第5話 女神がいるなら

 25時、六本木のラブホテルに2人で乗り込む。


 空間を包む紫と赤は、人間の野性を掻き立てる。テレクラの灰色からは、ネオンサインを経由して想像も付かないトランジションを見せてくれる。1人から2人へ、満ち足りて行く心象と揃うように。


 「ボクはタバコ吸うから、シャワー浴びたかったらどうぞ」

 「……先にいいの?」

 「いいよ。後で一緒になるかもね」


 ソープ嬢さながらのサービスをするかは女の子に依るけれど、9割は身体を洗い流す所から始まって、興奮してきてそのままベッドインの体裁を採る。


 サービスをしない子は主に、先に取引をしてから行為に及ぶパターンだ。ゴムありで2万から3万が相場で、そこに撮影とかコスプレとか、オプションを入れて楽しむ。


 こうやって女の子と交渉をする時が一番楽しい。相手に応じて使いたいオプションを提案して、自分好みの子にカスタマイズする感覚は堪らないし、上手くいけばタダで制服姿になってくれる時もある。


 交渉の手腕には自信がある方だが、自慢するべきかと言えば話は別で……。


 「うん、待ってる」


 特にこの子のパターンなら、どうするべきか本当に分からない。


 先にボクからシャワーを提案するのもイレギュラーな事態。でも、それほどボクには考える時間が必要になっていて、心に余裕が残っていない。


 どれほど余裕がないか、それは増えていくタバコの本数に現れている。独特の匂いを毛嫌いする女の子も居るから、本番前にタバコを吸うことはしないのに。


 交わりに慣れたシナプスは、性の爆発を望んで待ちくたびれて、早くしろと欠伸を促す。残念だけど、今日はそういう日ではないんだ。ボクはそうやって言い聞かせて、マイルドセブンと虚を眺める。



 無秩序に女の子を眺めては身体の曲線美に圧倒されて、本能が身体を駆け巡る。人間というのはそういう存在だと、大人になって十二分に理解しているつもりだった。


 そんなボクが今感じているのは、忘れかけていたプラトニックな純情。


 交わりたくない。傷づけたくない。


 だって、この少女にはまだ「〇〇」の気配がある。あれは確か……初めて少女の目を見た時に感じた、冷たい視線に残っていた。


 少女は「〇〇」を言語として書き伝えることが出来ないから、他のテレクラ通いの女の子とは違う。彼女たちは「〇〇」が何かを分かっていて、納得して生きているような気がする。


 ボクがこれまで培ってきたテクは、そんな彼女たちに効果がある。この少女に効くか? まだ未知数と言わざるを得ない。下手な真似をしたら心を傷付けて、地雷扱いされる可能性だってある。


 それに「〇〇」が何かを分かろうとすれば、ボク自身の「〇〇」も同時に分かってしまう。


 ボクの「〇〇」はきっと上部では言語化されていて、「〇〇」が生まれた理由を伝える論理も完璧に成り立っている。テレクラ女子高生と眠るまでの一つ一つに、理知的に証明された「〇〇」があって、それが彼女たちの「〇〇」と共鳴する。


 共鳴まで至る過程、つまり、本能のぶつかり合い。


 そこにいつからか快楽が存在していないんだ。テレクラ通いになった今も変わっていない。新しいものに飢え続けているボクの性質は、この点に現れているのではないか?


 ゲームの選択肢のように彼女たちが望んだ言葉を繋いで、彼女たちは呼応するように「感動」というシグナルを送ってくれる。カテゴライズされたテレクラ女子高生は、まるで冷たい機械のようだと言った。


 交わる過程は全て、答えの見えている結論に辿り着くためのロードマップ。手探りで進む興奮は、そこには存在し得ない。遠回りして見つけた新しい発見も、また存在し得ない。


 要するに、今のボクは「〇〇」が何かを分かっていないと言わざるを得ない。


 「上がったよ」


 少女はきっと、ボクと近い心を抱いて生きている。お互いに「〇〇」の定義を知らないまま、今に至る。


 少女の「〇〇」を知ることは、ボクの「〇〇」を知ることになる。知りたいけれど、知ってしまう怖さも隣り合わせ。


 「タオルふかふかだった、気持ちよかった」


 まぐわいの中で、ボクの「〇〇」はなし崩し的に癒されてきた。癒されるのに手っ取り早いやり方だったから、毎日のようにテレクラを求め続けた。それ以上の方法を見出す前に、「〇〇」の悲しみがボクを押し寄せてしまったから。


 少女もまた、そうやってテレクラを求めたのだろうか?


