が如く歩いて歩いて——久方振りに腰を下ろしたのが、かの王国であった。それなりに居心地は良かったとも。それなりに己の嗜好を満たせたとも。
しかしこれは、本懐ばかりは、己の底に沈めねばならなかった。
人斬り、人狩り、人殺し。
大義名分無くしてそれが出来ぬというのも、なんともいじらしい事よ。
◆
ノウスルーツを離れ、三回ずつ太陽と月が顔を見せた。携帯食は残り僅かとなり、飲み水は出来る限り節約して半分程度と言ったところ。食糧が続く内に何度か顔を出した事のある馴染みの集落に落ち合えれば万々歳、無理そうなら近くの森に入って獣を狩るか、大雑把にそんな計画を立てながらサカキは歩を進めていた。
日に焼けた土を踏み付けつつ、時折吹き込む風に目を細めながら道を急ぐ。ペースを考えれば、目的地には月と四度目の対面をする前に着きそうだ、とまた一歩、二歩。
「……?」
ふと、違和を感じた。端緒は何か。漂う空気、鼻先を撫でる微風に混じる——匂い。
意識して吸い込むと、疑念に程近い物が確信に変わる。『違和を感じる』ではない、これは間違いなく違和だ。重く粘りを感じるこの薫りを、サカキは良く知っていた。
「血か」
右手で麻袋を背負い直し、匂いの流れる方へ疾駆する。上半身の軸を乱さず、頭の高さは一定に、体幹の乱れによる前進移動力の損耗と体力消費を限りなく
地を滑る様に足を運び、地を蹴る脚に籠める力は最小限。加速から減速に切り替わる瞬に次の足を出し再加速。それを都合五度繰り返せば今出来る最速に至る。
十秒を数える事なく、匂いの元に到着した。足裏で土を削って制動を掛ければ、原因は目の前に。
「これは……」
森の入口、草を踏み付けて出来た道に沿って、程近く。
緑色の肌、面皰の浮く醜い顔面に腰布を巻いた矮躯。手には見るに薄汚れた短剣が握られている。その眼は爛々と輝き、久方振りの獲物を喜ぶ様に口は裂けていた。
ゴブリン。小鬼、などと渾名される亜人の一種。徒党を組み略奪を働く事で日々口に糊する低級の魔物。
見遣れば、五体のゴブリンに取り囲まれているのは竹で編まれた籠を背負った少女らしい。14、15と言った所の年頃、籠の中の青々とした草花を見るに、大方薬草等を取りに深追いし過ぎたか。
傍らには倒れ伏した黒鹿毛の馬が一頭。首と腹に矢が一本ずつ、苦しげな嘶きが断続する。少女はそんな馬の様子を気に掛けている様で、ゴブリンらを見ながらも時折横目でそれを確認していた。
馬という逃げ足を潰し、しかる後追撃。戦法としては有効である。ただゴブリンの足は決して速くない、寧ろ遅い部類に入る。あの少女でも逃げるのは容易かろう。
では何故此処に留まっているのか。一匹一匹は女子供でも武器さえあれば対処可能でも複数体となると途端に討伐は難しくなる。戦力差を見れば一も二もなく撤退、そうなるのが自然である筈。
対処法を知らないのか――否。あの籠の編み方に見覚えがある、恐らく彼女は己が目的地の村の者だ。彼処は良く魔物の被害に遭っており、全住民に低級魔物の対処くらいは周知されている筈。
包囲網が緻密だったか――否。取り囲めているのは精々少女の前方120度。更に少女が背にしているのは大して太くもない木、背後に抜ければどうとでもなる。
弓での牽制に竦んだか――否。小鬼どもの足元には馬を射るのに使ったであろう
となれば、この場を離れない理由として予測出来るのは一つ。
――ゴブリンは悪食だ。あの馬の肉は、あの五体の腹を満たして余りある。
「……」
己の
両者の間に放り、落とす。
「ッ!」
「グギャッ!?」
虚を突かれ、肩をピクリと動かす小鬼ども。この瞬間まで此方に気付かないのは、獲物を何処から喰らうのか、少女をどう甚振ろうか――そんな思考に逸っていたのか。
