Chapter2. ダイヤルQ2

第7話 ポケベルとナポリタン

 ボクたちはそれから、泥のように眠った。

 

 太陽の光を感じて目を覚ませば、あどけない顔で隣の少女が眠っている。


 「……すぴー」

 「ふふっ」


 夜を越えた先、隣に誰かが居る幸福はやはり代え難いと思って、込み上げてくる感動に心を委ねた。


 そこに平凡な「好き」の意味合いはなくて、まるで神と信徒のように結ばれた強い絆を感じている。心からの契約に近い、永遠に続いていくような尊い約束。


 そっと背中を撫でてみる。実体がここにあって、同じ価値観を持ち合わせている。背負ってきた孤独を軽くするようにと願いながら、何度も存在を確かめていく。


 「んん?」

 「あ、おはよう」


 ボクから少し遅れて、少女は目を覚ました。随分寝たように思っていたが、チェックアウトにはまだ時間がある。


 眠たげな目を擦ると、もう一度幸せそうに細めていた。


 「まだいるの?」

 「居るよ、ここに」


 甘い声で微笑むと、ボクの腕の中で眠っていたことに気付いて、更に甘えた声になる。


 「よかった」


 その声は堪えていた感情を逆撫でするようで、耐えられなくなりそうになる。必死になって自分を抑えて、優しい声で問いかける。


 「早く起きないと、追い出されるから」

 「やだ、ここにいて」

 「あのさ……」


 夜に感じた神的な存在は、朝になればただの甘えん坊に成り下がる。その落差にボクは虜になっていて、命令には逆らうことが出来ないでいる。


 「もう30分な?」

 「うん〜〜」


 今にもつりそうな腕の痛みを耐えながら、再び少女の温もりを感じていた。


 ◇


 昼頃にホテルを出たボクたちは、渋谷から井の頭線に乗って家を目指す。ユリカの分まで切符を買って、カラフルに彩られた急行に乗り込んだ。


 「人、多い」

 「まだ空いている方だよ」


 後ろの車両は改札に近いために人でごった返していた。堪らず先頭車両まで行ったとしても、人の入りようはさほど変わりはしなかった。


 「だってアオは慣れてるから」

 「はは、そうかもね」


 幾つかの会話を経て、ボクたちは下の名前で呼び合うようになった。一晩で感情の奥底まで分かり合えば、名前の呼び方の一つくらい簡単に代えられる。高校時代のボクには絶対に出来なかった芸当。


 「どこまで行くの?」

 「2つ目の駅」

 「近い?」

 「10分もあれば着くよ」


 大学の3年になって引っ越した先は、当時バイトしていた新宿にも、大学のあった三田にも程近い場所だった。学生が多く住む街で、食堂やアパレル、レコード店も揃った住みやすい環境が整っている。


 今の仕事も六本木に本社を構えていることから、居心地の良さも合間ってここに5年も住むことになった。それまでに幾多の女の子を連れ込んできたけれど、女子高生は初めてで不思議な気持ちがしてならない。


 別に性的な興奮はない。ぎこちないと言うか、しっくり来ないだけ。

 

 「した……きた?」

 「下北沢しもきたざわ


 1つ目の駅の名前。語った言葉通り、ユリカは東京の人間ではないと確信する。どこから来たかは語っていなかったが、遠くから来たのだろうとぼんやり考え始めた。


 「……知らないもん」


 頬を膨らませていじける姿は女子高生そのもので、急に引き締まった気持ちになる。


 「一緒に居る」と誓ったような甘い感情も持ち合わせていたが、意識が覚醒すると同時に、背徳感や正義感のような情緒も戻ってきた。家のことは深く詮索しなかったが、報告もなしでユリカを親から引き離そうとする真似は、どうしても避けるべきだと思い始めた。


 とは言っても、哀しげに告げていた内容もまた、ボクの喉に引っかかる。


 『仕事のこと。ママはお酒で壊れちゃったから、もう家には居られない』


 テレクラ女子高生にも、親の愛が歪んでしまって、所謂「拗らせ」に属する女の子は多かった。カテゴライズの領域ではユリカはそのタイプに属することになるし、一晩だけの関係として付き合う方法は分かっている。そう、一晩だけの話なら。


