第8話 コバンザメの擬態
ピリリリ、ピリリリ……
電話機の鳴る音で、ボクは目を覚ました。頭を抱え続けているうちに意識が遠くなっていって、夢の世界に引き摺り込まれていた。知恵熱に負けたのだろう、昔からキャパシティを超えるとどうにもならなくなるのがボクなのだ。
「はっ、取らなきゃ」
とにもかくにも、早く電話を取らなければならない。もしかしたらユリカのお母さんかも知れない……慌てて受話器を取る。
「はい、西浦です」
「バカじゃね? なんで急に畏まってんのさ」
聴き慣れた声。そこに憧れの要素は何一つない。一番近い感情は「呆れ」。
「サトルかよ。萎えたわ」
声の主は
「萎えたって何だよ〜〜。あ、また女の子からの電話待ってたの?」
「色々緊張してただけ。別に関係ない」
「なに、お見合いの相談とか? お前もやっとマトモになったんだなあ」
「……どうでもいい話なら切る」
昔からサトルは、ボクとなれば女の話をして勝手に盛り上がる。女に弱いってことは強ち間違ってはいないんだけれど、もうボクは女絡みの話を自分だけのプライベートな問題にしたいのが本音と言えよう。
「冗談。今から呑まないかって。渋谷で」
「今からって……ああ」
壁に掛かる時計は17時を指す。太陽は沈んでいてこれから冷え込む時間帯になる。ユリカが帰ってくる時間は気がかりだけど、渋谷なら向こうで合流することも出来るだろうと踏む。
「渋谷なら良いかなあ……」
「はい決まり。つぼ八でいいね? マルキューの方の」
「6時でいい? 店の前」
「うい、シクヨロ」
電話を切ってすぐ、また後悔の念が出てくる。サトルと会うのは別に嫌じゃないけれど、毎度のように出費がかさむのには、良い加減ボクは疲れている。それなのに交際費の感覚がバグっているサトルに付き合ってる自分も居て余計に情けなくなる。あいつはボンボンだから許されるんだけどな。
ただ今日は今日で、昨日とは色々と事情が異なることもあって、日常に引き戻してくれる存在としては格好のタイミングだったように感じる。だからってユリカの存在を言えるかどうかは……酒に呑まれてみないと分からない。
電話を取り出して、ユリカにメッセージを入れる。ポケベルは丁度世代がすれ違ったせいで使い慣れていないけれど、何とかして送ることができた。
「
改札を出ると同時に心の底から出てきたのは、昨日も渋谷は行ったなという詰まらない感想だった。クリスマスの余韻が終わればすぐ新年のお祝いムードになって、人間というのは楽天的なモノだなと肩を落として、スクランブル交差点を冷めた目で見つめてみる。
つぼ八の前には、ハイライトを吸いながら待つサトルがいた。茶色と赤で彩られたチェック柄のマフラーは、この2,3年はずっと変わっていない。
「よっす」
「んあ、元気?」
ボクに気付くと吸いかけの一本を放り投げて、それは見事に排水溝へと消えていった。
「また重たいのを吸ってるな」
「これくらいじゃなきゃね」
サトルは廃人だとつくづく思う。大学に居た頃から10ミリのタバコを好んで蒸していたし、狂ったように飲み会に現れては、ロータリーで吐いて爆笑していた姿を昨日のように思い出せる。
それでも築き上げてきたコネは半端じゃないし、ボクもその在り方だけは見習うべきだと必死に追い付こうとしてきた。今になってもその点で後悔はしていないし、サトルに助けられたことがどれ程多かったかを言えば語り尽くせない。
ただ、サトルと決定的に違う点はある。――彼は「孤独」に気付くことがない。
父が銀行の重鎮とあって、一生をカネに困ることなく生きてきたんだろうし、懐の入り方とか生きる上での処世術は自然に体得しているようだった。小学校の頃から内申で大学に至ったこともあって、いつも友達が彼のお零れを貰おうと脇を固めていた。