『取らぬ狸』の故事通り、そういう事は対手を確実に仕留めてから思案する物である。
「よぉう小鬼ども。退くならそれで良い、退かぬと言うなら覚悟しな」
決定事項を投げる。退かねば斬る、ただその意のみ伝われば良い。己が成したい所を成すのなら、目の前の存在が障害になると思ってくれさえしたらいい。
目論見は、恐ろしく簡単に実を結んだ。
「ギャアッ、ギャアッ!」
「キキキキッッ!」
目の前の狩りやすい獲物から目を外してまで、小鬼らは此方に剣先を向けた。彼等の中で少女は既に仕留めたという扱いらしい。
二兎目を追った。
出来過ぎなくらい、相手の失敗条件は整った。
「仕損じる訳ぁない、というのは慢心かねぇ」
マントを払いながら左手を腰へ。打刀の鯉口を切り、抜き放つ。二尺四寸、定寸より僅かに長い。構えるは大上段。
誰が言うでもなく、それが合図。
小鬼らが一斉に此方に走り寄る。一番槍の姿勢は低く——元より己の腰より下だが——右手で握る短剣は腰に引き付けられている。刺突の構え。五歳そこらの子供と同じ体躯とて、全体重が鋒に乗れば人の皮など容易く食い破ろう。
ただ、目測でもその短剣の刃渡りは
間合は圧倒的に此方が優越する。そしてその事を、彼方は理解していない。
「フッ!」
雷刀が落ちる。触れさせるのは鋒三寸ばかりで充分。
先頭のゴブリン、その頭蓋を真二つに割り裂いた。不出来な赤い花が咲き開く——それを横目にする。既に脚は次の敵に向かって跳躍していた。
「ギャ——」
「喧しい」
何事か喚かんと開かれた口に向かい、右から左への横一閃。跳ね飛ぶ頭部の上半分、向こうで狼狽を表情に浮かべる残り三匹。
一斬一殺。此方が間合を制した以上必然である。
得物の長短に於ける有利不利、覆すには技量と知略が必要。この場合、彼奴等が己の懐に潜り込めば間合の優越はひっくり返る。
少女の足に負ける程の鈍足で、此方の刃域内で生き残り、その上で自身の得物が利する距離まで接近する。コレが小鬼どもの勝利条件。
臍で茶を沸かす方が容易かろう。
「シィッ!」
彼我の距離は此方の一踏みで詰まる。前進移動の勢いそのままの刺突が三匹目の口内に突き入れられ、左半身に構えつつ峰に左手を添え下に押し付けながら引き抜けば、咽喉を裂き胴を抜け股座までもが両断された。不恰好な小鬼の開きが地に沈む。
残心。樋に左の指を沿わせながら右手を引き、正面に血塗れの刃を見せる様に持ち上げる。数瞬先の末路を見せつつ残りに視線を呉れてやり、ついでに『悪人相』と評判の顔をわざとらしく歪めてやれば、意図する所は不足なく伝わった様で。
二匹の小鬼は蜘蛛の子散らすかの如く森の奥へと消えて行った。急くあまり手にした得物までもを取り落とす程の慌てぶりである。
他愛無し。左脚を引いて血振り。鞘を引き寄せ、気息を整えつつ納刀。
そうして張り詰めた空気を霧散させれば、幾分か血臭の濃くなった空間だけが残った。
「さて……平気かい、嬢ちゃん」
「……あっ、えと……はい……」
少女を見遣れば、意外とその面に恐怖の色は薄い。寧ろ呆気なさというか、拍子抜けという風な気色を感じる。成る程、先の様子を見るに己が割って入るのがもう少し遅ければ決死の反撃に移る所だったのだろうか。何とも勇ましいものだが、戦い慣れしてない者の破れ被れの突貫は大体失敗する。状況を更に悪化させるおまけ付きで、だ。
そんな風に思考を遊ばせていると、少女はハッとした顔をして傍らに伏せる黒鹿毛に縋り寄った。
「アギリス……っ、しっかり……!」
『アギリス』と呼ばれた黒鹿毛は、主の声に呼応するかの如く苦しげに嘶く。二本の矢はかなり深くまで刺さっており、出血も酷い。この場で出来る治療で助かる見込みは、残念ながら無いであろう。であるならば出来るのは苦しみを除いてやる事のみ。
