第6話 帰る場所を探して
ラブホテルに来て女の子を誘えない。何と情けない男だと嘲笑われるだろう。
そんな声なんて構えないくらいに、ボクは本当の姿を見せ始めている。他でもない少女の声が、ボクの葛藤を突き抜けて行ったから。
「辞めるって……えっちのこと?」
呆然とする少女。無理もない、テレクラの目的を完全に逸したのだから。
「ああ、そうだよ。そんな気じゃなくなった」
ボクはいつの間にか晴れやかな表情を浮かべている。優しく少女の腕を解いて、「もう大丈夫」だと告げて、隣に座らせた。
「そんなこといいの?」
「そりゃそう思うよな、ごめん」
恐らく少女が恐れているのは、性交にまで至らなかった場合の、カネの契約だ。ならばと一つ、破格の条件を提示する。ボクにはこれくらい出来る余裕が残っている。
「今回はボクに非がある。ペナルティで3万つけとくから」
生の時と相場は変わらない。少女にとってこんなに甘い話はないし、十分なはずだ。
「嫌」
ところが少女は、甘えた声から出るはずのない、やんわりとした拒絶を突きつける。
「そんなの、あたしだけ得しちゃうよ」
契約という言葉を持ち出したボクが、その本質を忘れているなんて笑えてくる。相互に何かしらの行為が伴っていないと、対価を渡す口実にはならないはずだ。
きっと少女は小難しいことを考えていないんだろう。ただ単に不公平な気持ちが嫌で、そう笑ったに違いない。
「じゃあ」
提案の中身は簡単だ。身体の交わりを求めていない今、ボクが求めるのは心の交わり。
「少しだけ、話をしようか」
冷蔵庫からコーラ缶を二つ、乱暴に取り出して少女に渡す。
「どうぞ」
蓋を開ける。プシュッと響く炭酸の音は、仕切り直しの意味を兼ねているのかも知れない。缶が空になるまで飲み込んで、快感を脳に響かせる。
懐かしい感覚、部活終わりの高校時代のやり方だ。まだ忘れていない。
「……すごい」
「大したことないよ」
いつからか夜に煽るものはアルコールに変わっていったけれど、コーラで満足出来た、幸せでいた日々の感覚は残っている。不思議と嬉しくなる自分が居て安心する。
「やけ酒みたい」
「酒か。今は要らないな」
「飲まなくて良かったの?」
「何か違うんだよな、今の気持ちだと」
どう言葉にすればいいか分からない。酒に飲まれた自分は自分らしくないから、酒は本当の気持ちを誤魔化すために飲むためだとか、色々な表現は出てくるけれど、どれも最適解には見えない感じがする。
「アルコール入れると、話したい話じゃなくなるから」
「――真摯だね」
この少女は、いつも斬新な視点で物事を見つめているなと感心した。
真摯。ボクの思い付かなかった、暖かみのある言葉がボクを包んでいく。
「どうかな」
「あたしには、そう見えるよ」
足枷を外した少女の声は、素直に受け入れてみたいと思わせてくれる。
でも、まだ強がりがボクを優ってしまって、声になって少女に伝っていく。
「だったらテレクラなんか居ないって」
言ったが最後、後悔が次第に身体の芯から込み上げてくる。
真摯、一筋、真面目……これらに共通する意味は、「社会」の評価。ふしだらな行動をしていたら否定されるべき観念なのは、きっと分かっているはずだ。
そんな不適合者でも、誰かのためなら真摯になりたい――少女はボクの気持ちを汲んで、精一杯に綺麗な言葉を選んでくれた。
ボクは少女の愛情を、「テレクラ」を理由に踏み躙ろうとしていた。
「ごめん、何でもない」
――寂しかったの?