その友達、もはや小判鮫と言った方がいい存在に、ボクもまた必死になって引っ付こうと努力してきた。本心でなくても生きるために必要な術だからと。
――結局、その我慢がボクの「孤独」を大きくしているのだが。
「とりま刺身の盛り合わせ行っとくか」
「食い切れよ、絶対」
「いつも同じこと言ってらあ。多分食えるよ」
席に着けば、そこに重みもない言葉のラリーが続く。使い古した表現は実体を失っているようで、ボクがテレクラ女子高生に囁いている言葉みたい。少しだけ呼吸が苦しくなった。
「アオは?」
「串のアラカルト。あとウイスキーで今日はもう帰る。二次会はなしで」
「え〜〜〜」
露骨なため息が聞こえてきた。普段とは違う状況に味気なさを感じるのは納得できるが。
「ガールズバー行こうって思ってたんだけどなあ」
「……サトルはいいよ、金とか有り余ってるんだから」
「いやアオも大概でしょ、まだ貯金とか腐るほどあるクセに」
「その話、余りボクの前でするなよ」
7ミリのマイルドセブンを潰して、キツめな声になってしまう自分がいる。
ボクの存在を、「黒歴史として葬り去った日々」として認識する人は多い。その度に否定して回って、もう1年になろうとしている。サトルは特に認識が変わらないままでいる、重篤な患者のよう。
「アオの実力なんでしょ? 出し惜しみすんなよ」
「だから、もう足を洗ったんだ。終わった話を掘り返してどうする?」
「いや、勿体ないと思うわ。ビジネスチャンスなのにな……」
ビジネスチャンス? ふざけた事を抜かす、と怒りが込み上げてくる。
あの世界で勝ち残るには、人間的に弱い存在から金を巻き上げるのが手っ取り早いと思い知らされて、そんな世界には嫌気が差した。数として現れる指標に従ってピラミッドの頂点に立てても、神として持て囃されても、気持ちは晴れるものではない。
やがて弱い存在は依存を始めて、期待を裏切れば狂信者の如くテロリズムに走る。そうならないように神は自分を必死に殺して振る舞い続けるしかない。本当の気持ちを偽りたくないと内心で思い続けていても、世界はそれを許しはしない。
また別の弱い存在は、神の御言葉に従えない自分を責めて、そして最後に自分を潰して消えていく。非人情的な神なら「バカだ」と彼らを切り捨てるだろうけれど、それが果たして本当に神だと言えるのだろうか?
弱い存在に手を差し伸べられなかった。
――その苦しみが十字架として、今のボクを縛る。
「アオ?」
「ああ、何でもない」
「ほら、もう刺身来てるから食え」
きっとサトルは、そんな存在を知らずに生きていく。上級国民と言えばそれまでだけど、残念なことに天上人たちは天上人たちで交わる方が、ピラミッドの頂点に立ちやすいのがこの社会の構図だと感じられる。
構造としては上だけの交わりに見えて、その根底には弱い存在のひもじい努力がある。彼らに寄り添えないで生きることがどれ程恐ろしいか……知らないで生きた方が、きっと幸せだったかも知れないとは思う。知ってしまった以上、どうにもなりはしない。
逆にボクだけが知っていて、「孤独」を募らせていく。そんな時に巡り会ったのがユリカだった。
ユリカ。
少女の存在を思っていくうちに、冷めていた感情が一気に暖かくなる。昨日の夜の女神が嘘じゃないかのように……。
「ほら〜うまいぞ」
「食うから!」
ウイスキーを体に溶かし込んで、わさび醤油と絡んだマグロを頬張る。いつもの安っぽい味が脳を痺れさせていく……。
僅かに歪んだ意識の中で、サトルはボクに一つの質問を投げた。
「アオ、『ダイヤルQ2』って知ってるか?」
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