その事を知ってか知らずか、少女はアギリスの眼と身体に突き立つ矢の間で視線を彷徨わせていた。逃れ得ない感覚、ひっそりと友に忍び寄る冷たい気配。それを彼女も感じているのだろうか。
——方策が無いわけではない。この黒鹿毛を死の淵から引き摺り上げる方法は己の腰に。この様な事に使った事はないが、恐らくは可能である。矢傷の痛みと血液流出による生命維持機能、そして魂の在り方。その三つに『使えば』命を拾えるだろう。
そう考えて、寸暇もなくその選択肢を棄却した。生命絶殺の血狂いに命を尊ぶ思考がない故ではない。寧ろ逆である。
コレをすれば、この馬に与えられし『命』は意味を亡くす。ただ一つのみある故に奪い奪われる事に価値が生まれる、生命の価値が揺らぐ。例え畜獣であろうとも、況や人馬一体の友となれば尚更。
——とどのつまりは、狂人たる己の自己満足である。人道を既に落伍した者に常なる慈悲など有りはしない。そういう物はとっくに血腥く穢れている。
左手で脇差を抜き放つ。一尺七寸、刃を己に向く様にしてから屈み込み少女の前に突き出す。
突然渡された刃物にぎょっと肩を震わせて此方を見る少女は、眦に溜まる雫を今にも決壊させんという所であった。
「使い方は分かるな?」
「……ッ!」
「友の為だ。己がやっても良いが……如何する?」
交わす言葉は少なく、しかしそれが逆に為すべき事を明快にする。努めて脳裏より外していた未来の可能性、それが限りなく近くに潜んでいる事を直感的に悟ったか、くしゃりと歪む少女の相貌に一欠片の覚悟が滲む。
脇差を手に取った少女のそれからは淀みなかった。祈る様に一度両手を合わせて、左手で相棒の眼を隠し、鋒は咽喉を狙う。
——躊躇いは、驚く事に皆無だった。
◆
「……ありがとうございます。埋めるのまで手伝って頂いて……」
「徹頭徹尾己の自己満足よ、気にするこたぁねぇ」
「それでもです。この近くに私が住んでいる村があるんですが、どうでしょうか。お礼をしたいのですが」
「リシュー村、であろう?」
「……どうしてそれを?」
「元より己がそこを当てにしてたからよ。何度か顔を出しててな、村長とは既に顔馴染みよ」
放った麻袋を背負い直し、空を見上げると既に茜色の半分が山の向こうに隠れてしまっている。少し視線を逸らせば、都合四度目の月とご対面であった。
少女はその面に色濃く疲労を覗かせながら助けられた者の責務を果たさんと気を張っている様だが、つい先程友を介錯したばかり。如何程の気苦労を抱えて、その誘いを投げているのだろうか。
名残惜しげに森の入口近くに盛り上がった土に目を遣る姿は、見るだに痛ましい。
「そら、お月さんが天辺に登る前に行こうぜ……おっとそうだ、まだお前さんの名前を聞いたなかったな」
「……ルシア、です」
「おう、俺はサカキだ。宜しくなルシア」
そう名乗ると、少女——ルシアの体が硬直した。眼を見開き、信じられないと言った風に手を虚空に所在なさげに彷徨わせる。
一縷の希望、蜘蛛の糸が目の前に垂れてきたと言わんばかりの、光が目の内に宿った。
「サカキ? サカキって、あの『錆』の?」
「……悪いが、俺はもう勇者では無いぜ。ちとしくじってな、ノウスルーツからは追い出されちまって——」
「サカキさんッ! どうか、どうかお願いしますっ……! どうか——」
『村を救って下さい』。
頭を下げられながら発されたこの文言に、またぞろ面倒が増えた、と嘆息するばかりであった。
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