 問題は沸々と湧き上がる正義感の方にあった。世間体から見ればこの状況は「監禁」として看過されないものになる。今年の夏に捕まったペドフィリアの殺人鬼と同列に語られる憂き目だけは避けておきたい。


 そうなれば、「保護」として取り扱われるようにするべきだと考え始める。良心的で、警察に協力的な優等生のように。まあ、テレクラに通い詰めて女子高生を狩っていた……厳然たる過去の事実を捻じ曲げるのは難しくて、諦めざるを得ないのだが。


 今回ばかりはマスコミの語るカテゴライズの領域に収まらないボクが居る。健全で人倫的なボクが、必死に欲求を引き止めているんだ。


 神を得た信徒は、神を傷つけてはならない。そうやって言い聞かせるように。


 「ユリカ」


 聞いてしまっては傷跡を広げることになる。それでも良心が優って、東松原を過ぎた辺りで口を開いた。


 「お母さんに電話したい。今のこと話したいから」


 なりもしていない保護者のようだと、擽られた気持ちになった。何とかして平静を保つ。ボクの予想は外れた。ユリカは簡単に10桁の数字をスラスラと唱えてから、


 「出ないと思うな」


と呟いて哀愁漂う薄笑いを見せる。ボクに視線は向けず、ドア上に掲げられた路線図を見つめながら。


 「ほら、もう着くね」

 「ああ」


 真摯に向き合おうとするなら、触れてはいけない側面もあるのだと……まざまざと知らしめられた気がして、ボクの身勝手さを少し責めたくなった。


 ◇

 

 明大前に着くと、お腹が空き始めたこともあって、通い慣れた定食屋に連れていく。ボクはハンバーグを、ユリカはナポリタンを頼んだ。


 「さっきの、慣れてなさすぎ」

 「……うるさい」


 電車を降りる時、ユリカは先頭にいる運転手に話しかけようとした。東京もワンマン電車の要領だと勘違いしたんだろう。ボクも最初は慣れなかったから気持ちはよく分かる。


 「だって、普段は見せるから」

 「改札に人居るっての」

 「とうきょう……都会だね、思ってたより」


 馬鹿なこと言うよ、と笑いながら2人分のレモン水をカップに注ぐ。赤と白のチェックで彩られたテーブルの雰囲気も相まって、ボクはこの店が大好きになった。


 何度もこの店は友達に紹介してきたし、元カノも連れてきたことがある。もはや一種のコミュニケーションツールに近い存在だと思う。


 先に運ばれてきたのはナポリタンだった。申し訳なさそうにするユリカに、「冷めたらよくないから」と食べるよう促す。


 「……おいしい」

 「でしょ? 自慢なんだ」

 「こんなに美味しいの、久々」


 嬉々としてユリカは勢いよくナポリタンを啜る。がっつく姿と唇の周りを覆うケチャップソースがおかしくて、ボクもまた笑ってしまう。


 「焦んなくても逃げないから」

 「知ってるよ、あたしが払えばいいんだもん」

 「それは奢るから!」


 人への甘え方は折り紙付きだ。またボクがしてやられたと思う。にしし、とほくそ笑むユリカを見て、大袈裟にため息を漏らしてみる。


 「あたし……おいしいの、久々に食べた」

 「そんなに?」

 「だって、東京来てからずっと渋谷のマックで過ごしてたし」


 聞き捨てならないことを初めて耳にした。驚くボクに構わず、言葉を続ける。


 「こんなにいっぱい食べられたの、ほんと久しぶりだもん」

 「ずっと渋谷? ……どれくらい?」

 「1ヶ月。友達も出来た。私と一緒に家出した子」


 ユリカの言わんとしている話は、家出してからのことだった。


 家出してから、渋谷で屯する知り合いのコミュニティに逃げてきた。キャンペーンやガールズバーのバイトを経て、この期間を乗り切ってきたと。


 「じゃあ、高校は?」

 「さあ。休学になってるんじゃないかな」


 ボクの不安を遮るかのように、ユリカは何食わぬ顔で事実を告げる。


 「大丈夫、今凄い幸せだから」

 「そうか……」


 どうしてか、その屈託のない笑顔には嘘が見え隠れしない。ボクと同じ孤独を抱えた人に巡り会えた幸せを、ユリカも感じているのは間違いなさそうだ。


 「ハンバーグ定食、お待たせしました」

 「あ、はい」


 だとしても、ボクに感じる一抹の焦りが、微かに背後からチラついている。家出少女を家に引き留める――その社会的な立場と、重責とを。


 やはり、電話をするべきか。


 「……それにしても、番号」


 ◇


 駅から10分歩いた場所にボクの家がある。1LDKの家の中で一際目立つのは、意味も分からず買った油絵と、その下に横たわるセミダブルベッド。合コンで連れて帰った女をここで寝かせたな、とか思い返すとキリがなくなりそう。


