第3話 家出少女はチーズバーガーを乞う
午後11時の表参道は、甘えた妄想を吹き飛ばすには十分だった。
フェラーリとベンツが飛び交う街に、地下鉄は何とも見栄えが悪い。それが肩書きを偽ったボクに映るようで、下唇を噛む。
リリーと名乗った少女が見つからない。ラフォーレには着いたはずなのに、清楚なデークラ嬢の姿もなければ、制服姿の少女もいない。
騙されたか? そう嘆いて薄明るい空を見上げようとした時だった。
「あの」
ボクを見上げてきたのは、身体には不相応な大きさの黒のガウン。
「はい?」
「……名前っ」
やっと少女は視線を上げて、ボクの方をしっかりと見据える。
瞬間、ボクを突き刺したのは、凍てつくような視線だった。
「…………。」
声が出ない。声を出そうとして、思考がぐちゃぐちゃになって分からなくなる。
どうして。どうして君は?
そこに居たのは、ボクの初恋の人ではない。
けれどそこに確かに、17歳の初恋が残っていて、それでいて。
同時に、ボクに似た……。
「〇〇」――それが、ボクの抱いた感情。
どうしてこの感情を、上手く言葉に出来ないんだろう?
それは取り残して、溢れていって、探したくて見失った何か。
何にも還元できない思いが、少女には備わっている。その純度が17歳のまま、ガラスのケースに仕舞われて綺麗に残っている。
不思議だ。こんなに違うはずなのに、奇妙なくらい親和した感情が襲ってくるなんて。
「……え、ごめんなさい、違いました」
「待って!!」
人違いだと見込んで、早口で焦る少女。くるりと翻った背中にボクは思いの丈をぶつける。
「リリーちゃん、だよね?」
「はい、そうです、だから……」
「ニッシーだよ、忘れたんでしょ?」
あ……と納得して、少女は安堵したのか頬を緩ませる。「はい」と優しい声色に戻って、電話越しでは叶わなかった鮮明な音がサラウンドになって響く。
「良かった、思ってた通りだったから、あたし、違うはずないって信じてたから」
「どういうこと?」
「多分こんな人だろうなって、声でそう思って」
どんな推測だったのだろう。それは少女にしか分からないことだし、ボクの統計的な分析だけでは、どうにもならない瞬間があることは経験上分かっている。その推測を押し付ける真似をしても良いのだが、今のボクには出来る気がしない。
少女もまた、ボクと同じ親密さを感じているのだろうか? 気になってならない。
「思っていた通り」の言葉には、淡い期待が包まれているのだろうか?
「そっか。ボクはどっちも……かな」
「どっちも?」
「予想は合ってたし、外れもした」
ボクの予想は、それこそあの当時の初恋の彼女だった。絶対に当たるはずはないけれど。
片田舎で出会ったボクたちは、まだ高校という閉鎖的な監獄に閉じ込められていた。垢抜けていない、芋クサい、だけどそれが純真だったことは間違いない。
後ろに一つでくくった黒髪の束が揺れて、瞼にはラメの嘘くさい輝きもない。薄ピンクのふっくらとした唇が彼女のトレードマークだった。
そんな彼女と一緒で、嘘くさい飾りは少女の肌を覆っていない。テレクラという媒体に対して、無意識に求めていた「イメージ」としての少女なら完璧だろう。
「嫌いになったの?」
「ううん。ボクの好み」
瞳を閉じて耳を澄ませば、やはり彼女が其処にいる様で、こそばゆい感覚がする。僅かにタクシーの光を感じて目を開けると、少女に初恋の面影を映すことができる。完全に一致することはないが。
「ありがと……あたしもニッシーのこと、好き」
「あらら?」
どういう風の吹き回しで、こんなに素っ頓狂な返事をしたのだろうと思う。
「意味分かんない、その返事」
「分かんなくていいって」
ふざけた言葉で軽くあしらわれたと思ったのだろうか、少女は頬を膨らませて不機嫌そうな表情を浮かべる。「ごめん」と付け足しといて、やっと元通りになった。
「……寒いし行こうか」
照れ臭くなってボクは話を切り出す。終わったクリスマスに取り残されたような宮益坂を背景にして、あてどなく歩みを進めようとする。
「あたし、まだご飯食べてない」
ぶっきらぼうに話してしまったから、少女は
「カフェとかバーでも空いてないかな」
「バー?」
「バーじゃつまらないよな、パブにでもする?」
ところが、少女の答えはあまりにボクの想定の枠外にあった。
「ううん、マックでいい」
やっとボクは悟った。様々なヒントが散りばめられていたのにも関わらず、今になって。
――家出少女。それもテレクラに、この穢れた世界に、まだ慣れていない。
「サブロクセット、安いし」
「そんなのでいいの?」
「でも、夜に空いてるのこれくらいしか……他なんて分からないし……」
そうだ、質素な顔たちも、慎ましやかな服装も、全部そういうことだ。家を出て頼れる先も分からないで出てきたから、取り敢えず電話ボックスで見つけた番号にかけてみた、と。
これは、年の瀬にとんでもない掘り出し物を当ててしまった。
少女の言葉が正しいなら、母の目を盗んで父が不倫をしている、それで居場所がないということだ。どこまでが真意かは分からないけれど、バーとかパブの選択肢を与えてマックを頼むような子が、巧妙な嘘をつけるとは言い難い。
「じゃあ、そうするか」
「あ……お金どうしよう、もうない」
「気にすんな、これくらい奢るよ」
お金がない? そんなの分かりきった前提で話は進むはず。何を今更聞き直したのだろう。
「本当にいいの?」
「いいよ別に。黙って奢られてて」
「違うよ」
ぶんぶんと首を横に振る。どんな奇妙な問いかけが来るのだろうか?