また一つ、目先に広がる光が強くなる。
少女の御言葉、それは天啓のように心のドアを開けていく。
「寂しいな……」
マイルドセブンは要らない。箱を握ってゴミ箱に放り投げる。何本か残っていたけれど、何も問題じゃなかった。
ボクはどんな顔をしているのだろう? ニヒルな笑顔を見せながらも、頬が熱くなっているのを確かに感じている。多分、みっともない表情に違いない。
――あたしと一緒だね。
一緒。天啓は共感となって、胸をギュッと締め付けてくる。
堪らず心臓に手を当てて、鼓動が早くなることを確かめた。
振り向けば、少女の存在は言葉には見合わない程に、か弱いものだと思った。
こんなに小さな身体から、ボクを圧倒するセリフが飛び出してくる。身の丈に合わなかったガウンは、貧相な身体を強く見せるためにあったのかも知れない。
「リリーちゃんは、どうしてここに?」
少女は一瞬背中を震わせて、気丈そうな声で答えを告げる。
「家出したから。帰る場所、探してた」
目を閉じてこの声を聞けば、また初恋の彼女がボクの前に現れそうになる。違う存在とは言ったって、面影は確かに残っているんだ。だから、ボクの理解にすっと浸透していくのだと感じる。興味のない誰かの言葉なら、こんなに受け入れてみようとは思えない。
「ここに電話かけたら、誰か泊めてくれるかなって」
「まさか、テレクラは初めてってこと?」
頭を一回縦に振った。姿を見なくても、ベッドを伝うスプリングの振動が少女の動きを忠実に描き出してくれる。
「本当は言わないつもりだったけど、ニッシーなら言えるかな」
ポツリと漏れた言葉を、ボクが見逃す訳はなかった。
「でも、追い出されちゃうかも……」
少女の中に生じた葛藤は、ただのフリだろうか、それとも本心だろうか……。普通のオジさんなら「言って」とせがむ姿が見えるけれど、ボクはそんなに甘い人間ではない。
「……言いたくないなら、言わなくてもいいんじゃない」
誠意を見せれば、相手も誠意で答えたくなる。そうやって会話は生まれると信じている。そして少女は、期待通りに誠意を見せてくれる。
「ごめんなさい、あたし、泊めて貰いたくて嘘ついた」
あっけらかんと事実を伝える姿は、自責の念を生ませるには完璧な回答だった。それならボクも、早く嘘を吐いてしまいたい。
「仕事のこと。ママはお酒で壊れちゃったから、もう家には居られない」
「パパは?」
「それは本当のこと。女と出ていった、先月だったかな」
あはは、と空笑いを浮かべて、少女はまた「ごめんね」と気まずそうにコーラを飲む。
詳しい事情なんて詮索すべきではない。ただ、寂しくてここにいる事実だけが、ラブホテルの紫と赤に生きる存在を示している。
「大変だな」
「全然。あたし、嬉しいよ」
足をバタつかせて、上機嫌であるように振る舞う。本心を察してしまうせいか、ボクにはどこか無理して振る舞っているような気がしてならなかった。
「じゃあボクも、本当のこと言わなきゃ」
「楽しみ」
「そんな期待するほどじゃないから……」
顔を上げた時、少女の顔を見れるようになっていることに気付く。官能的な空間が本当の気持ちを漏らしていって、嘘が解けた今なら怖くないような気がする。
けれど、やはり自分の嘘を漏らすことは怖くて、空になったコーラ缶に目をやる。
「一緒だよ、仕事のこと。ボクはそんなに偉くない」
「してるだけ偉いよ」
「そうかな。そうしなきゃ、生きられないから」
なあなあで進んだ先の仕事に、立派な理由を見出すことは難しい。せいぜいボクたちが仕事をするのは、お金のためだったり、ひいては生活のためになるのだろうと思う。
「でも、それだけじゃ人は生きられない」
生活を維持することで精一杯になれれば良かった。忙しさに全てを任せて、ボクという存在が何かを考える機会を奪っていけば、苦労することもなかった。
だけど無理だった。交わらなければ、ボクはボクの定義を見失いそうで。
「最近、ずっと思うんだ。毎日のようにテレクラに行ってて」
「そうだったんだ」
テレクラに通っている話は隠していたかったけれど、自然と漏れてしまった。
でも少女の声には、何の感情も乗っていない。評価が無いから心地よく言葉が繋げられる。やはりこの少女は格別だと感じられる。
「色んな女の子を見たよ。リリーちゃんみたいな女子高生も」
ボクの定義を探すためには、どうしても女の子の存在が必要になってしまう。自分だけ定められた運命だと信じているけれど、人は「性」を理由に誤魔化そうとする。