 「部屋汚いけど」

 「ううん、整ってるよ」


 お邪魔しますと礼をして、ユリカは部屋に入っていく。


 「服は洗っとく。ボクと同じ匂いが嫌ならコインランドリーに行って」

 「いいよ、同じで」


 定食屋で少しばかり真面目な話をして、一旦はユリカの生活費を担うことになった。いずれユリカも自分の稼ぎを手に入れて、1人で出ていけるようにと。


 その時にテレクラを2度と使うな、とも約束をした。ボクとしてはこの約束の方が重要な意味を持っているように感じられる。目指したいのはあくまで社会的な自立だ。ユリカも意図を汲んでくれて、ボクの提案を納得してくれた。


 「ごめん、お手洗いどこ?」

 「その扉だよ」


 慣れない家というのは、必ずトイレの場所も分からなくなったな……と思いながら、紅茶を淹れている。状況が二転三転もしているせいで、少しばかり寛ぎたいと思った。


 ピピピ、ピピピ……


 その矢先、聞き慣れない電子音が鳴り響いた。少しして音の正体が分かる。ポケベルだ。


 音の出所はユリカのガウン、ポケットの中。何とか探し当てて手に取ると、そこに映る数字の羅列を目の当たりにする。


 「428」


 渋谷……? トイレから戻ったユリカは、ポケベルを手にしたボクを目にして、「あ……」とバツが悪そうに声を漏らす。


 「ユリカ、これって」

 「“定例会”。ごめんね、ちょっと電話借りるね」


 焦った口調になって、サイドテーブルに置いてあったプッシュ式の電話機を取る。脇目も振らず、「1、9、4」と打ったように見えた。


 「行ってくる。友達が呼んでる」

 「……1人で大丈夫?」

 「大丈夫、お金はあるから」


 ボクの知らない世界に飛び込んでいく。感じの悪い、嫌な気持ちが急に襲ってくる。身支度を整えて、玄関に立とうとするユリカを震えた声で呼び止めた。


 「なあ、チーマーとか、そんなのと絡んでるのか?」

 「ないよ、大丈夫」


 振り向かない。背を向けたまま、元気そうな声で返事をする。それ以上は踏み込めない。歯軋りをして、渋々送り出すことにした。


 「帰り方分かってる?」

 「どうせ忘れてる。その時は電話するし迎えに来て」

 「全く……分かった」


 そのまま光の中へ、ユリカは飛び出していく。


 部屋に1人残されて、ボクは頭を掻きむしった。


 厄介なことになった――真っ先に出た感想は、昨日の夜の甘美的な感情を真反対。何度か部屋中を回って、やっと心を落ち着かせてから、やろうとすることを書き出してみる。昔から焦った時はと言うと、紙に書き出して落ち着かせるのがセオリーだった。


 「友達が誰かを知る、ユリカがどこに居たかを知る、ユリカが……」


 ペンを持つ手は3分くらい動き続けて、あるフレーズを記そうとして止まる。


 「ユリカの……お母さん」


 電車で呟いた10桁の番号は、定食屋で手帳に書き留めていた。躊躇することなく電話機の前に座り番号を打つ。こうやってタスクが大量に積まれた時の行動力は、ボク自身も驚くくらいに素早い。


 「出てくれ」


 若干のビビりはあったけれど、出なかったらそれまでだと腹を括る。自分自身の問題にもなるのだから、もう止まれない。



 ガチャ……1発で繋がった。ユリカの言葉とは裏腹に。


 「もしもし、九重ユリカさんのお母さんでいらっしゃいますか?」


 数秒の静寂。息を呑んで、答えを待つ。


 「……また、別の男?」

 「え?」



 「もう私に構わないで! ユリカは私の子じゃないの!」

 


 ツー、ツー……。


 鳴り止まない、通話終了のサイレン。


 受話器の前に立ち尽くして、ボクはしばらく動けなくなった。

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