「あたし、ハンバーガーじゃなくて、チーズバーガーにしちゃってもいいの?」
実に素朴なものだった。逆に意味が分からなくなって、やっと言葉を反芻して理解する。
「それ……同じ値段」
サブロクセットなら、フィレ・フィッシュも同じなはず。朧げな記憶が確かなら。
「え、でもでも、こういうのって遠慮した方がいいって」
「別に払う分変わらないし。じゃあハンバーガーにしとく?」
「……チーズバーガー」
声をポツリと漏らした少女は、俯いて口元を歪ませる。微かに耳が赤いことに気付いて、ボクは少しだけからかってみる。
「チーズ、欲しいんだね?」
「あるとないじゃ違うじゃん……」
「うんうん、それでいいよ」
如何にも等身大の17歳の少女を目にして、思わず空を仰いで肩をすくめた。こんなに現金な女の子なんて、東京のど真ん中の煌びやかな場所に居るとは思っていなかったから。
見上げたのは、東京のくすんだ夜空。ボクはもう慣れてしまったし、空を見上げる機会も少なくなっていった、頑張って星の輝きを思い出そうとするけれど、上手く光が掴めない。
17歳の朧げな記憶、それは彼女と過ごした、部活が終わった放課後の場面。
高校の近くには娯楽もなくて、偶然一番近かったマックがボクたちの溜まり場だった。久しく行っていないこともあって、当時の味から変わっていないか気になる。
あの日々は、東京の薄汚れた喧騒を知らなかった。憧れを憧れとして抱いていて、その裏の汚い部分を知らないでいた。無知でいられた。
リリーと名乗った少女は、その頃のような純粋さのまま生きられている。やはりこの点は、最初に抱いた印象から揺るがないでいる。素朴で飾らない少女の姿を、またこうして間近に見られる機会は貴重だと改めて感じる。
それでも、彼女にはなくて、ボクにはある何かが、少女にはある。
それが「〇〇」として感覚にずっと残り続けて、脳にまでは届かない。
ボクとは違う存在なようで、同じ存在。二つの境界の繊細な部分に、少女は居る。
壊れやすいからこそ、少女が伝える言葉に乗る感情にも、人以上の重みが現れる。
また目を閉じて、さっきのシーンを反芻する。
「好き」
それだけの言葉は幾らでも言われてきたし、幾らでも伝えてきた。彼女とも交わし合った言葉なら、今更照れ隠しする必要はないのに。
なら、ここまでの重みがあったと気付かされたのは……今まで聞いてきた少女の声は、声に映った彼女の姿では描ききれない何かあったから?
「好き」
そうだ、彼女の声に近いけれど、これは少女の声。彼女では映しきれない、何か別の「〇〇」があるような気がする。
違和感があることに気付けた、ボクの中では大発見だった。何が違うかはまだ上手に形容出来ない。だとしても、あの時に呟いた「好き」は……ボクの心を照らして消えなくなっている。心の片隅に追いやったガラクタが、音を立てて動き出す感覚がした。
「……ボクはハンバーガーにしよう」
鼻先が刺されるように痛む。気が付けば回ろうと急ぐ日付を迎えていた。
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