 「大丈夫?死んでる?」

 「ああ、死んでる……かも」


 意識が随分と遠くの方に行っていた。少女の手のひらはそっとボクの身体に引き戻して、思い出したかのようにタバコを灰皿に押し潰す。


 「これ、嫌じゃない?」

 「パパが吸ってたからもう慣れた」


 純粋であって欲しい少女が、タバコの薫りを染み付かせている。他の男に汚された、そんな胸糞悪い感情がフツフツと湧いてきた。「そうか……」と呟いて一つ、憎しみを込めてジッポライターをテーブルに放り投げる。


 音に体を震わせた少女を見て、つい自分の髪をぐしゃと掴んでしまう。


 「お風呂入らないの?」

 「待ってろ」


 俯いて腕を組むボクは、少女にどう映るのだろう。こんな状態の自分を晒したのは、本当に生まれてきて初めての機会だから、酷いことを言われるんじゃないかと急に心が痛む。


 ――ボクは今、少女に怯えている。


 「大丈夫? 元気ない?」

 「そうじゃない」


 回り続けた考えが、少女の瞳を見れないようにしている。視線が怖い。あの冷たい視線が、「〇〇」の存在を知らしめてきそうだから。まだ知るには心の準備がない。


 「ああ、ほら。飲み物あるから、冷蔵庫から好きなの取りな」


 ヤケになって、気を逸らそうと別の話題を振る。


 「いいよ、水が300円って……嫌だ」

 「それくらい出すから、本当に気にすんな」


 払うのには慣れているくせに、つまらない意地を張る。


 「ううん、あたしコーラ飲んだし」

 「……本当にいいんだな」


 最後は、少女の気持ちを尊重してしまう。


 「うん」

 「…………。」

 「…………。」


 続くのは、ボクが一番聞きなくなかった沈黙だった。沈黙は全ての終わり、脈なしを意味する。そうなればお互いの意思は伝わる余地がない。


 どうにかして、会話を繋げないと行けないといけない。何か言葉が出なければ。


 「……リリーちゃん」


 本心が聞きたがっていること。伝えようとすると、身体の内がひどく痛んで、音の波を喉が刻めない。


 「うん? どうしたの?」


 17歳の彼女が、ボクを見つめて純真な問いを与えてくる。いつからその答えを誤魔化すことが、正しいやり方だと納得してきた。


 躊躇っているのは何故? 本心を曝け出して、嫌われたくないから?


 「……はぁ、ふぅ、待って」


 声が鼻から漏れていく。ボクは今、熱にうなされておかしくなっている。


 「ごめん……ことば、でてこないや」


 初恋から何年もずっと、ボクは女の子と契りを交わし合った。一晩だけの慰めを手に入れるために、本当の気持ちを誤魔化してきた。


 いつからか「〇〇」の存在が大きくなって、今のボクを責め立てている。下手な言葉を漏らせば、答えを失ってしまう……そうやって、喉を潰していく。


 決められた言葉を話していれば、必ず報われてくれるゲームの繰り返しに生きている。ゲームの世界に生きたボクは、今日もまた夜を越えることが出来る。それで良いはず。


 ……震えている。手首が、瞼が、全身が震えている。


 出来ない。本当の気持ちを、こんな子に伝えられない。


 そうさせてきた過去たちが、ボクを縛っていく。あの夕焼けの丘の上で、初恋がボクを苦しめる悪魔を代弁する。



 『私の言うことだけしていれば、貴方は報われるのよ』


 『先輩っすか? 優しくて、酒が飲めて、面白い人間っスよね!』


 『君の本心なんか、私にはどうでも良いから――』




 「あ、ああ……違うんだって、その」


 無理だ。


 ボクの気持ちなんか、知らなくたって世界は回っている。歪に曲がった感情なんて、誰にも分かってくれやしない。とめどなく溢れる人生の後悔は、ボクの「〇〇」を大きくしてきた。


 だから、伝えてしまえば、傷付けることになるんだ。「分からない」――そうやって愛想笑いをして。何よりも鋭い言葉のカッターで、ボクの存在を突き刺していく。心臓が張り裂けて、血を飛ばして、死に絶えていく……。




 傷つきたくない……


 傷つけられたくない……




 「……えいっ」


 不意に背中から感じる、冷めないほとぼり。壊れた逡巡は、僅かに感じた温度の違いで、一瞬で元通りに返っていく。気付いたのは首の周りを包む、小さな二本の腕。


 「……リリー、ちゃん?」




  ――いいよ、何でも話して。




 悪魔を覗かせた初恋の声は、優しい光となって身体の髄を突き抜ける。ふわりと浮いた身体には、もう足枷の茨は巻きついていない。



 まるでそれが、神の御言葉に感じられて。



 辞めたいと願う、こんな日々の繰り返し。


 「〇〇」の存在を誤魔化すために、ボクは繰り返し相手を傷付けてきた。


 でも本当は、たった一晩だけで誤魔化せる訳が無い。


 知りたい。教えて欲しい。ボクの「〇〇」は、永久に、少女の言葉で満たされるのだろうか?


 「リリーちゃん」

 「うん?」

 「――今日、もう辞めにしないか」

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