人の言葉も間違いではない。ボクとは違う「性」を持つ、違った存在と向き合うことで自分の居場所や存在に気付くことができる。
「交わって慰めて、また誰かに頼って。そうしたら、自分が分からなくなるんだ」
気付くだけなら簡単だけど、交わることは変わることも同時に意味する。あれほど知りたかった自分の定義は、人と触れることで変わっていく。変わっていけばいくほど、実体は見えづらくなっていく。
カテゴライズの領域の中で、よく表象される表現では満ち足りなくなっていくんだ。誰も適当な表現を見出せなかった何かを、ボクは探し求めている。
探し求めるために交わって気付いて、また変わっていって、知ろうとして……永遠に抜けられないスパイラルの中で、ボクは自分を見失っていく。
「繰り返していくうちに、寂しくなるんだ……」
最後に残されたのは、交わることに慣れすぎて、1人で居るのが怖いボクだ。
ボクの定義が難しくなるにつれて、勧んで交わりたいと思う人は減っていく。気が付けば交わるためにカネを注ぎ込んでいく。
日々の繰り返しに、壊れた人間が1人、静かに死を待つだけ……世間はそうやって、ボクを笑うに違いない。
「ひとり」
隣にある、温もりを取り戻した体温が、ボクの手を覆っていく。
「リリーちゃん?」
問いかけに対して出した答えは、覆う手の力強さに現れていた。
「分かるよ、分かるから」
顔を上げてボクたちは、そっと目配せを交わす。視線の冷たさは残っていたけれど、緩む目元が優しさを滲ませている。
「もう大丈夫。何も言わないで」
手が離れると、少女は立ち上がって、ボクの前で屈む。そして、祈るようにボクの手を包み込んだ。
「ふふ」
言葉にならない声が漏れて、また一つ微笑みを見せてくれる。
――1人は、怖いから。
少女の視線が、はっきりとボクの目の前に映る。
その瞬間に「〇〇」の定義が、脳裏に浮かんで焼き付く。
定義を知った雫の一つ一つが、壊れそうな心に意味を与えている。
「〇〇」、それは「孤独」。
冷たい視線に映るアクアマリンの瞳は、「孤独」の実体を知っていて、「孤独」という言葉を知らないように見える。
初恋の彼女に映る瞳の色は、「孤独」という単語を知らない、純粋な色のシトリン。普段からテレクラに集う女子高生は、「孤独」の飼い慣らし方を知って、淀んだインディゴ。ボクは今にもインディゴになろうとする青。
初めて少女の目を見た時、あの頃の久々に透き通った色を思い出して、思わず心が震えてしまった。冷たい視線だと思うのは、そこに光を映す純粋さ、透明度があるから。
「リリーちゃん……」
定義を見つけて恍惚を浮かべるボクに、少女は聴き慣れた声で囁く。
「ううん、ユリカ」
「ユリカ?」
「
リリー、それは英語で百合を表す。なるほど、言葉遊びが上手だと納得する。
「じゃあ、ユリカちゃん」
「うん?」
「ボクはアオ、西浦碧」
碧は青でも、蒼ほどでは無い。中途半端な色だけど、それが自分の座標に似合っている。
「アオ……なんか、綺麗な名前だね」
「同じこと思ってた」
「同じだね」
重なっていた手と手は、やがて更に近さを求めて絡み合っていく。こそばゆい感触が腕を伝って、互いの神経と交信を始める。
アクアマリンの瞳に映る「孤独」は、これだけの行為で満たされていく。身体の交わりだとか官能的な感動だとか、大人らしい遊びなんて最初から必要なかったと気付かされる。
薄汚れて歪んだ社会に取り残された2人は、愛を、一体を求めて生きている。それも、2度と離れないと誓えるような、永遠的な一体を。
一生を付き纏って離れない「孤独」を、気にしないまま生きていけるような……。
「ユリカちゃん」
「なあに、アオくん」
ボクの定義は「孤独」を恐れないようになれば、きっと見出せると思っていた。その夢がやっと叶う気がしてならなかった。
何度だって最初は身勝手に運命を感じて、永遠がそこにあるように錯覚する。今回は違うと言って、最後に弾けるパターンは腐るほど見てきたし、経験してきた。
でもボクだって、もう同じ悲劇を繰り返したくないと願っている。そう確信させる要素は、少女に幾らでも含まれている。ボクに近くて、初恋の面影を残しているのだから。
この少女は、ボクを導く「女神」だと、そう確信した。
「帰ろうか、ボクの家へ」
「うん」
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